春秋時代158 東周霊王(二十一) 欒盈出奔 前552年(1)

今回は東周霊王二十年です。二回に分けます。
 
霊王二十年
552年 己酉

[] 春正月、魯襄公が晋に行きました。斉討伐と邾田を得たことを拝謝するためです。
 
[] 邾の大夫・庶其が漆と閭丘の地を挙げて魯に奔りました。
魯の季孫宿(季武子)は襄公の姑姊(襄公の父の姉妹。宣公の娘、成公の姉妹)を庶其に嫁がせ、従者にも賞賜を与えました。
 
当時、魯では盗賊が横行していました。そこで、季孫宿が臧孫紇(臧紇。臧武仲)に言いました「子(あなた)はなぜ盗賊を詰(禁止)しないのだ。」
臧孫紇が言いました「私には詰することができず、力もありません。」
季孫宿が言いました「我が国には四封(四方の境界)がある。なぜ盗賊を詰する(盗賊の出入りを禁止する)ことができないのだ。子は司寇であり、盗賊を取り締まるのが役目だ。なぜ力がないのだ。」
臧孫紇が答えました「子は外盗を招いて大礼で遇しました。なぜ国内の盗賊を詰することができるのですか?子は正卿でありながら外盗を招き入れました。私に国内の盗賊を治めることができますか?庶其は邾の邑を盗んで来ました。それに対して子は姫氏を娶らせ、邑を与え、全ての従者にも賞賜を与えました。大盗に対して国君の姑姊と大邑を用いて礼遇し、次の地位にいる皁牧(従者。賤役)には馬を与え、最も身分が低い者にも衣裳や剣帯を与えるのは、盗賊を賞することです。一方で盗賊を賞しながら、一方で去らせるのは困難です。上の位にいる者は心を清め、専心して人に対し、自分の行動を法度に則らせ、信を築いてそれを明確にしてから、やっと人を治めることができるといいます。上の者の行動は、民が依拠とするものです。だから上の者がやらないことを民がやったら、刑罰を加えて警告することができるのです。上の者の行為を民が真似るのは当然のことです。なぜ禁じることができるのでしょう。『夏書尚書・大禹謨)』には『やりたいと思うことも規範の中にあり、棄て去ってやらないことも規範の中にあり、言葉として発するものも規範の中にあり、内心から現れる真誠も規範の中にある。ただ帝だけがそれを記録できる(念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功)』とあります。これは言行(言葉による規範と実際の行動)が一致していることを言っているのでしょう。信とは言行が一致することから生まれます。そうなってから、始めて功績を記録することができるのです(盗賊を禁止するという功績を立てることができるのです)。」
 
[] 斉荘公が慶佐(崔杼の党)を大夫に任命し、公子・牙(東周霊王十八年・前554年参照)の余党を討伐させました。公子・買を句瀆の丘で捕えます。
公子・鉏は魯に、叔孫還は燕に奔りました。
 
[] 夏、魯襄公が晋から還りました。
 
[] 楚の子庚が死にました。
楚康王は子馮を令尹に任命することにしました。それを知った子馮は申叔豫(申叔時の孫)を訪問して意見を聞きます。申叔豫はこう言いました「国に寵臣が多く、王は幼弱なので、国政を行う者(令尹)になるべきではありません。」
子馮は病と称して令尹を辞退しました。ちょうど夏の暑い時期だったため、地を掘って氷を入れ、その上に床を置いてから、厚着をして食事を減らし(痩せるためです)、床に寝て暮らします。
康王が医者を送って看病しました。戻った医者はこう報告しました「非常に痩せ衰えていますが、血気は正常です(病ではありません)。」
康王は子馮の意志を覚り、子南(公子・追舒。荘王の子)を令尹に任命しました。
 
[] 晋の欒黶(欒桓子)は范范宣子)の娘欒祁といいます。祁は范の本姓です)を娶って欒盈(欒懐子)を産みました。しかし范鞅(士鞅。の子は欒黶のために秦に出奔したことがあったため(東周霊王十三年・前559年)、欒氏を怨んでおり、欒盈と共に公族大夫になっても和すことがありませんでした。
少しややこしいので范氏と鸞氏の関係をまとめます。
范氏(士氏): 
当主は范(上卿。中軍の将)
子は范鞅と欒祁。欒祁は欒黶の妻
欒氏
当主は欒黶。その妻は欒祁
子は欒盈または「欒逞」。下卿。下軍の佐。母は欒祁)
 
欒黶が死ぬと、妻の欒祁が室(大夫家臣の長)・州賓と私通し、欒氏の財産を独占しようとしました。欒盈(欒祁の子)はこれを心配します。
すると欒祁は欒盈の討伐を恐れ、父の范に言いました「息子の盈は乱を起こすつもりです。彼は范氏が桓主(桓子。欒黶)を殺して専権していると思っており(この時、士は中軍の将です)、こう言いました『私の父は范鞅を放逐したが、范鞅が帰国しても怒りを表さず、寵によって接し、私と同じ官(公族大夫)に任命して権力を与えた。その後、私の父が死ぬと范氏はますます豊かになった。范氏が私の父を殺して国政を専断しているが、私は死んでも彼等に従うことはない。』彼はこのように考えており、主(父)が害されることを恐れたので、敢えて話しました。」
范鞅も欒祁の報告が真実だと主張します。
もともと欒盈は施しを好んだため、多くの士が帰心していたため、范は欒盈の勢力を恐れていました。そこで欒祁の言葉を信じ、欒盈に命じて著(地名)に築城させ、そのまま追放してしまいました。
 
