春秋時代152 東周霊王(十五) 衛献公出奔 前559年(2)

今回は東周霊王十三年夏四月の続きからです。衛で内乱が起きます。
 
[(続き)] 孫林父の勢力を恐れた献公は子蟜、子伯、子皮(三人とも衛の公子)を送って丘宮(都内)で孫林父と会盟させようとしましたが、孫林父は三人とも殺してしまいました。
己未(二十六日)、献公の弟・子展が斉に奔り、献公は鄄に入りました。そこで子行を送って孫林父に和を請います。しかし孫林父は子行も殺しました。
献公は斉に逃走し、孫林父が追撃して河沢(または「阿沢」「柯沢」)で献公の兵を破りました。鄄の人々が敗残兵を捕えます。
 
以前、尹公佗は庚公差(字は子魚)に射術を習い、庚公差は公孫丁に射術を習いました。孫林父が挙兵した時、尹公佗と庚公差が献公を追撃し、公孫丁が献公の御者を務めています。
庚公差が言いました「矢を射たら師に背くことになる。射なければ戮を招く(殺される)。射ることが礼に合っているはずだ。」
庚公差は左右両方の(馬の首と馬車をつなぐ部分)に矢を命中させて退き返しました。
しかし尹公佗は「あなたにとっては(公孫丁は)師ですが、私からは遠い関係です」と言って、献公の追撃を続けました。
公孫丁は献公に手綱をあずけ、尹公佗に向かって矢を放ちます。矢は尹公佗の腕を貫きました。
 
子鮮(献公の同母弟)が献公に従って国境に至りました。献公は祝宗に命じて祖先に亡命を報告させます。この時、献公の無罪も訴えようとしました。
定姜(衛定公の夫人。献公の嫡母。献公の実母は敬姒)が言いました「もしも神がいないのなら報告しても無駄です。もしも神がいるのなら、偽ってはなりません。あなたには罪があるのに、なぜ無罪と報告するのですか。大臣を棄てて小臣と謀ってきたのが一つ目の罪です。先君は冢卿(正卿)を師保としたのに、あなたは軽視しました。これが二つ目の罪です。私は巾櫛をもって先君につかえてきたのに、あなたは私を妾(婢妾)のように遇してきました。これが三つ目の罪です。亡命だけを報告しなさい。無罪を訴える必要はありません。」
 
魯襄公が厚成叔(厚孫。厚が氏。または「后」「郈」。魯孝公が恵伯・革を産み、その子孫が厚氏を名乗りました)を衛に送りました。厚成叔が献公不在の衛朝廷で言いました「寡君(魯襄公)が瘠(厚成叔の名)を派遣したのは、貴国の主君が社稷を失って他境を流亡していると聞いたからです。慰問しないわけにはいきません。寡君は同盟の関係にあるので、瘠を送って執事(衛献公の臣下。諸大夫)にこう伝えさせました『(衛の)国君は不善で臣下は不敏(聡明ではないこと)である。しかも、国君は寛大ではなく、臣下も職責を果たさない。怨みが久しく積もり(孫林父は衛定公の頃から対立が始まっていました。東周簡王二年・前584年、簡王九年・前577年参照)、ついに発散された。(衛の諸大夫は)どうするつもりだ?』」
衛は大叔・儀(太叔。世叔。諡号は文子)を魯に送って答えました「群臣が不才で寡君(衛献公)の罪を得ましたが、寡君は刑を用いることなく、群臣を棄てて去りました。それが貴君を心配させています。貴君は先君の誼を忘れず、群臣を慰問し、哀憐をくださりました。慰問を感謝し、哀憐に拝謝いたします。」
厚成叔が帰国して臧孫紇(臧紇。臧武仲)に衛の様子を話すと、臧孫紇はこう言いました「衛君は帰ることができるだろう。大叔儀が国内を守り、母弟の鱄(子鮮)が国外で衛君に従っている。国内を按撫する者と国外を経営する者がいるのだから、帰国できないはずがない。」
 
斉は衛献公を郲(旧莱国。これは『春秋左氏伝』の記述。『史記・衛康叔世家』では「聚邑」に住ませました。十二年後、やっと帰国することになった献公は郲の食糧を持ち還りました。
 
