春秋時代155 東周霊王(十八) 斉討伐 前555年

今回は東周霊王十七年です。
 
霊王十七年
555年 丙午
 
[] 春、白狄が始めて魯に来ました。朝見のようですが、正式な朝見の礼は用いなかったようです。
 
[] 夏、晋が長子で衛の石買を捕え、純留で孫蒯を捕えました。前年、曹が晋に訴えたためです。
 
[] 秋、斉が魯の北境を攻撃しました。
晋の荀偃(中行献子)がついに斉を討伐することにしました。この頃、荀偃が夢で晋厲公(東周簡王十三年・前573年、荀偃に殺されました)に会い、討論して言い負かされました。厲公が戈で荀偃を撃つと、荀偃の首が前に落ちます。荀偃は跪いて首を持ち、走って梗陽(晋邑)まで逃げ、巫皋(巫人。皋が名)に会いました。夢はこれで終わりです。
後日、荀偃が道を歩いていると、夢で見た巫皋に会いました。荀偃は夢の話を巫皋に伝えます。すると、巫皋も同じ夢を見ており、こう言いました「今年、主(卿大夫。あなた)は死にます。しかしもしも東方で事(戦事)が起きたら、あなたは志を満足させることができるでしょう。」
荀偃は納得しました。
荀偃は周暦の翌年二月に死にますが、晋が使っていた夏暦では本年十二月になります。
 
晋平公が斉討伐を開始し、黄河を渡ろうとしました。荀偃が朱絲(赤い糸)で二(二対)の玉を結び、「斉の環(斉霊公の名)は険阻な地形と衆庶(人が多いこと)に頼り、友好を棄てて盟に背き、神主(民)を虐げている。よって曾臣(陪臣。天子の臣)・彪(晋平公の名)が諸侯を率いてこれを討伐し、その官臣・偃(荀偃)が前後を補佐する。戦勝によって功があれば、神を辱めずにすむ。官臣・偃が再び黄河を渡ることはない(晋に帰ることはない)。ただ神の裁きに任せるだけである。」
荀偃は玉を黄河に沈めて渡河しました。
 
[] 冬十月、晋侯(平公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(成公)と莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子が魯の済水沿岸で会合し、二年前に結んだ湨梁の盟を再確認してから斉討伐に向かいました。
晋の中軍の将は荀偃、佐は、上軍の将は趙武、佐は韓起、下軍の将は魏絳、佐は欒盈です。
 
斉霊公は平陰で迎え討ち、防門(平陰南)に一里にもおよぶ広さの塹壕を掘りました、
斉の夙沙衛が言いました「戦いが不利なら、険阻な地で守りを固めるべきです。」
しかし斉霊公は連合軍と戦う決意をします。諸侯の士卒が防門を攻撃すると、多くの斉人が死にました。
晋の范宣子)が斉の大夫・子家(析文子)に言いました「私は子(あなた)を理解している。子に隠しごとはできない。魯人と莒人が車千乗で攻撃することを申し出たので、それを許可した。もしも攻撃が始まったら、貴国の主君は国を失うだろう。子はよく考えるべきだ。」
子家が斉霊公に報告すると、霊公は恐れを抱きました。
このことを聞いた晏嬰が言いました「主君はもともと無勇だ。その上、このような報告を聞いたら、その命も長くないはずだ。」

以上は『春秋左氏伝(襄公十八年)』の記述です。『史記・斉太公世家』は少し異なります。
斉軍が破れたため、霊臨菑に逃げようとしました。それを晏嬰が霊を止めましたがが、霊は聞きませんでした。晏嬰は無勇と言いました。
こうして晋軍臨菑を包囲しました。臨菑の兵がを守って外に出てこないため、晋軍は城を焼いて去りました

