春秋時代151 東周霊王(十四) 遷延の役 前559年(1)

今回は東周霊王十三年です。二回に分けます。
 
霊王十三年
559年 壬寅
 
[] 春正月、呉が前年、楚に敗れたことを晋に報告しました。
そこで、晋の士魯の季孫宿(季武子)と叔老、斉の崔杼、宋の華閲と仲江、衛の北宮括(懿子)鄭の公孫蠆および曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人が向呉地。または鄭地)に集まり、呉と会見して楚討伐を謀ることになりました。
ところが晋の范宣子)が呉の不徳(楚の喪中に進攻したこと)を譴責し、呉人を拒絶したため、楚討伐は中止になりました。
 
この会で莒の公子・務婁が捕えられました。莒が楚との間で使者を往来させていたためです。
 
晋が戎子・駒支を捕えようとし、士が自ら朝位(会見の場所に造られた朝廷)で言いました「姜戎氏よ、昔、秦人が汝の祖・吾離を瓜州に駆逐したため、汝の祖・吾離は粗末な服をまとい、荊棘をかぶって我が先君に帰順した。そこで我が先君・恵公は、多くない田を汝の祖と分け合ったのだ。今、寡君(晋悼公)に従う諸侯は昔ほどではなくなった。これは言(情報)に漏洩があるからであり(晋に隣接する戎が悪い情報を流しているためであり)、汝に責任がある。明朝の会に汝が参加する必要はない。汝が来るようなら、捕えることになる。」
戎子が答えました「昔、秦人が衆に頼って土地を貪り、我々諸戎を駆逐しました。これに対して恵公は大徳を示し、諸戎は四嶽(帝堯時代の方伯。姜姓)の後裔であると言って、我々を棄てようとせず、南境の田(地)を与えました。そこは狐狸が住み、豺狼が吠える地でしたが、我々諸戎は荊棘を伐り除き、狐狸・豺狼を駆逐し、(晋の)先君に対して不侵不叛の臣となり、今に至るまで二心を抱いたことはありません。昔、文公が秦と共に鄭を攻めた時、秦人は秘かに鄭と盟して(守備兵)を配置したため、殽の師を招きました。しかし晋が上を守り、戎が下で抵抗したから、秦師は還ることができなかったのです。まさに我々諸戎の力による勝利です。鹿を捕える様子に喩えたら、晋人はその角をとり、諸戎が後ろ脚をつかまえて、晋と共に倒しこむようなものです。それなのになぜ戎が譴責を受けなければならないのでしょうか。あの時以来、晋の百役に我々諸戎が遅れたことはなく、殽の役と同じように一心になって従ってきました。なぜ晋に背くことがあるでしょう。今、恐らく官(晋)の師旅(執政)自身に欠陥があり、諸侯の離反を招いていますが、その罪を我々諸戎の着せるのですか。我々諸戎は飲食も衣服も華(中原)と異なり、贄幣(財礼)の往来もなく、言語も通じません。どうして悪事を働けるのでしょうか。会に参加できないからと言って、我々の憂いにはなりません。」
戎子は『青蠅詩経・小雅)』を賦して去りました。君子は讒言を信じないという内容です。
は戎子に謝罪して、会見に参加させました。
 
この会見では、魯の子叔斉子(叔老。子叔が氏。斉子は恐らく字)が季孫宿の介(補佐)として参加しました。子叔斉子の振る舞いが礼にかなっていたため、晋はこの後、魯の幣(魯から晋に贈る貢物)を減らし、魯の使臣を敬うようになりました。
 
[] 呉子諸樊は父・寿夢の喪が明けてから、弟の季札に位を譲ろうとしました。しかし季札が辞退して言いました「曹宣公が死んだ時、諸侯と曹人は曹君(成公)を不義とみなして子臧を立てようとしましたが、子臧が去ったため曹君が即位しました東周簡王八年・前578年参照)君子は子臧を『節を守ることができる』と言って称えたものです。主君は義嗣(正当な後継者)です。誰が主君を侵すことができるでしょう。国を持つのは私の節ではありません。私は不才ですが、子臧に従って節を失わないようにしたいと思います。」
諸樊が強く即位を要求しましたが、季札が家財を棄てて農耕を始めたため、あきらめました。
 
