春秋時代150 東周霊王(十三) 楚共王の死 前561~560年

今回は東周霊王十一年からです。
 
霊王十一年
561年 庚子
 
[] 春三月(または「二月」)、莒が魯の東境を攻撃し、台(または「邰」)を包囲しました。
魯の季孫宿(季武子)が台を援けて莒国の鄆(または「運」)に入り、鐘を奪って襄公の盤(食器)にしました。
 
[] 夏、晋悼公が士魴(または「士彭」)を魯に送って聘問し、前年、鄭討伐に協力したことを謝しました。
 
[] 秋九月、呉の寿夢が在位二十五年で死にました。
 
以下、『史記・呉太伯世家』からです。
寿夢には四人の子がいました。諸樊呉子・遏。または「謁」。遏が名で諸樊は号)、餘祭、餘眛(または「夷眛」「夷末」)、季札です。このうち季札が賢人だったため、寿夢は後継者に選びたいと思いました。しかし季札は辞退します。そこで長子の諸樊が政事を行うことになりました
 
[] 呉の寿夢が死んだと知って、魯襄公は周廟(周文王廟)で哭礼を行いました。
当時の諸侯の喪では、異姓の諸侯が死んだ場合は城外で哭を行い、同姓なら宗廟(周廟)、同宗(開国の祖が同じ)なら祖廟、同族(高祖が同じ。高祖は曽祖父の父)なら禰廟(父廟)で哭すことになっていました。魯は呉と同じ姫姓なので周廟で哭しました。
魯国の始祖にあたる周公・旦の子孫の国、例えば邢・凡・蒋・茅・胙・祭等の場合は、周公の廟(祖廟)で哭すことになります。
 
[] 冬、楚の子囊(公子・貞)と秦の庶長(爵名)・無地が宋を攻撃して楊梁に駐軍しました。
前年、晋と鄭が講和したため、報復の戦争です。
 
[] 周霊王が斉に王后を求めました。斉霊公は晏弱(晏桓子)にどう回答したらいいか訊ねます。晏弱が言いました「先王の礼辞があります。天子が諸侯に后を求めたら、諸侯はこう答えるものです『夫婦(夫人)が産んだ子が何人おります。妾婦(妾)が産んだ子が何人おります。』もしも娘がないなく、姉妹や姑姉妹(父の姉妹)がいる場合には、こう言います『先守(先君)・某公が残した女が何人います。』」
斉霊公が婚姻に同意したため、周霊王は大夫・陰里を派遣して結言(口頭の約束)しました。
 
[] 魯襄公が晋に朝見しました。士魴の聘問に謝すためです。
 
[] 秦嬴(秦景公の妹)は楚共王に嫁いでいました。いつの事かは分かりません。
この年、楚の司馬・子庚(楚荘王の子・午)が秦を聘問し、秦嬴も同行して秦の実家を訪ねました。
 
 
 
霊王十二年
560年 辛丑
 
[] 春、魯襄公が晋から帰国しました。
魯の仲孫蔑(孟献子)が宗廟で襄公の功績を記録しました。
 
[] 夏、国が乱れて三分しました。「」は「詩」「寺」とも書き、妊姓の附庸国(公侯伯子男の五爵の下の国)です。
魯が兵を出してを取りました
 
[] 晋の中軍の将・荀罃と下軍の佐・士魴が死にました。
晋悼公は緜上で蒐(狩猟・軍事演習)を行って軍政を整え、中軍の佐・士范宣子)を将に昇格させようとしました。しかしは辞退してこう言いました「伯游(荀偃の字。上軍の将)は私より年上です。今までは臣が知伯荀罃。知罃)をよく理解していたため、中軍の佐を勤めてきました。決して臣が賢能だったからではありません。臣を伯游に従わせてください。」
こうして荀偃が中軍の将に任命されました
 
悼公は荀偃の代わりに韓起を上軍の将に任命しようとしましたが、韓起は趙武に譲りました。
悼公は欒黶を選ぼうとしましたが、欒黶もこう言いました「臣は韓起に及びません。その韓起が趙武を推したのです。主君はそれに従うべきです。」
こうして新軍の将・趙武が上軍の将に大抜擢されました。
士魴の代わりには新軍の佐・魏絳が選ばれて下軍の佐になります。
整理すると、中軍の将は荀偃、佐は(変わらず)、上軍の将は趙武、佐は韓起(変わらず)、下軍の将は欒黶(変わらず)、佐は魏絳です。
 
新軍に将佐がいなくなり、相応しい人選もなかったため、什吏(十吏。五吏の補佐官。五吏は軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄)に新軍の卒(歩兵)・乗(車兵)と官属を統率させて、下軍に従わせることにしました。
 
の謙譲によって下の者も譲り合い、晋の将佐は団結できるようになりました。
統治者達の美徳は民衆にも拡まり、晋の民は和して、諸侯も晋に帰心するようになったといいます。
 
[] 楚共王が宮楼を建てることにしました。完成する前に鹿が楼を登りました。
やがて共王が病にかかりました(鹿が楼を登ったこととどういう関係があるのか分かりません)
共王が大夫に言いました「不穀(国君の自称)は不徳でありながら、幼少にして社稷の主となった。生まれて十年で先君(荘王)が死に、師保(太師・少師・太傅・少傅・太保・少保。太子の教育官)の教訓を受ける間もなく多福を受けることになった(即位することになった)。しかしその不徳のために、師(軍)を鄢で亡ぼし、社稷を辱め、大夫の憂いを招いてしまった。この罪は大きい。もしも大夫の霊(保護)によって首領(頭)を保ったまま地に歿し(誅殺されることなく)、春秋(祭祀)・窀穸(葬儀)において禰廟(父廟)で先君に従うことができるなら(国君として死に、諡号をもらって宗廟に入ることができるようなら)、『霊』か『厲』の諡号をつけてほしい。」
「霊」も「厲」も国を乱した主君につける悪諡です。
共王に応える大夫が居ないため、共王は五回命令を繰り返し、やっと大夫を同意させました。
 
