春秋時代156 東周霊王(十九) 斉霊公の死 前554年

今回は東周霊王十八年です。
 
霊王十八年
554年 丁未
 
[] 春正月、斉を討伐した諸侯が沂水から引き上げ、督揚で盟を結びました。督揚は祝柯(または「祝阿」)ともいいます。
盟に参加したのは晋侯(平公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(成公)と莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子の十二国です。
この会盟で、「大国が小国を侵してはならない」と決められました。
 
晋が邾悼公を捕えました。二年前に魯を侵したためです。
 
魯襄公が斉討伐から帰還し、諸侯は泗水沿岸に駐軍して魯の国境を定めました。魯は邾の田(土地)を取り、水以西の地が魯に編入されました。
 
晋平公が先に帰国しました。魯襄公は晋の六卿を蒲圃でもてなし、三命の服(車服)を与えます。軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄にも一命の服を与え、荀偃には束錦加璧(璧で装飾された五匹の錦)、乗馬(四頭の馬)と呉寿夢の鼎を贈りました。
 
この頃、荀偃は腫物ができて頭部がただれていました。黄河を渡って著雍に着いた頃、病がひどくなって眼球が飛び出します。先に帰国した大夫達が引き返し、士が荀偃に会見を求めましたが、荀偃は拒否しました。
は人を送って誰に荀偃を継がせるべきか問います。荀偃は「鄭甥(荀呉。その母が鄭人だったため、鄭甥といいます)がいい」と答えました。
二月甲寅(十九日)、荀偃が死にました。目は閉じず、口を固く閉めています。士が荀偃の死体を撫でて言いました「主(あなた)に仕えた時と同じように荀呉にも仕えます。」
しかし荀偃の目は開いたままです。
欒盈(欒懐子)が「斉討伐がまだ終わっていないからですか」と荀偃の死体に問い、死体を撫でながら言いました「主の臨終後、斉の事(斉を服従させること)を受け継がないようなら、河神の咎を受けるでしょう。
荀偃は目を閉じ、口を開きました。死者の口に玉が入れられます。
退出したが言いました「私は浅はかだった。荀偃を立派な丈夫として見ることができなかった(荀偃は家の事よりも国の事を想っていたのに、それを理解することができなかった)。」
 
[] 魯の季孫宿(季武子)が晋に行きました。斉討伐の感謝のためです。晋平公がもてなしました。
荀偃が死んだため、中軍の佐・が政事を行っていました。は季孫宿に『黍苗詩経・小雅)』を賦します。雨のおかげで黍苗が育つという内容で、雨は晋、黍苗は魯等の小国の比喩です。
季孫宿は立ち上がって再拝稽首し、「小国が大国を仰ぐのは、百穀が雨の潤いを仰ぐようなものです。常に潤いを与えられれば、天下は和睦するでしょう。敝邑(魯国)だけのことではありません」と言って『六月詩経・小雅)』を賦しました。西周の尹吉甫が宣王を援けて征伐する詩で、覇者の晋が尹吉甫にあたります。
 
[] 季孫宿が斉との戦いで得た兵器を使って林鐘を造り、魯の功を銘文にしました。
しかし臧孫紇(臧武仲)が季孫宿に言いました「礼から外れています。銘とは、天子はその徳を記し、諸侯は行動が時の利に応じて功を立てたらそれを記し、大夫は征伐を行ったら記すものです。征伐を記すというのは(大夫が対象なので)等級を下げることになります。功を記録するとしても、それは人(晋)の力を借りたものです。時の利においては、多くの民事の妨げとなりました。何を銘とするのでしょう。大国が小国を討伐し、戦で得た物で彝器(宗廟の器具)を作り、功烈を銘文にして子孫に示すのは、徳を明らかにして無礼を懲らしめるためです。今回は人の力を借りて自分の死を救ったので、銘文にすることはありません。小国が幸いにも大国に勝ち、そこで得た物を顕示したら、大国の怒りを買うでしょう。それは亡国の道となります。」
 
[] 曹が前年陣中で死んだ成公を埋葬しました。
 
[] 夏、衛の孫林父孫文子)が斉を攻めました。晋の欒魴も軍を率いて衛の斉討伐に従いました。
 
[] 斉霊公は魯から妻を娶りました。顔懿姫といいます。しかし子ができませんでした。顔懿姫の姪・鬷声姫が媵(正妻に従って一緒に嫁ぐ女性)となり、光を産みました。顔懿姫と鬷声姫はどちらも姫姓で、顔と鬷はそれぞれの母の姓、懿と声は諡号のようです。
鬷声姫が産んだ光は太子になりました。
その他にも仲子(『史記・斉太公世家』では「仲姫」)と戎子(同「戎姫」)という内官(妃妾)がいました。どちらも子姓のようです。仲子は公子・牙を産みました。
霊公は戎子を特に寵愛したため、仲子が産んだ牙を戎子に育てさせました。やがて、戎子は牙を太子に立てるように求め、霊公は同意します。ところが実母の仲子が反対して言いました「いけません。常規を廃するのは不祥です。諸侯に逆らったら成功しません。光は太子になってから、諸侯の会に列席してきました。理由もなく廃したら諸侯を軽視することになります。難(成功が難しいこと)によって不祥を行ったら、国君は必ず後悔することになります。」
しかし霊公は「わしが決めることだ」と言って太子・光を東境に送りました。高厚を牙の太傅(教育官)とし、牙が太子に立てられます。夙沙衛が少傅になりました。
 