秋、欒盈が楚に奔りました。
欒盈の党人が叛乱を計画したため、范箕遺、黄淵、嘉父、司空靖、邴豫、董叔、邴師、申書、羊舌虎(叔虎。叔向の弟)、叔羆(以上十人とも晋の大夫で欒盈の党)を殺し、伯華、叔向、籍偃を捕えました。
 
ある人が叔向に言いました「あなたは(范氏に協力しなかったため)罪を得ましたが、これを知(智)といえますか?」
叔向が答えました「(捕えられて難を受けることになったが)死や亡命よりはましだ。『詩(恐らく逸詩)』にはこうある『自由気ままに歳を送る(優哉游哉,聊以卒歳。』これこそが智である(誰にも与せず、政争に巻き込まれることなく、自由に生きることこそ智である。私が捕えられたのは羊舌虎の兄だったからにすぎない)。」
 
楽王鮒(楽が氏)が叔向に会って言いました「私があなたの命乞いをしましょう。」
しかし叔向は答えず、楽王鮒が帰る時も拝しませんでした。
ある人が叔向を咎めると、叔向はこう言いました「祁大夫(祁奚)でなければだめだ。」
それを聞いた室老が叔向に言いました「楽王鮒は国君に進言して拒否されたことがありません。それなのに、彼が吾子(あなた)の赦しを請おうとしても吾子は同意しませんでした。祁大夫では力が及びません。なぜ祁大夫でなければだめなのですか。」
叔向が言いました「楽王鮒は国君が言うことなら何にでも従う人物だ。彼に任せるわけにはいかない。祁大夫は外は讎を棄てて人材を推挙し、内は親族でも遠慮せず選ぶことができる。私だけを棄てるはずがない。『(大雅・抑)』にはこうある『実直な徳行があれば、四国が帰順する(有覚徳行,四国順之)。』夫子(彼。祁奚)は覚者(徳を覚った実直な人物)である。」
 
晋平公が叔向の罪を楽王鮒に問うと、楽王鮒は「親族(羊舌虎。欒盈の党人として処刑されました)を棄てるはずがありません。共謀していたはずです」と答えました。
当時、祁奚は告老(引退)していましたが、朝廷の様子を知ると馹(駅車)に乗って范に会いに行き、こう言いました「『(周頌・烈文)』にはこうあります『限りない恩恵を与え、子孫が永遠にそれを保つ(恵我無疆,子孫保之)。』また、『書尚書・胤征)』にもこうあります『策謀と訓戒を知る智者は、信を明らかにして自分を守ることができる(聖有勳,明徵定保)。』策謀があって過失が少なく、人に訓戒を与えて厭うことがない、叔向とはこのような人物であり、社稷の固(柱)でもあります。たとえ彼の十世後の子孫が過ちを犯したとしても、それを赦すことで能力がある人材を激励させるべきです。今回、突然の禍から逃れることができなかったからといって、社稷を棄てさせる(処刑する)のは相応しくありません。鯀が誅殺されて禹が興こり(鯀は禹の父で、禹は夏王朝創始者、伊尹商王朝初期の賢人)は大甲(商王。成湯の孫)を放逐しましたが、後に大甲は伊尹を相に任命して怨色を表しませんでした。管・蔡は殺されましたが、周公(管叔・蔡叔・周公とも西周武王の弟)が王(成王)を補佐しました。このような前例があるのに、なぜ叔虎が原因で叔向に社稷を棄てさせるのですか。子(あなた)が善を行えば、皆が子のために努力します。殺人を多く行って何になるのですか。」
は祁奚の諫言に喜び、同じ車に乗って平公に謁見しました。叔向が釈放されます。
しかし祁奚は叔向に会うことなく去り、叔向も祁奚に釈放の報告をせず、直接入朝して平公に謝しました。
 
以前、叔向の母は叔虎の母の美貌を妬み、夫の寝室に近づけさせませんでした。叔虎が産まれる前の事です。叔向を始めとする子供達が母を諫めると、母はこう言いました「深山大沢には龍蛇がいるものです。彼女はとても美しいので、私は彼女が龍蛇を産んで、汝等の禍になることを恐れるのです。汝等は敝族(権勢を握らない一族)です。今、国には多くの大寵がおり(六卿が専権し)、不仁の人がその関係を壊そうとしている、難しい状況です。私自身のためにこうしたのではありません。」
この後、叔向の母が叔虎の母を夫の寝室に行かせたため、叔虎が産まれました。叔虎も美貌で勇力があったため、欒盈に気に入られました。その結果、今回、羊舌氏一族が難を受けることになりました。

以上、『春秋左氏伝(襄公二十一年)』を元にしました。『国語』にも欒盈の出奔に関して記述があるので、別の場所で書きます。
 
 

次回に続きます。