秋九月庚辰(十四日)、楚共王が在位三十一年で死にました。
子囊が諡号を考えると、大夫が言いました「国君の命令があります。」
子囊が言いました「君命は共(恭。恭敬・謙虚な態度)によって発せられた。『共』を損なうわけにはいかない。赫赫たる楚国に国君が臨み、蛮夷を鎮撫し、南海を遠征し、諸夏(中原。ここでは楚)に従わせた。しかも自分の過ちを知ることができた。これこそ『共』というものだ。諡は『共』にしよう。」
大夫はこの意見に賛成しました。
「共」は「恭」に通じ、諡号法では「過ちを犯しても改めることができる」という意味を持ちます。共王は恭王とも書かれます。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公十三年)』と『資治通鑑外紀』を元にしました。『国語・楚語上』にも記述があります。
恭王(共王)が病に倒れたため、大夫を集めて言いました「不穀は不徳のため、先君の業(覇業)を失い、楚国の師を大敗させてしまった。これは不穀の罪である。もしも首領を保って死ぬことができ春秋において先君に従うことができるのなら(宗廟に入ることができるのなら)諡号を『霊』か『厲』にせよ。」
大夫は同意しました。
恭王が死に、葬儀が行われました。子囊が諡号を相談します。大夫が言いました「王の命があります。」
しかし子囊はこう言いました「国君に仕える者は、まずその善を挙げるものであり、過ちを優先してはならない。赫赫たる楚国に主君が臨み、南海を撫征し、訓(教令)は諸夏(中原諸国)に及んだ。その栄誉は大きい。しかも大きな栄誉がありながら、過ちを知ることもできた。これは『恭』というべきではないか。主君の善を優先し、『恭』を諡号とするべきだ。」
諸大夫は子囊の意見に同意しました。
 
共王の子・招(または「昭」)が跡を継ぎました。これを康王といいます。
『説苑・建本(巻三)』に恭王(共王)が太子を立てた時のことが紹介されています。
楚恭王には寵子が複数居り、世子を決めることができませんでした。
屈建が言いました「楚は必ず多乱になるだろう。例えば一兔が街を奔った時、万人がそれを追うが、一人が兎を得たら万人は追うのを止める。獲物の分け方が決まっていない時は、一兔が奔ったら万人が慌てるが、既に定められたら、どれだけ貪欲な者でも動かなくなるものだ。今、楚には寵子が多いのに嫡位には主がいない。乱はここから生まれるはずだ。世子とは国の基(基礎)であり、百姓の望である。国に基がなく百姓を失望させたら、国の本(根本)を絶つことになる。本が絶たれたら乱が生まれる。兔が街を奔るのと同じだ。」
これを聞いた恭王は康王招)太子に立てました。しかし後に令尹・囲(後の霊王)と公子・棄疾(後の平王)の乱を招きます。令尹・囲も公子・棄疾も共王の子です。
 
尚、『史記・十二諸侯年表』を見ると、「楚共王の太子が呉に出奔した」と書かれています。しかし『史記・楚世家』にはこれに関する記述がなく、この太子が誰を指すのかわかりません。
 
[] 呉が楚を侵しました。
楚の養由基(養叔)が率先して迎え討ち、子庚(公子・牛。司馬)が軍を率いて続きます。
養由基が言いました「呉は我が国の喪に乗じて侵攻しました。我々が戦えないと思っているからです。そのため、我々を軽視し、警戒を怠っているでしょう。子(あなた)は三カ所に兵を隠し、私を待ってください。私が彼等を誘い出します。」
子庚はこれに従い、庸浦(楚地。長江北岸)で呉軍に大勝しました。呉の公子・党が捕えられます。
 
[] 冬、魯が防(東防)に築城しました。
本来はもっと早く築城を開始する予定でしたが、臧孫紇(臧武仲)が農事の終了を待つように進言したため、冬の工事になりました。
 
[] 鄭の良霄(伯有。公孫輒の子)と大宰・石●(「毚」の下の「兎」が「大」)は楚に捕えられていました(東周霊王十年・前562年参照)
石●が楚の子囊に言いました「先王は一回の出征のために五年続けて卜を行い、毎年続けて吉祥が出たらやっと出征しましたが、一年でも吉祥が出なかったら、徳を治めてから改めて卜を始めたものです。今の楚は確かに不競(競争力がない。強国と対等に戦うことができない)ですが、行人(使者。良霄等)何の罪があるのでしょうか(楚が弱くなったのは、軽率に戦争を繰り返し、徳を修めないことに原因があります)。鄭の一卿良霄)を留めても、鄭君に対する威逼(圧力)を除き(良霄は鄭簡公に対して強い発言権を持っていたようです)、鄭国の上下を和睦させ、楚を憎ませて晋との関係を強化させるだけです。これで貴国に利がありますか?彼を帰らせれば、使者の任務を全うできなかった彼は(帰国後に軽んじられるので)、鄭君を怨み、大夫を憎み、互いに牽制するようになります。その方が貴国にとって都合がいいのではありませんか?」
楚は納得して良霄を釈放しました。
 
 
 
次回に続きます。