[] 二月乙未朔、日食がありました。
 
[] 夏四月、晋の荀偃(中軍の将)、魯の叔孫豹(穆子)、斉の崔杼、宋の華閲と仲江、衛の北宮括、鄭の子蟜公孫蠆)および曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人が会して秦を討ちました。櫟の役(東周霊王十年・前562年)の報復です
晋悼公は国境で待機し、六卿が諸侯の軍を率いて進軍しました。連合軍は秦軍を破って涇水に至りましたが、川を渡ろうとしません。晋の叔向が魯の叔孫豹に会うと、叔孫豹は『匏有苦葉詩経・邶風)』を賦しました。叔向は叔孫豹に渡河の意志があると知り、退出してから舟の準備を始めます。
 
この時の事を『国語・魯語下』が少し詳しく書いています。
諸侯が涇水を渡ろうとしないため、晋の叔向が魯の叔孫穆子(叔孫豹)に会って言いました「諸侯は秦が不恭なので討伐を始めたが、涇水に来たら進軍を止めてしまった。討秦に何の意味があるのだろう。」
穆子が言いました「豹(私)に関して言えば、『匏有苦葉』です。他の事は知りません。」
『匏有苦葉』は川を渡って来るはずの恋人を待つ女性の心を描いた詩で、「深則厲,浅則揭」とあります。「厲」の意味が分からないので直訳できませんが、水が深くても浅くても川を渡ると言っています。
叔向は退出してから舟虞(舟を掌る官)と司馬(兵を掌る官)を集めて言いました「苦匏(瓢箪)は人に食べられることがなく、川を渡るときだけに使われる(瓢箪は浮き具になりました)魯の叔孫が『匏有苦葉』を挙げたのは、川を渡るつもりだからだ。汝等は舟を準備し(舟虞)、道を開け(司馬)。怠った者には法(刑)を用いる。」
以上が『国語』の記述です。
 
魯と莒が先に涇水を渡り始めました。
すると鄭の司馬・子蟜が衛の北宮括に会って言いました「人と共に行動しながら意志をはっきりさせないのは、最も嫌われます。そのようなことで、社稷をどうするつもりですか。」
北宮括は納得し、二人で他の諸侯(斉・宋・曹・邾・滕・薛・杞・小邾)にも渡河を勧めました。
連合軍は次々に涇水を渡って陣を構えます。
ところが秦軍が涇水の上流で毒を流したため、多くの兵が犠牲になりました。
 
鄭の子蟜が鄭軍を率いて進軍すると、諸侯もそれに続き、棫林(秦地)に至りました。
史記・晋世家』には「秦軍に大勝して棫林に至り、兵を還した」とありますが、『春秋左氏伝(襄公十四年)』には晋の大勝が見られず、「秦は諸侯の軍に屈しなかった」と書いています。
 
棫林で荀偃が全軍に命じました「鶏が鳴いたら進め。井戸を埋めて竃を平らにせよ(布陣のためです)。わしの馬の首だけを見て進め(唯余馬首是瞻)!」
ところが下軍の将・欒黶は「晋国の命でこのようなもの(馬首是瞻)はあったことがない。余の馬首は東(晋の方向。西は秦です)を欲している」と言って帰ってしまいました。下軍がこれに従います。左史(従軍して記録する官)が下軍の佐・魏絳荘子に言いました「中行伯(荀偃)を待たなくてもいいのですか?」
魏絳が答えました「夫子(荀偃)は帥に従うように命じた。欒伯(欒黶)は我々の帥だ。わしはそれに従う。帥に従うことが夫子の命に応じることにもなる。」
 
下軍の撤兵を知った荀偃は「わしの命令に誤りがあった。後悔しても及ばない。多くの兵馬を留めても、秦の虜になるだけだ」と言って、全軍に退却を命じました。
晋人はこの戦いを「遷延の役」とよびました。「遷延」というのは先延ばしにして成果が上がらないという意味です。
 
