春秋時代161 東周霊王(二十四) 欒盈帰国 前550年(1)

今回は東周霊王二十二年です。三回に分けます。
 
霊王二十二年
550年 辛亥
 
[] 春二月癸酉朔、日食がありました。
 
[] 三月己巳(二十八日)、杞孝公が在位十七年で死にました
弟の文公・益姑が即位しました。
 
晋の悼夫人(悼公夫人。晋平公の母。恐らく杞孝公の妹)が杞孝公のために喪に服しましたが、平公は音楽を退けませんでした。当時の礼では、隣国で喪があったら音楽を廃すことになっていたようです。
 
[] 夏、邾の畀我(または「畀鼻」)が魯に出奔しました。この事件の詳細はわかりません。
 
[] 杞が孝公を埋葬しました。
 
[] 陳哀公が楚に入朝しました。
楚に出奔していた公子・黄(哀公の弟)が二慶(陳の大夫・慶虎と慶寅)を訴えました(東周霊王十九年・前553年参照)楚が二人を招きましたが、二慶は恐れて楚に行こうとせず、慶楽を派遣します。楚は慶楽を殺しました。
哀公不在の陳で慶氏が謀反しました。
 
楚の屈建が陳哀公に従って陳を包囲しました。陳人は城を築いて抵抗します。
築城の工事で版(城壁を固める板)が崩れ落ちたため、慶氏は役夫(工事に従事する者)を殺しました。怒った役夫達は互いに連絡を取り合い、それぞれの長を殺します。更に慶虎と慶寅も殺しました。
楚は公子・黄を陳に帰国させました。
 
[] 晋が呉と婚姻を結ぶことになりました。晋女が呉に嫁ぎます。
斉荘公は晋女のために媵(新婦に従って陪嫁する女性)を出し、析帰父に護送させました。この機会を利用して、晋から亡命した欒盈とその士を媵の車に隠し、晋の曲沃(一説では欒盈の邑)に送ります。
夜、欒盈が胥午(曲沃大夫)に会って帰還と挙兵の計画を告げました。胥午が言いました「いけません。天に廃されたのに、誰が興隆できますか。子(あなた)は死から逃れられないはずです。私は命が惜しいのではありません。成功しないと分かるから、反対するのです。」
欒盈が言いました「そうだとしても、子の協力を得て死ねるのなら、後悔することはない。失敗したとしたらそれは私が天に見放されたからであり、子の咎にはならない。」
胥午は協力に同意しました。
 
胥午は欒盈を隠してから曲沃人を酒宴に招き、音楽を奏でました。胥午が言いました「もしも欒孺子(欒盈。欒氏の後継者)を探しだすことができたら、どうだろう。」
人々が言いました「主を得てそのために死ぬのなら、その死も不死と同じです(死ぬ価値があります)。」
人々は嘆息し、泣き始める者もいました。杯をもって胥午が再び欒盈について話すと、人々は「主を得たら二心を抱くことはありません」と言います。
その時、欒盈が現れて一人一人に拝礼しました。
 
四月、欒盈が甲兵を率いて曲沃を出ました。魏舒(魏献子)の協力を得て昼の間に晋都・絳へ入ります。
かつて欒盈が下軍で魏絳(魏荘子。魏舒の父)の佐を勤めていたため、魏舒とも交流がありました。今回、魏舒が欒盈を援けたのはそのためです。
魏氏について説明します。『史記・魏世家』によると、晋悼公に仕えた魏絳昭子という諡号が送られました。ただし『世本・秦嘉謨輯補本』』では「荘子」となっています。
魏絳魏嬴を産み、魏が魏献子を産みました。これが魏舒です。『世』では献としており、荘と書かれています。魏嬴が存在しません

