春秋時代154 東周霊王(十七) 斉魯攻防 前557~556年

今回は東周霊王十五年と十六年です。
 
霊王十五年
557年 甲辰
 
[] 春正月、晋が悼公を埋葬しました。
平公が正式に即位します。
羊舌肸(叔向)が傅(太傅。教育官)に、張君臣(張老の子)が中軍司馬に、祁奚、韓襄(韓無忌の子)、欒盈、士鞅が公族大夫に、虞丘書(虞丘が氏)が乗馬御になります。
喪服を脱いで吉服に改め、官員を整理し、曲沃で烝祭を行いました。
 
[] 晋平公は国都の警護を固めると、黄河を下って湨梁に向かいました。
三月、晋侯(平公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(成公)および莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子が湨梁で会します。斉は国君の霊公ではなく、高厚が参加しました。斉は晋に不信感を抱いています。
晋平公は諸侯が互いに侵した土地を返還するように命じました。
 
前年と前々年、莒と邾が魯を侵したため、晋平公が邾の宣公と莒の犂比公を捕えて言いました「二国は斉と楚の間に使者を往来させていた。」
 
晋平公は温で宴を開いて諸侯をもてなし、諸侯の大夫に舞を披露させて「舞は歌詩と必ず一致しなければならない」と言いました。
しかし斉の高厚の詩が舞に合わなかったため、荀偃が怒って言いました「諸侯に異志(異心)があるはずだ!」
晋は諸侯の大夫と高厚に盟約を結ばせることにしました。しかし高厚は逃げ帰りました。
 
戊寅(二十六日)、晋の荀偃、魯の叔孫豹、宋の向戌、衛の甯殖、鄭の公孫蠆と小邾の大夫が盟を結び、「共に不庭(入朝しない者。盟主に逆らう者)を討つ」と約束しました。
 
[] 斉霊公が魯の北境を侵しました。
 
[] 許霊公が晋に遷都を請いました。許は東周簡王十年(前576年)に楚の附庸国となり、葉に遷都しましたが、今回、晋に遷都を求めたのは、楚から離れて晋に帰順しようとしていたからです。
ところが、諸侯が許を遷そうとした時、許の大夫が晋に附くことに反対し始めました。晋は諸侯を解散し、晋国だけで許の大夫を討伐することにしました。
鄭の子蟜が晋の許討伐を知り、鄭簡公の相(補佐)となって討伐に参加しました。
 
[] 夏、魯襄公が叔孫豹(穆叔)を従えて湨梁の会から還りました。
 
[] 五月甲子(十三日)、魯で地震がありました。
 
[] 魯の子叔斉子(叔老)が晋の荀偃、鄭伯(簡公)、衛の甯殖および宋と会して許を討伐しました。
夏六月、連合軍が棫林(許地)に駐軍します。
庚寅(初九日)、許を攻めて函氏(許地)に駐軍しました。
 
[] 晋の荀偃と欒黶が楚を攻撃しました。宋の楊梁の役(東周霊王十一年・前561年)の報復です
諸侯の軍は先に撤兵し、晋軍が単独で楚に攻め入ったようです。
楚の公子・格が湛阪で晋軍と戦って敗れました。晋軍は方城(楚の北境)の外を攻撃し、再び許を討伐して兵を還しました。
 
[] 秋、斉霊公が魯の北境を侵して郕(成)を包囲しました。魯の孟孺子速(仲孫速。仲孫蔑の子。速が名。諡号荘子が迎え討ちます。
斉霊公は「彼は勇を好む。兵を退いて彼の名を成してやろう」と言って撤兵しました。
孟速は海陘(斉魯間の隘路)を塞いで帰還しました。
 
[] 魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[十一] 冬、魯の叔孫豹が晋に行きました。斉が頻繁に魯を侵していたためです。
しかし晋はこう応えました「寡君(晋平公)はまだ禘祀(悼公の神主を大廟に入れる祭祀)を行っておらず、民も休息していない(許と楚を攻撃したばかりです)。そうでなければ魯国のことを忘れるはずがない。」
叔孫豹が言いました「斉人が朝も夕も敝邑(魯国)の地を侵しているので、こうして請願に来たのです。敝邑の急は、朝に夕を待つこともできないほどなので、人々は首を長くして西(晋)を望み、『もしかしたら援軍が来るのではないか』と言っています。執事(晋の執政をする者)に暇ができるのを待っていたら、恐らく手遅れになります。」
叔孫豹は荀偃に会って『圻父(祈父。詩経・小雅)』を賦しました。王を助ける立場にいる圻父が職責を全うしなかったため、民に苦難をもたらしたという内容です。
荀偃が言いました「わしは自分の罪を知った。執事と共に社稷を心配することなく、魯国をこのような状況に追いこんでしまったとは。」
叔孫豹は士にも会って『鴻雁詩経・小雅)』の末章を賦しました。「鴻雁が飛び、悲しく鳴いている。見識ある者だけが、私の労苦を知る(鴻雁于飛,哀鳴嗷嗷。唯此哲人,謂我劬労)」という内容で、鴻雁は魯の比喩です。
が言いました「わしがここにいる以上は、魯の安寧を保証しよう。
しかし実際に晋が出兵するのは二年後のことです。
 
 
 
