春秋時代157 東周霊王(二十) 澶淵の盟 前553年

今回は東周霊王十九年です。
 
霊王十九年
553 戊申
 
[] 前年、督揚で諸侯が盟を結び、その中に魯と莒もいたため、敵対していた二国が講和することになりました。
春正月辛亥(二十一日)、魯の仲孫速(孟速。孟荘子が莒人と会し、向で盟を結びました。
 
[] 夏六月庚申(初三日)、晋侯(平公)、魯公(襄公)、斉侯(荘公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(武公)と莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子が澶淵(晋地。以前は衛地)で盟を結びました。斉が晋と講和したためです。
 
[] 秋、魯襄公が帰国しました。
 
[] 魯が連年の出征や会盟に参加していたため、邾は魯が反撃できないと思い、頻繁に国境を侵していました。
魯の仲孫速が邾を攻撃しました。
 
[] かつて蔡文侯は晋に仕えようとし、「先君(荘侯)は踐士の盟(東周襄王二十年・前632年)に参加した。晋は盟を棄てるはずがなく、しかも我々は晋と兄弟の国だ」と言っていました。しかし楚を恐れていたため、晋との講和を実行できないまま死んでしまいました(東周定王十五年・前592年)
その後、楚は際限の無い労役徴発を蔡に命じます。
この年、公子・燮(または「湿」。荘公の子。大夫)が蔡国のために文侯の意志を継ごうとしました。しかし蔡の国人は労役等の苦があっても楚の庇護下にあった方がいいと考えたため、公子・燮を殺しました。
公子・燮の同母弟にあたる公子・履は楚に出奔しました。
 
[] 陳の卿・慶虎と慶寅は、陳哀公の弟・黄(または「光」)が政権を握ることを恐れ、楚にこう訴えました「公子・黄は蔡の司馬(公子・燮)と共に謀っていました。」
楚が陳を討伐したたため、公子・黄は楚に出奔し、無罪を訴えました。
 
公子・黄は出奔前に国都でこう叫びました「慶氏は無道で、陳国の政治を独占しようとしている!その君を軽視し、国君の親族を排斥するのだから、五年の内に滅ばなければ天が存在しないことになる!」
 
[] 魯の叔老(斉子)が斉を聘問しました。
 
[] 冬十月丙辰朔、日食がありました。
 
[] 魯の季孫宿(季武子)が宋に行きました。向戌の聘問(東周霊王十四年・前558年)に謝すためです。
褚師段(「褚師」は元は官名ですが、ここでは氏です。褚師段の字は子石です)が季孫宿を迎え入れて宴に招きました。季孫宿は『常棣詩経・小雅)』の第七章と末章を賦します。家族兄弟の関係を歌った詩で、婚姻関係にある魯と宋の和親が目的でした。
宋は季孫宿に厚い礼物を贈りました。
 
季孫宿が帰国すると、魯襄公が宴を開きました。季孫宿は『魚麗詩経・小雅)』の末章を賦し、襄公は『南山有台詩経・小雅)』を賦します。
『魚麗』は獲れたてで新鮮な魚と美酒を描いた詩で、魯襄公が季孫宿を宋に派遣した時期がちょうどふさわしかったこと(物其有矣,維其時矣)を称えるために引用しました。
『南山有台』は君子(優秀な人物)が国を補佐し、光を加える(「楽只君子,邦家之基」「邦家之光」)という内容で、季孫宿の使者としての業績を称賛しています。
季孫宿は席から離れて襄公に「臣にはもったいない言葉です」と応えました。
 
[] 衛の甯殖(甯恵子)が病に倒れ、子の甯喜(悼子)に言いました「わしは主君の罪を得た。後悔しても及ばないことだ。わしの名は既に諸侯の策にこう書かれている『孫林父と甯殖がその君を駆逐した(孫林父甯殖出其君)。』汝は主君の帰国を助けてこのことを覆せ。もしも覆すことができたら、汝はわしの子だ。しかしもしもできないようなら、鬼神になって飢えたとしても、汝の祭祀は受けない(子として認めない)。」
甯喜が同意してから、甯殖は死にました。
 
 
 
次回に続きます。