趙氏は原同と屏括の難(東周簡王三年・583年。趙荘姫が原同と屏括を讒言した時、欒氏が趙荘姫の証人になりました)が原因で欒氏を怨んでおり、韓氏は古くから趙氏と善い関係にありました。中行氏(荀氏の一支)は討秦の役(東周霊王十三年・前559年。中軍の将・荀偃の命に背いて欒盈は退却しました)が原因で欒氏を怨んでおり、范氏とは善い関係にありました。
知盈(知悼子。知罃の子)はまだ十七歳だったため、中行氏の指示に従っています。
程鄭(荀氏の別族)は平公の寵臣だったので、欒盈を支持することはありません。
魏氏と七輿大夫だけが欒氏に与しました。
 
楽王鮒(桓子)が士范宣子)と一緒にいる所に、「欒氏が来ました!」という報告が届きました。
が恐れると、楽王鮒が言いました「国君を奉じて固宮(晋君の別宮)に移れば害はありません。欒氏は多くの者に怨まれ、あなたは国政を行っています。欒氏は外から来ました(朝廷内で権勢がありません)が、あなたは権勢の座におり、多くの利を有しています。利と権があり、更に民柄(賞罰の権利)があるのですから、恐れる必要はありません。欒氏に協力しているのは魏氏だけであり、その魏氏も力で取ることができます。乱を治めるのは権です。警戒を強めれば問題ありません。」
 
平公が姻喪(親戚の葬事。悼夫人が杞孝公の喪に服していることを指します)の時だったため、楽王鮒は士墨縗・冒・絰(黒い喪服・冠・帯)を身につけさせ、二人の婦人と輦に乗って平公に会いに行かせました。士は平公を連れて固宮(『国語・晋語八』によると襄公の宮室)に入ります。
 
范鞅が魏舒を迎えに行きました。魏舒の軍は既に整列し、士卒は車に乗って欒氏を迎え入れようとしています。范鞅が速足で進んで言いました「欒氏が賊を率いて侵入しました。私の父と二三子(諸大臣)が国君と共におり、私を派遣して吾子(あなた)を出迎えさせました。私に驂乗を勤めさせてください。」
范鞅は車上の帯を持つと、魏舒の車に飛び乗り、右手で剣を触り、左手で帯を握ったまま、車を駆けさせました。僕(御者)がどこに行くか問うと、范鞅は「公のところだ」と答えます。
到着した魏舒を士階前で出迎え、その手を取って曲沃を魏舒の邑にすることを約束しました。
 
裴豹は隸(奴隷)で丹書が残されていました。丹書というのは罪を犯して官奴になった者の罪状が赤字で書かれた文書です。
欒氏には督戎という力臣がおり、国人に恐れられていました。裴豹が士に言いました「丹書を焼いてくれるのなら、私が督戎を殺しましょう。」
が喜んで言いました「汝が彼を殺してから、もしも国君に丹書を焼くことを請わなかったら、日(太陽)の咎を受けると誓おう!」
は裴豹を送り出して宮門を閉じます。督戎が裴豹を見つけて後を追いました。裴豹は低い壁を越えて隠れます。督戎が壁を越えた時、裴豹が後ろから襲って督戎を殺しました。
 
范氏の徒が楼台の裏で待機していました。欒氏は公門(宮門)を登ります。士が士鞅に言いました「(敵の)矢が国君の屋根に届いたら、汝は死ななければならない!」
范鞅は剣を抜くと卒(歩兵)を率いて欒氏と戦います。欒氏が退いたため、范鞅は車に飛び乗って追撃しました。
范鞅が欒楽に遭遇して言いました「楽よ、抵抗するな。もし私が死んだら、天に汝を訴える。」
欒楽が矢を射ましたが外れます。二発目を射るため弦を引いた時、車が槐の木の根元に横転しました。范氏の兵が戟で欒楽を打って肘を斬ります。欒楽は死亡しました。
 
欒魴は負傷し、欒盈は曲沃に逃げ帰りました。晋人が曲沃を包囲します。

以上は『春秋左氏伝(襄公二十三年)』の記述です。『史記・晋世家』には「欒逞欒盈)曲沃してを襲った。は警戒していなかったため、晋平公自殺しようとした。しかしが平の自殺を止め、を率いて欒を討った。欒れて曲沃に走った」とあります。