右宰・穀(衛の大夫)が献公に従っていましたが、衛に逃げ帰りました。衛人が穀を殺そうとすると、穀はこう言いました「私は喜んで従ったのではありません。狐裘を着て羔袖をつけました(狐裘而羔袖)。」
「狐裘而羔袖」は難しい表現です。楊伯峻の『春秋左伝注』には二つの解釈が紹介されています。狐裘は狐の毛で作った貴重な服で、ここでは善を表します。羔袖は子羊の毛で作った粗末な袖で、ここでは悪を表します。「狐裘而羔袖」を直訳すると「全身は狐裘を着て、腕だけ羔袖を着た」なので、「善が多く悪は少ない」、つまり「衛献公に従ったが罪は多くない」という意味に解釈できます。
もう一つは、「狐裘なのに羔袖がついている」という解釈で、「根本と末端が異なる」「衛献公と右宰・穀は一心ではなかった」という意味になります。
右宰・穀は赦されました。
 
衛人は公孫剽(子叔。穆公の孫)を国君に立てました。これを殤公といいます。孫林父と甯殖が相になりました。
史記・衛康叔世家』によると、即位した殤公孫文林父宿に封じました

尚、公孫剽というのは『春秋左氏伝』の記述で、衛穆公の孫なので公孫といいます。しかし『史記・衛康叔世家』は定公の弟・秋としており、『史記』の注集解は献という説も載せています。
「剽」と「」の古音は近かったようです。また、「」と「秋」は書き間違えたのかもしれません。
穆公の子が定公、定公の子が献公なので、『史記』にあるように定公の弟だとしたら穆公の子(公子)になります。
 
衛献公が郲にいるため、魯の臧孫紇が斉に入って献公を慰問しました。しかし献公の態度が粗暴だったため、退出した臧紇が部下に言いました「衛侯は国に帰れないだろう。その言は糞土に等しい。亡命しながら態度を改めないようで、復国できるはずがない。」
それを聞いた子展と子鮮が臧孫紇に会いました。二人の話は道理にかなっています。喜んだ臧孫紇が部下に言いました「衛君は国に入ることができる。あの二子は、あるいは引き、あるいは推すことができる。(彼等がいれば)国に帰れないはずがない。」
 
[] 秦を討伐した諸侯の軍が帰国しました。
 
前年、晋の中軍の将・知罃(荀罃)と下軍の佐・士魴が死にました。
晋の知氏は、知首(荀首。荘子、知罃(武子)と継承されました。知罃は知朔を産み、知朔は知盈を産みます。知盈が六歳の時、知罃(中軍の将)が死にました。それ以前に知朔も死んでいたため、幼い知盈では官職を継ぐことができません。
当時は士魴の子・彘裘もまだ幼かったため、新軍を統率できる人材がいませんでした上軍の将・荀偃が中軍の将になり、新軍の将・趙武が上軍の将になり、新軍の佐・魏絳が下軍の佐になっていました。前年参照)
そこで晋悼公は新軍を廃止しました。
周代の軍制では、「王六軍、大国三軍、次国二軍、小国一軍」と決められていたため、新軍を廃して三軍に戻した晋は礼があると評価されました。
 
