春秋時代160 東周霊王(二十三) 楚の令尹 前551年

今回は東周霊王二十一年です。
 
霊王二十一年
551年 庚戍
 
[] 春正月、魯襄公が商任の会から還りました。
 
[] 春、魯の臧孫紇(臧武仲)が晋に行きました。途中、雨が降る中、御叔(御邑大夫)の邑(御)を通りすぎます。この時、御叔は邑内に居り、酒を飲もうとしていました。御叔は臧孫紇を風刺して言いました「聖人(臧孫紇は智略が多く聖人とみなされていました。ここでは皮肉をこめて臧孫紇を「聖人」とよんでいます。)を用いてどうしようというのだ。わしは酒を飲むだけだ。雨の中をわざわざ行くような者を(雨も予知できない者を)、聖人といえるか。」
これを聞いた叔孫豹(穆叔)が言いました「彼自身は使人(使者)になることができないのに、使人に対して傲慢な態度を取るのは、国の蠹(木や書籍を蝕む蟲)だ。」
この後、御邑の賦税が倍になりました。当時は采邑の収入の三分の一を朝廷に納めることになっていたので、二倍は収入の三分の二に当たります。
 
[] 夏、晋が鄭簡公に入朝を命じました。
鄭は少正・子産(公孫僑)を送ってこう回答しました「晋の先君である悼公九年(東周霊王七年・前565年)に寡君(簡公)が即位しました(鄭簡公元年にあたります)。即位して八カ月で、我が国の先大夫・子駟が寡君に従い、執事(晋の執政官。または晋悼公)を朝しましたが、執事は寡君を礼遇せず、寡君は畏怖しました(これに関する記述はありません)。この事があったため、我が国は二年(鄭簡公二年)の六月に楚に朝し、晋は戲の役(戲の同盟とそれに続く戦争。東周霊王八年・前564年参照)を発動しました。楚は強大でしたが、敝邑(鄭)に対して礼を用いました(晋が鄭を攻める度に楚が鄭を援けたことを指します)。敝邑は執事(晋)に従いたいと思っていましたが、罪が大きいことを恐れ、(楚に服従を主張する者は)こう言いました『晋は我々が礼を持つ国(晋)を敬うことができないと思っている(晋に仕えるべきではない)。』だから楚に背けなかったのです。四年三月、先大夫・子蟜が寡君に従って楚に観覚(観察。見学。実際は朝見)に行きました(これに関しても記述はありません)。そのため晋は䔥魚の役(鄭討伐と䔥魚の会盟。東周霊王十年・前562年)を起こしました。敝邑は晋国に近いので、草木に喩えるなら(晋が草木で)我々は匂いです(草木があれば必ず香りもあります)。どうして一致しないことがあるでしょうか(䔥魚の会以後、鄭は晋だけに服従しているという意味です)。楚は既に衰弱しており、寡君は土実(土地から採れる物)を全て集め、宗器(宗廟の礼器)を加えて(晋の)盟を受け入れています。だから群臣を率いて執事(晋の執政官)に従い、歳終に会したのです(「歳終」というのは年末に諸侯が群臣を集めて会議を開き、一年の報告をすることです。覇者に対して諸侯が行うこともあったようです。但し、東周霊王十年に鄭簡公が晋の歳終に参加したという記述はありません)。楚に従おうとしているのは子侯と石盂(どちらも鄭の大夫)なので、帰国したら討伐します。湨梁の会(東周霊王十五年・前557年)の翌年、子蟜が告老(引退)し、公孫夏が寡君に従って貴君に朝見しました。この時は貴国の祭祀に参加し、燔(祭肉)を与えられました。その翌年霊王十七年・前555年)には貴君が東夏(斉)を鎮めると聞き、二年後霊王十九年・前553年)の四月にまた入朝して盟約の期日をうかがいました(この年の六月に澶淵の盟が結ばれます)。このように、たとえ朝見しなくても聘問しない年はなく、労役に従わないこともありませんでした。大国の政令が一定でなければ、国家は病んで疲弊し、憂慮が重なって不安な日々を送ることになります。我々が職責(晋に入朝・聘問すること)を忘れることはありません。大国が敝邑を安定させるのなら、弊邑は朝も夕も大国の庭にいるので、君命は必要ありません(自ら入朝するので晋の指示は必要ありません)。しかしもしも敝邑の憂患を憐れまず、それを(譴責の)口実とするのなら、貴国の命に堪えることができず、弊邑は大国に棄てられて仇讎になるでしょう。敝邑はそうなることを恐れているので、君命を忘れることはありませんが、全てを執事(晋君)の判断にゆだねるので、執事には熟考をお願い致します。」
 
[] 秋七月辛酉(十六日)、魯の叔老(子叔斉子)が死にました。
 
[] 秋、晋から出奔した欒盈が楚から斉に入りました。
晏嬰(晏平仲。晏子が斉荘公に言いました「商任の会(前年)で晋の命を受けたのに、今、欒氏を受け入れてどうするつもりですか。小国が大国に仕える時は信が必要です。信を失っては立つことができません。主公はよく考えるべきです。」
しかし荘公は諫言を無視しました。
退出した晏嬰が陳須無(陳文子。陳完の曾孫)に言いました「人の君となる者は信を持ち、人の臣となる者は共(恭)を持ち、忠・信・篤・敬を上下が共にすることが、天の道である。主君は自らそれを棄てた。その地位が久しいはずがない。」

以上は『春秋左氏伝(襄公二十二年)』の内容です。史記』の『斉太公世家』『田敬仲完世家』にも記述があります。
斉荘公三年、晋の大夫欒盈(または「欒逞」が斉に奔りました。荘は賓客として厚遇します。晏嬰田文子(陳文子)が諫めても荘は聞きませんでした。
史記・十二諸侯年表』には、「晏嬰が『欒盈を晋に)帰らせた方がいい』と言った」と書かれています。
 