この年、斉霊公が病に倒れました。
すると崔杼が秘かに光を迎え入れ、太子に復位させます。太子・光は戎子を殺してその死体を朝廷に晒しました。
 
秋七月辛卯(二十八日)、斉霊公が在位二十八年で死にました。
秋七月というのは『春秋』経文の記述で、周暦です。『春秋左氏伝(襄公十九年)』は夏五月壬辰晦(二十九日)としていますが、これは恐らく斉が使っていた夏暦になります。史記・斉太公世家』も「五月壬辰」としています。

太子・光が即位しました。荘公といいます。
荘公は公子・牙を句瀆(または「句竇」)の丘(斉国境)で捕えました。
荘公は自分の廃位が夙沙衛によって進められたと思っていました。危険を感じた夙沙衛は高唐に奔って反旗を翻しました。
 
[] この頃、晋の士が斉を攻撃し、穀に至りましたが、斉霊公の死を聞いて退き返しました。
これは『春秋左氏伝(襄公十九年)』の記述です。史記・斉太公世家』は「八月、晋が斉の乱を聞いて斉を攻め、高唐に至った」と書いています。高唐で挙兵した夙沙衛が晋に帰順したのかもしれません。
 
[] 少しさかのぼります。
四月丁未(十三日)、鄭の子蟜公孫蠆)が死に、晋の大夫に訃告が発せられました。子蟜は東周霊王十三年(前559年)に晋が秦を攻めた時、率先して軍を率いた功績があります。
が晋平公に報告しました。
六月、平公が子蟜のために周霊王に賞賜を請い、霊王は大路(天子の車)を下賜して葬車子蟜の霊柩)と一緒に走ることを許可しました。
 
[] 八月丙辰(二十三日)、魯の仲孫蔑が死にました。
 
[] 斉の崔杼が灑藍(臨淄城外)で大夫・高厚を殺し、その財産と采邑を兼併しました。
 
[十一] 鄭の大夫・子孔(公子・嘉。または「喜」)が専横したため、国人の憂いを招きました。そこで鄭人は西宮の難(東周霊王九年・前563年参照)純門の役(前年参照)の責任を問いました。
子孔は危険を覚り、自分の甲士と子革、子良の甲士を集めて守りを固めました。
甲辰(十一日)、子展と子西が国人を率いて討伐し、子孔を殺して家財や采邑を分けました。
 
子然と子孔の母は宋子といい、士子孔(公子・志)の母は圭嬀といいます。どちらも鄭穆公の妾です。圭嬀は宋子よりも身分が下でしたが、二人は仲が良く、二人の子孔(公子・嘉と公子・志)も一緒に育ちました。
鄭の僖公四年(東周霊王五年・前567年)に子然が死に、簡公元年(東周霊王七年・前565年)に士子孔も死にました。当時、司徒を勤めていた子孔は、子革(子然の子)と子良(士子孔の子)を援け、三家は一つのように協力していました。
そのため子孔が殺されると、子革と子良は楚に出奔しました。子革は楚で右尹に任命されます。
 
鄭人は子展を当国に、子西を聴政にし、子産を卿に立てました。
 
[十二] 冬、斉が霊公を埋葬しました。
 
[十三] 斉の慶封が高唐を包囲しましたが、攻略できませんでした。
冬十一月、斉荘公が自ら高唐を包囲します。
荘公が城壁の上にいる夙沙衛を見つけたため、大声で招きました。夙沙衛は城壁を下りて荘公に会います。恐らく濠を隔てています。
荘公が城内の守備について問い、夙沙衛は何の備えも無いと答えました。荘公が揖礼したため、夙沙衛も揖礼を返して再び城壁を登ります。
夙沙衛は荘公の攻撃が近いと知り、高唐の人々に食事を与えました。
高唐城内にいた殖綽(前年、晋に捕えられましたが、既に帰国していたようです)と工僂会(工僂が氏)が夜の間に城壁の上から縄を下ろし、斉軍を招き入れました。
夙沙衛は軍中で殺されました。
 
[十四] 魯が西郛(西郭。外城)を築きました。斉に備えるためです。
 
[十五] 斉と晋が和平し、大隧(高唐)で会盟しました。
魯の叔孫豹も晋の士柯で会見します。
叔孫豹は叔向(羊舌肸)に会って『載馳詩経・鄘風)』の第四章を賦しました。大国に助けを求める内容です。叔孫豹は斉の脅威が去ったとは思っていないため、この詩を賦しました。
叔向も斉が本心から晋に帰服するつもりがないと判断したため、こう言いました「私があなたの命に背くことはありません。」
 
叔孫豹は帰国してから「斉の危険はまだ去っていない。警戒しないわけにはいかない」と言い、武城に築城しました。
 
[十六] 衛の石買(石共子)が死にました。しかしその子・石悪(悼子)は悲しみを見せません。
孔成子(衛の卿・孔烝鉏)が言いました「これは根本を倒すことだ。彼に宗族を守れるはずがない。
 
 
 
次回に続きます。