史記・晋世家』では、晏嬰は無なのに、なぜ戦を止めないのだと言っています。

『春秋左氏伝』に戻ります。
斉霊公は巫山に登って晋軍を眺めました。
晋は司馬に命じて山沢の険を開かせ、道が通じていない場所にも旆(大旗)を立てました。兵車の左には兵を立たせ、右には偽の兵を置きます。旆が先に進み、兵車の後ろには柴を牽かせて砂塵を舞い上がらせました。
それを見た斉霊公は、諸侯の大軍が迫っていると思い、逃走を図りました。
丙寅晦(二十九日)、斉軍が夜に乗じて退却します。
晋の師曠が平公に言いました「鳥烏の声が楽しみを帯びています。斉師が遁走したのでしょう。」
晋の大夫・邢伯も荀偃(中行伯)に言いました「馬が還る時の声が聞こえます。斉師が遁走しているようです。」
叔向も平公に言いました「城(平陰)の上に烏がいます。斉師が遁走した証拠です。」
 
十一月丁卯朔、諸侯の軍が平陰に入り、斉軍を追撃しました。
夙沙衛が大車を連ねて山道を塞ぎ、自ら殿軍しんがりになります。殖綽と郭最が言いました「子(あなた)国師(国軍)の殿軍になるのは、斉の恥です(夙沙衛が宦官だからです)。子は先に逃げてください。」
二人が後方を守り、夙沙衛は馬を殺して狭い道を塞ぎました。
 
晋の州綽が斉軍に追いついて矢を射ました。矢は殖綽の左右の肩に中ります。州綽が言いました「退却を止めれば三軍(晋軍)の捕虜になるが、止めなければ汝の中心を射るぞ。」
殖綽が振り返って言いました「私誓(個人と個人の誓い)を行え。」
州綽が答えました「(殺さないことを)(太陽)に誓おう。」
州綽は弓の弦を解いて殖綽の手を後ろに縛りました。州綽の車右・具丙も武器を置いて郭最を縛ります。殖綽と郭最は甲冑を着たまま手を後ろに縛られ、晋の中軍の戦鼓の下に坐りました。
 
晋軍が斉の残兵を掃討しようとしました。しかし魯と衛が険要な地の攻撃を求めます。そこで晋軍は戦地を拡大しました。
己卯(十三日)、荀偃と士中軍を率いて京茲を攻略しました。
乙酉(十九日)、魏絳と欒盈が下軍を率いてを攻略しました。
趙武と韓起も上軍を率いて盧を包囲しましたが、落とせませんでした。京茲、盧は泰山山脈に位置する険阻な地です。
 
十二月戊戌(初二日)、連合軍が秦周(斉都・臨淄の郊外)に至り、雍門(臨淄西門)で萩の木を伐りました。攻城の器具を造るためです。
范鞅が雍門を攻撃し、御者の追喜が戈を使って門内で犬を殺しました。また、魯の孟速(仲孫速。孟荘子(木の名)を伐って魯襄公のために琴を作りました。犬を殺したり琴を作ったというのは、余裕がある戦いだったことを意味するようです。
己亥(初三日)、雍門と西郭、南郭に火がつけられました。晋の大夫・劉難と士弱が諸侯の軍を率いて申池(申門の外。申門は斉城南面の第一門)の竹木を焼きました。
壬寅(初六日)、東郭と北郭にも火がつけられました。范鞅が揚門(西北門)を攻め、州綽が東閭(東門)を攻めます。しかし兵車が多く道が狭いため、州綽の左驂(馬車の左の馬)が動けなくなりました。州綽は久しく門内で停滞し、門に使われている銅の釘を全て数え終わりました。
 
斉霊公は郵棠に逃げようとしました。すると太子・光と大夫・郭栄が馬を引き止めて言いました「諸侯の師は行動が速く勇猛です。これは物資を略奪するためです(長期滞在して土地を取るためではありません)。すぐに撤退するというのに、主君は何を恐れるのですか。そもそも、社稷の主は軽々しく動いてはなりません。主が軽率では衆を失います。主君はここで待機するべきです。」
それでも霊公が逃げようとしたため、太子・光が剣を抜き、鞅(馬の首にかけられた革)を斬ってあきらめさせました。
 