[] 秋、斉荘公が衛を攻撃しました。先駆(先鋒)は穀栄が王孫揮の兵車を御し、召揚が車右になります。申駆(次軍)は成秩が莒恒を御し、申鮮虞の子・傅摯が車右になります。荘公の軍は曹開が荘公の戎車は御し、晏父戎が車右になります。貳広(斉公の副車)は上之登が邢公を御し、盧蒲癸が車右になります。啓(左翼)牢成が襄罷師を御し、狼蘧疏が車右になります。胠(右翼)は商子車が侯朝を御し、桓跳が車右になります。大殿(後軍)は商子游が夏之御寇を御し、崔如が車右になり、燭庸之越が駟乗(馬車に乗るのは通常は三人ですが、四人乗ることもあり、四人目を駟乗といいます)になります。
斉軍は衛を攻めた後、晋に向かいました。欒盈を助けるためです。
 
晏嬰(晏平仲。晏子が言いました「国君は勇力に頼って盟主を討とうとしている。失敗こそ国の福となるだろう。徳がないのに功を立てたら、憂いは国君に及ぶことになる。」
崔杼(崔武子)が荘公を諫めて言いました「小国が大国の変事(晋の欒氏の変)につけこんだら必ず咎を受けるといいます。主君はよく考えるべきです。」
しかし荘公はこれらの諫言を聞き入れませんでした。
陳須無(陳文子)崔杼に会って言いました「国君をどうするつもりですか。」
崔杼が答えました「わしは既に国君に進言した。しかし国君は聞かなかった。晋を盟主にしながら、その難を自国の利益にしようとしている。群臣が危急に遭遇したら、国君にかまっている暇はない(「国君が自ら招いた禍に臣下がかまう必要はない。」または「国君が害されてもかまわない。」または「危機に陥った時、国君を殺せば晋の歓心を得ることができる」等、様々な解釈があります)。汝は様子を見ているだけでよい。」
陳須無は退席してから部下にこう言いました「崔子はもうすぐ死ぬだろう。国君に対する譴責が厳しいうえ、自分の罪(国君を殺すという罪。「国君にかまっている暇はない」という言葉を指します)は国君の罪(盟主を討伐するという罪)を越えている。善い終わりを迎えることはできない。義に則った行為でも国君を越えず、自分を抑えるものなのだから、悪い事ならなおさらそうしなければならない。」
 
ここで陳須無に関して、『史記・田敬仲完世家』から簡単に紹介します。
桓公の時代、陳国から公子・完(陳完。敬仲。陳厲公の子)が斉に出奔しました。陳完は工正に任命されます(東周恵王五年・前672年参照)
陳完は死後、敬仲と諡されました。
陳完とその子孫は田氏を名乗り、陳氏と田氏が混用されるようになります。
敬仲は稺孟夷を産みました。稺が名で孟夷が字のようです。「夷孟思」ともよばれます。
田稺孟夷は湣孟荘(または「湣孟芷」「閩孟克」)を産み、田湣孟荘が田須無(陳須無。陳文子)を産みました。陳須無は斉荘公に仕えています。
 
斉の出兵に話を戻します。
斉荘公は晋を攻撃して朝歌を取り、二隊に分かれて一路は孟門に入り、一路は大行(太行山)を登りました。
その後、熒庭に駐軍して戦勝を記念する表木を建て、郫邵に守備を置き、少水に晋兵の死体を埋めて塚を造り、平陰の役(東周霊王十七年・前555年)の報復として帰還しました。

斉軍西進の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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これに対して晋が反撃します。趙勝(趙傾子。趙旃の子)が東陽(太行山以東の地)の師を率いて追撃し、晏氂(晏莱。晏嬰の子)を捕えました。
 
八月、魯の叔孫豹が軍を率いて晋を援け、雍楡に駐軍しました
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代162 東周霊王(二十五) 臧紇出奔 前550年(2)