[] 師曠(楽師・子野)が晋悼公の近くに仕えていました。
ある日、悼公が問いました「衛人はその君を追い出したが、やり過ぎではないか。」
師曠が答えました「あるいはその君がひどかったのでしょう。良君は善を賞して淫(悪)を罰し、民を我が子のように養い、天のように覆い、地のように受け入れるものです。だから民はその君を奉じ、父母のように愛し、日月のように仰ぎ、神明のように敬い、雷霆のように恐れるのです。このようであれば国君が民に駆逐されることはありません。国君とは神の主(祭祀の主催者)であり、民の望でもあります。民の財を窮乏させ、神の祭祀を失わせ、百姓が絶望し、社稷に主がいなくなったら、国君は必要なくなります。放逐されるのも当然でしょう。天が民を生み、その君を立てて統治させるは、民の性(天性。本質。民の業)を失わせないためです。主君を立てて貳(卿佐)を置くのは、彼等に主君を師保(教育・保護)させて過度を防ぐためです。だから天子には公がおり、諸侯には卿がおり、卿には側室がおり、大夫には貳宗がおり、士には朋友がおり、庶人・工・商・皁・隸・牧・圉も皆親しくして互いに輔佐するのです。善であれば賞し、過失があれば正し、患があれば救い、失(欠陥)があれば改めるのです。王以下、それぞれの立場の者が、父兄子弟の観察を受けて過ちを補うのです。史(太史)は書に記録し、瞽(楽師)は詩を賦し、工(楽工)は箴諫(戒め諫める言葉)を詠み、大夫は教導し、士は言を伝え(士は身分が低いため、国君の過失を見つけたら大夫に伝えました)、庶人は謗し(国君の過失を指摘して話しあい)、商旅(商人)は市で議論し、百工は技芸を献じます。だから『夏書尚書・胤征)』には『遒人政令を伝える官)木鐸をもって路を巡り、官師(一官の長)は互いに戒めあい、工匠は技芸を使って諫める』とあるのです。正月孟春(初春)に遒人が路を歩くのは、常道を失ったことを諫めるためです(国君に直接意見を言うことができない民衆は、正月に巡行する遒人を通して進言しました)。天は民を深く愛しています。一人の者を民の上に置いて淫(悪)を恣にさせ、天地の性を棄てさせるはずがありません。」
 
[] 莒が魯の東境を侵しました。
 
[] 秋、楚が呉を攻撃しました。前年、呉が楚を侵したためです(庸浦の役)
子囊(公子・貞)が棠に駐軍しましたが、呉軍が動かないため、兵を還すことにしました。子囊が殿軍しんがりになります。しかし子囊は呉軍を軽視して警戒を怠りました
そこで呉軍は皋舟呉地の険阻な地形を利用して楚軍を急襲します。分断された楚軍は互いに助け合うことができず、公子・宜穀が捕えられました。

以上は『春秋左氏伝(襄公十四年)』の記述です。『史記・呉太伯世家』には「、呉がを攻める。が呉を破る」とあり、『春秋左氏伝』と異なります。

[] 周霊王が劉夏(定公)を斉に送り、霊公に命を下していいました「昔、伯舅の大公(太公・呂尚。斉の祖)は我が先王を補佐し、周室の股肱として万民を師保した。よって代々大師(太師。呂尚の功績に報い、東海諸国の表(表率。模範。諸侯の長)としてきた(または「斉には代々太師の地位を享受させ、東海を与えて功績を明らかにした」。原文「世胙師以表東海」)。王室が敗壊しないのは、伯舅のおかげである。今、汝・環(斉霊公の名)に命じる。舅氏(異姓の諸侯)の典(常法)を絶えることなく遵守し、祖考(祖先)を継ぎ、旧(先人)を辱めてはならない。恭敬であれ。朕の命を損なうな。」
 
[十一] 晋悼公が荀偃(中行献子)に衛の乱について意見を求めました。荀偃が言いました「現状にあわせて安定させるべきです。衛には既に国君がいます。討伐しても志を得ることができるとは限らず、逆に諸侯の労を招きます。史佚西周初期の史官)はこう言いました『固定した物は動かそうとせず按撫せよ(因重而撫之)。』仲虺商王朝・成湯の左相)もこう言いました『亡んだ者を軽蔑し、乱れた者を取る。滅亡に瀕した者を滅ぼし、存在する者を固める。これが国の道である(亡者侮之,乱者取之。推亡固存,国之道也)。』主公は衛を安定させて、時機を待つべきです。」
 
冬、晋の士魯の季孫宿、宋の華閲、衛の孫林父、鄭の公孫蠆および莒人と邾人が戚(孫林父の采邑)で会して、衛の安定を図りました。
 
[十二] 晋の士范宣子)が斉から羽毛(儀仗の装飾。舞楽でも使われました)を借りましたが、返さなかったため、斉が晋に対して不信感を抱くようになりました。
 
[十三] 楚の子囊が呉討伐から帰国し、間もなく死にました。
子囊は死ぬ前に、子庚(公子・午)にこう遺言しました「郢に城を築け。」
当時、郢は既に楚の都だったので、当然、城もあります。子囊の遺言による郢の城というのは、楚都の東南に位置する新しい城のようです。
子囊は死ぬ間際まで国を守ることを忘れなかった忠臣として称えられました。
 
 
 
次回に続きます。