[] 九月、鄭の公孫黒肱(字は子張。伯張ともいいます)が病に倒れました。
公孫黒肱は室老(家臣の長)と宗人(宗老。祭祀の礼を掌る者)を招いて子の段を後嗣に立てさせました。あわせて家臣を減らし、祭祀を簡略にするように命じます。祭(通常の祭祀)では特羊(羊一頭)を使い、殷(大きな祭祀)では少牢(羊と豚)を使うことになりました。祭祀に必要な物資を供給するだけの土地を残し、それ以外の邑は国に返してこう言いました「乱世に産まれたら、地位が尊貴でも貧を守って民に要求しない者が、人よりも長く生きることができるという。主君と二三子(諸大夫)に恭しく仕えなければならない。生とは戒(警戒・慎重)にかかっている。富が大切なのではない。」
己巳(二十五日)、公孫黒肱が死にました。
 
[] 冬、晋侯(平公)、魯公(襄公)、斉侯(荘公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(武公)、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子が沙隨(宋地)で会しました。諸侯が欒氏を受け入れないことを再び要求するためです。
しかし欒盈が斉にいたままだったため、斉の晏嬰がこう言いました「禍が近付いている。斉は晋を討とうとしているが、恐ろしいことだ。」
 
[] 魯襄公が沙随の会から帰国しました。
 
[] 楚の観起は令尹・子南(公子・追舒)に寵信され、官位が低く禄も増えていないのに、数十乗の馬を持つようになりました。楚人はこれを嫌い、楚康王は討伐を計画します。
子南の子・棄疾は康王の御士(侍臣)でした。康王が棄疾に会うたびに泣いたため、棄疾が言いました「王は臣に対して三回泣きました。誰かが罪を犯したのでしょうか。」
康王が言いました「令尹の不能(不善)は汝も知っていることだ。国がそれを討伐しようとしているが、汝はここに留まるか(逃げないのか)?」
棄疾が答えました「父が殺されたのに子が留まったとして、国君はその子を用いることができますか。しかし君命を父に漏らして刑を重くすることも、臣にはできません。」
康王は朝廷で子南を殺し、観起を車裂に処して四境に晒しました。
 
子南の臣が棄疾に言いました「尸(死体)を朝廷から運び出しましょう。」
棄疾が言いました「君臣の間には礼がある。二三子(諸大臣)を見守ろう(死体を運ぶとしたら国君や大臣が動くはずなので、勝手に持ち出してはならない)。」
処刑された者の死体が晒されるのは三日間と決められていたため、三日後、棄疾が死体を運ぶことを請い、康王は許可しました。
子南の埋葬が終わると、部下が棄疾に問いました「どこかに逃げますか?」
棄疾が言いました「私は自分の父を殺す計画に関わった。どこに行くというのだ。」
部下が問いました「それでは王に仕えますか?」
棄疾が言いました「父を棄てて仇に仕えるのは、私にはできない。」
棄疾は首を吊って死にました。
 
康王は子馮を令尹に任命しました。公子・齮が司馬に、屈建(子木)が莫敖になります。
子馮の寵臣は八人おり、皆、禄はないのに多数の馬を擁しました。
ある日の朝廷で、子馮が申叔豫に話しかけましたが、申叔豫は応えずに去りました。子馮が後を追いましたが、申叔餘は人の中に入り、更に追いかけると家に帰ってしまいました。
退朝してから(朝会が終わってから)子馮が申叔豫に会いに行ってこう言いました「子(あなた)は朝廷で三回も私を無視しましたが(一度目は話しかけても応えず、二度目は人がいる中に入り、三回目は家に帰りました)、私に問題があるのでしょうか。私に過失があるのなら教えてください。」
申叔豫が言いました「私は罪を得ることを恐れます。子(あなた)と話すことはありません。」
子馮が聞きました「なぜ罪を得るのですか。」
申叔豫が答えました「以前、観起は子南に寵されました。そのため、子南が罪を得て観起は車裂に処されました。なぜ畏れないのですか。」
子馮は慌てて車を御して還りました。しかし恐れのため、車をうまく御せません。やっと家に着くと、八人に言いました「私は申叔に会った。夫子(彼)こそが死者を生き返らせ、骨に肉をつけることができる人物だ。夫子のように私を理解している者だけがここに残れ。そうでなければ交わりを絶つ。」
八人は去り、康王はやっと子馮を信用しました
 
[] 十二月(楊伯峻の『春秋左伝注』によると恐らく十一月の誤り)、鄭の游(昭子。字は子明。公孫蠆の子)が晋に向かう途中の出来事です。
ある人が妻を娶り、家人が新婦を迎えに行きました。鄭の国境を出ようとしていたは、新郎の家に向かう新婦の一行に遭遇します。するとは新婦を奪ってその地の邑に滞在しました。
丁巳(恐らく十一月十四日)、妻を奪われた夫がを攻撃して殺し、妻を連れて逃走しました。
 
鄭の子展はの子・良を後継ぎに立てず、大叔(世叔。游吉。公孫蠆の別の子で、の弟)に公孫蠆の家系を継がせました。
子展が簡公に言いました「国卿とは国君の貳(補佐)であり、民の主なので、慎重でなければなりません。子明の類の者は除くべきです。」
子展は妻を奪われた者を探して家に帰らせ、游氏には怨みを持たないように命じて言いました「こうするのは悪を宣揚しないためだ。

双方が怨みを持ったら報復しあい、游の醜悪を広めてしまうため、それを防ぐための措置でした。

[十一] 前年書きましたが、『史記孔子世家』等はこの年に孔子が産まれたとしています。
 
 
 
次回に続きます。