欒黶の弟・欒鍼が言いました「今回の役は櫟の敗戦に報いるために始めました。しかしまた功を立てることができないのは、晋の恥です。我々兄弟二人とも戎路(軍中)にいながら、恥を受けるわけにはいきません。」
欒鍼は士の子・士鞅を誘って秦軍に攻め入ります。その結果、欒鍼は戦死し、士鞅は生還しました。
弟の死を嘆いた欒黶が士に言いました「わしの弟は行くつもりがなかったのに、汝の子が誘ったのだ。わしの弟は死に、汝の子は帰って来た。汝の子がわしの弟を殺したようなものだ。彼を放逐しなければ、わしが彼を殺す。」
士鞅は秦に奔りました。
 
秦景公が士鞅に問いました「晋の大夫で誰が先に亡ぶと思うか?」
士鞅が答えました「欒氏でしょう。」
景公が言いました「横暴だからか?」
士鞅が答えました「その通りです。但し、欒黶の横暴は甚だしいものですが、滅亡から逃れることができます。欒盈(欒黶の子)の代になってからでしょう。」
景公がその理由を聞くと、士鞅はこう言いました「武子(欒書。欒黶の父)の徳は民にあり、周人が召公西周初期の賢臣・召公奭)を想ったように愛されていました。召公への想いは甘棠にも及びました(召公は甘棠の木の下で訴訟を聞いたため、召公の死後、人々は召公を想って甘棠の木を伐らずに守りました)。子に対してならなおさら深い想いが及ぶはずです(だから欒書の子・欒黶の代はまだ安泰です)。しかし欒黶が死んだら、その子・欒盈の善が人に及ぶ前に祖父・武子の施徳が消滅するでしょう。人々の欒黶に対する怨みは明らかです。よって(欒書の孫、欒黶の子の)欒盈の身に禍が及ぶはずです。」
景公は士鞅の見識を認め、晋に対して士鞅の帰国を受け入れるように求めました。士鞅は暫くして晋に帰ります。
 
[] 衛献公が孫林父(文子)と甯殖(恵子)を食事に誘いました。二人とも朝服を着て朝廷で献公を待ちます。しかし日が暮れようとしても献公は二人を招かず、囿(林園)で鴻(雁)を射て遊んでいます。二人は献公に従うことにして囿に行きました。二人に会った献公は皮冠(白鹿の皮で造った狩猟用の帽子)も脱がずに話しかけます。正装である朝服を着た臣下に会う時は、主君も皮冠を脱ぐことが礼とされていたようです。
二人は献公の無礼を怒りました。
孫林父は食邑の戚に去ります。
 
孫林父の子・孫蒯が入朝すると、献公は酒宴を開いてもてなし、大師(太師。楽官の長)に『巧言詩経・小雅)』の末章を歌わせました。「彼は何者だ。黄河の辺に住んでいる。拳も勇もないのに、乱の根源になっている(彼何人斯,居河之麋。無拳無勇,職為乱階)」という内容で、孫林父を非難することが目的です。
大師は歌を辞退しましたが、師曹が買って出ました。かつて(東周霊王八年・564年)、献公には嬖妾(寵妾)がおり、師曹に琴を教えさせましたが、師曹が妾を鞭で打ったため、怒った献公が師曹を三百回鞭打ちしたことがありました。献公を怨んでいる師曹は『巧言』を歌うことで孫林父を怒らせて、復讐しようと考えています。
それを知らない献公は師曹に歌わせました。孫蒯は歌を聞いて恐れを抱き、帰ってから孫林父に報告しました。
孫林父が言いました「国君がわしを嫌っている。先に動かなければ、殺されるだろう。」
孫林父は国都・帝丘と食邑・戚の家衆を全て集めてから、帝丘に入りました。
 
孫林父は帝丘で蘧伯玉に遭遇しました。孫林父が言いました「主君の暴虐はあなたも知っていることだ。わしは社稷の傾覆を恐れる。あなたはどうするつもりだ。」
蘧伯玉が答えました「国君がその国を制しているのです。臣が敢えて犯す必要がありますか。国君を犯したとしても、新君が旧君よりも優れているとはかぎりません。」
蘧伯玉は禍を避けるために孫林父から離れ、最も近い関を通って国を出ました。
 
 
 
次回は衛の内乱です。