霊王十六年
556年 乙巳
 
[] 春二月庚午(二十三日)、邾子・牼(宣公)が死にました。邾宣公は前年、晋に捕えられましたが、釈放されたようです。
子の悼公・華が継ぎました。
 
[] 宋の荘朝が陳を攻めました。陳は宋を軽視していたため、敗戦して司徒卬(陳の大夫)が捕えられました。
 
[] 衛の孫蒯が曹隧(曹地)で狩りをしました。
孫蒯一行が重丘(曹邑)で馬に水を飲ませた時、瓶(水を汲む器。曹人が水を汲むために作った器具かもしれません)を壊しました。
重丘の人々は城門を閉じると孫蒯を罵って言いました「汝は自ら国君(献公)を放逐し、汝の父(孫林父)も厲(悪事)を行った。それを憂いることなく、なぜ狩りをしに来たのだ。」
 
夏、衛の石買(石稷の子)と孫蒯が曹を攻めて重丘を占領しました。
曹国は晋に訴えました。
 
[] 秋、斉霊公が魯の北境を攻めて桃(または「洮」)を包囲しました。
斉の高厚も魯の北境を攻めて防を包囲しました。防は臧氏の采邑で、臧紇が守っています。
魯軍は臧紇を迎え入れるため、陽関を出ましたが、旅松で進軍を止めました。
防城内の郰叔紇孔子の父)、臧疇、臧賈(二人とも臧紇の兄弟)が甲兵三百を率いて斉軍を夜襲し、臧紇を旅松に送ってから、再び防城に帰りました。
斉軍は撤退しました。
 
この戦いで斉軍が臧堅(臧紇の一族)を捕えました。斉霊公が夙沙衛を送って臧堅を慰問し、「死んではならない」と伝えましたが、臧堅は稽首して「君命に感謝します。しかし斉君は不終を賜りながら(生きるように命じながら)、刑臣(宦官。夙沙衛)を送って士(臧堅)を礼遇しました(これは無礼なことです)」と言うと、木の枝で傷口を突いて自害しました。
 
[] 九月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 冬、邾が魯の南境を攻撃しました。
 
[] 宋の華閲が死にました。華臣(華閲の弟)は皋比(華閲の子)の勢力が弱いと考え、賊を使って宰(家宰。総管)・華呉を殺害させました。六人の賊は鈹(剣のような武器)を持ち、盧門(宋の城門)にある合左師の家の裏で華呉を殺します。合左師というのは向戌のことで、左師は官名です。采邑が合郷だったため、合左師とよばれました。
向戌が恐れて「老夫(私)は無罪だ」と言うと、賊が言いました「皋比は勝手に呉を討伐しようとした。(だから殺したのだ。向戌を殺すつもりはない)。」
賊の言葉は事実ではありません。華呉を殺害した口実です。
賊は華呉の妻を幽閉して大璧を強要しました。
 
これを聞いた宋平公は朝廷でこう言いました「華臣は自分の宗室に対して横暴なだけではなく、宋国の政治も大いに乱れさせた。追放するべきだ。」
向戌が言いました「華臣も卿です。大臣の不順(不和)は国の恥です。公にせず、隠すべきです。」
平公は華臣を処罰しませんでした。
しかし向戌は華臣を嫌ったため、短策(短い鞭)を作り、華臣の家の前を通る時は馬を鞭打って走りすぎました。
 
十一月甲午(二十二日)、宋の国人が瘈狗(狂犬)を駆逐しました。瘈狗は華臣の家に逃げます。国人が瘈狗を追って華臣の家に集まると、華臣は自分が襲撃されたと思い、恐れて陳に出奔しました。
 
『春秋』の経文は華臣の出奔を秋のこととしていますが、実際は十一月(冬)の出来事です。なぜ『春秋』が秋に書いているのかはわかりません。
 
[] 宋の皇国父は大宰となり、平公のために楼台を築きました。民が動員され、農業に影響が出ます。子罕が収穫後に延期するように進言しましたが、平公は同意しませんでした。
築者(工事に動員された民衆)が歌を歌いました「沢門(宋東城の南門)にいる白面(皇国父)は、我々に労役をもたらした。邑中(城内)の黒顔(子罕)は、我々の心を慰めた(沢門之晳,実興我役。邑中之黔,実慰我心)。」
これを聞いた子罕は自ら扑(竹鞭)を持って築者を監視しました。まじめに働かない者を打って「我々小人にも闔廬(家屋)があって燥湿寒暑を避けることができる。今、国君が一つの楼台を造ろうとしているのに、なかなか完成しない。これでいいと思うのか!」と叱咤します。
その結果、歌を歌う者はいなくなりました。
ある人が子罕になぜ厳しくするのか問うと、子罕は「宋は小国だ。それなのに詛(怨みの言葉)と祝(称賛の言葉)が併存するようでは、禍の本になる」と答えました。
 
[] 斉の晏弱(晏桓子)が死にました。子の晏嬰は麤縗斬(粗末な喪服)、苴絰(麻の帽子)、苴帯(麻の帯)、苴杖(竹杖)、菅屨(草履)を身につけ、粥を食べ、倚廬(喪に服す時に住む草の部屋)に住み、苫(蓆)に寝て草を枕にしました。
晏嬰は大夫ですが、士の礼を用いたようです。そのため、晏氏の家宰が「これは大夫の礼ではありません」と言いました。これに対して晏嬰は「唯卿為大夫」と答えます。「卿だけが大夫であり、大夫の礼を用いることができる」と訳せますが、意味がよくわかりません。「諸侯の卿は天子の大夫」といわれていたため、斉(諸侯)の大夫である晏嬰は天子の前では士になります。そこで謙遜して「私が大夫の礼を用いるのは相応しくない。士の礼を用いるべきだ」という意味でこう答えたのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代155 東周霊王(十八) 斉討伐 前555年