甲辰(初八日)、諸侯の軍が進撃を続け、東は濰水、南は沂水に至りました(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・晋世家』には、「東は膠水に至った」と書かれています。南の沂水は二書とも同じです。尚、『晋世家』はこの戦いを晋平公元年の事としていますが、平公三年の誤りです

平陰の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 斉討伐中、曹成公が陣中で死にました。在位年数は二十三年です。子の滕(または「勝」)が立ちました。武公といいます。
 
[] 鄭の子孔(公子・嘉)が諸大夫を除こうとしました。晋に背き、楚の軍を招いて諸大夫を殺す計画を立てます。
子孔は使者を送って計画を楚の令尹・子庚(公子・午)に伝えました。しかし子庚は同意しません。
これを知った楚康王が楊豚尹宜(または「揚豚尹宜」。恐らく楊が氏、宜が名で、豚尹は官名。あるいは、楊豚は邑名で尹はその長。宜が名。あるいは楊豚尹は官名等、諸説があります)を派遣して子庚に伝えました「国人は不穀(国君の自称)社稷の主でありながら出師しなければ、死後、礼に従って葬儀を行うことができないと言っている(武を用いて先君の業績を継がなければ先君と同じ葬礼を用いることはできないという意味です)。不穀は即位して既に五年になるが、師徒(車兵と歩兵)が出征したことはなく、国人は不穀が自分の安逸だけを図り、先君の業を忘れたと思っているだろう。大夫はよく考えるべきだ。」
子庚が嘆いて言いました「君王は私が安逸を求めていると思っているようだ。私は社稷の利を考えているのだが、それが分からないのか。」
子庚は康王の使者に会うと稽首して言いました「諸侯は晋と和睦しています。まず、臣が試してみましょう。もしもうまくいきそうなら、国君も続いてください。もし成功の見込みがなければ、師を収めて退却してください。そうすれば害を招くことなく、国君も辱しめを受けることがありません。」
子庚は汾の地で軍を整えました。
 
この時、鄭の子蟜、伯有、子張(公孫黒肱)は鄭簡公に従って斉討伐に参加しており、子孔、子展、子西が鄭を守っていました。子展と子西が子孔の陰謀を知り、城の守りを固めたため、子孔は楚軍に合流できなくなります。
子庚は左師を率いて鄭に向かい、魚陵に駐軍しました。
右師(恐らく右尹の公子・罷戎が帥)は上棘に城を築き、穎水を渡って旃然水沿岸に布陣します。
左右の師の他に、蔿子馮と公子・格が精鋭を率いて費滑、胥靡、献于、雍梁を侵し、梅山を右に回って鄭の東北を攻め、蟲牢に至って兵を還しました。
子庚は純門(鄭都外郭の門)を攻めましたが、鄭が守りを固めて出撃しなかったため、城下に二晩滞在して還りました。
楚軍が魚歯山の下に至って滍水を渡った時、大雨に襲われ、多くの兵が凍傷に悩み、大半の役徒が死亡しました。
 
晋が楚の出兵を知った時、師曠が言いました「害はない。私は『北風』も『南風』もよく歌うが、南風は強くなく、死声が多い。楚が功を立てることはできない。」
「風」は旋律・曲調の意味で、『北風』は北方の歌、『南風』は南方の歌です。古代は音律によって出兵の吉凶が占われました。
董叔も言いました「天道の多くは西北にある。南師は天の時に合っていないから、功は無い。」
天道というのは木星の運行を指します。この年の天道は西北に位置していたため、南方の軍は天の時に合わず、成功しないという意味です。
叔向もこう言いました「重要なのはその君の徳だ。」
音律や天の時、地の利よりも大切なのは人の和であり、当時の楚の状況では、出兵が成功するはずがない、という意味です。
 
[] この年、燕武公在位十九年で死に、文公が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。