春秋時代162 東周霊王(二十五) 臧紇出奔 前550年(2)

今回は東周霊王二十二年の続きです。
 
[] 季孫宿(季武子)の正妻には子が産まれませんでした。姫妾の子である公鉏(公彌)が年長者でしたが、季孫宿は悼子(紇)を愛していたため、後継者には悼子を立てたいと思っていました。そこで申豊に相談しました「私は彌と紇のどちらも愛していから、(年上かどうかではなく)才がある者を選んで後継者に立てたいと思う。」
申豊は応えずに速足で退席すると、家に帰り、家族を集めて引越しの準備を始めました。後継者の選択に参与したくないからです。
後日、季孫宿が再び申豊を訪ねました。すると申豊は「そのようにするのなら、車を用意してここを去ります」と言いました。季孫宿は相談をあきらめました。
 
季孫宿が臧紇(臧孫紇。臧武仲。魯の季・孟・叔・臧・郈五氏は、家を継いだ者に「孫」をつけました)を訪ねると、臧紇はこう言いました「私を酒宴に招待したら、あなたのために動きましょう。」
季孫宿は大夫を集めて酒宴を開き、臧紇を上客にします。季孫宿が賓客に酒を献じ終わると、臧紇は北に位置する場所に重席(座布団のような敷物を重ねた席。公は三枚、大夫は二枚が重ねられました)を作りました。新樽(新しい杯)を洗って席に置き、悼子を招きます。悼公が現れると臧紇は席を降りて迎え入れました。主客が席を降りたため、他の客も立ち上がります。悼子が南を向いて座り、主人の地位が確定しました。季孫宿の後継者に認められたことになります。
主人と賓客が相互に酒を勧めて言葉を交わし、それぞれの席に着いてから、臧紇は公鉏も招きました。季孫宿は臧紇が公鉏を突然招いたため、驚き顔色を変えました。
臧紇の手配で、公鉏には他の賓客と一緒に、年齢の序列に応じて席が設けられます。主人と賓客が相互に酒を勧めて席に着くことを「旅」といい、「旅」が終わってから公鉏を席に就かせたのは士の礼に則ったようです。悼子には大夫の席を設け、公鉏には士の礼を用いたので、ここからも悼子が後継者に選ばれたことがわかります。
 
後日、季孫宿は公鉏を慰めるために馬正に任命しました。馬正は大夫の家の司馬で、大夫の土地の軍賦を担当します。しかし公鉏は怒って拒否しました。
閔子馬(閔馬父)が公鉏に言いました「『禍福に門はなく、人によって招かれる(禍福無門,唯人所召)』といいます。人の子たる者は、自分が不孝であることを恐れるべきであり、地位がないことを憂いるべきではありません。恭しく父の命に従っていれば、事態は必ず変化します。孝敬であれば、富(福)は季氏(悼子)の倍になるでしょう。逆に姦邪にして法度に従わなければ、下民の倍の禍を受けることになるでしょう。」
公鉏は納得して朝から夜まで恭しく父に仕え、慎重に職責を全うしました。
喜んだ季孫宿は公鉏に酒宴を開かせ、自ら宴に用いる器具を持って参加し、全て公鉏に与えました。この後、公鉏は富を手にします。また、公鉏は魯襄公に仕えて左宰に任命されました。
 
仲孫速(孟速。孟荘子。孟孫)は臧孫紇を嫌っていましたが、季孫宿は臧孫紇と善い関係にありました。
仲孫速の御騶(馬を養い御者を勤める官)・豊点(豊が氏、点が名)は羯(仲孫速の庶子が好きだったため、羯にこう言いました「私の言に従えば、必ず孟孫氏を継ぐことができます。」
豊点が再三繰り返してから、羯は従うことにしました。
やがて仲孫速が病に倒れると、豊点が公鉏に言いました「もしも羯を立てることができたら、臧氏への報復になります(公鉏は臧紇のために後継者になれなかったため、臧氏を怨んでいます)。」
そこで公鉏は季孫宿にこう言いました「孺子・秩(羯の兄。孟氏の後継者)は既に跡を継ぐことが決まっています。しかしもしあなたが羯を立てることができれば、季氏の力は臧氏よりも大きいことになります(臧紇は季孫宿の後継者に悼子を立てましたが、これは元々季孫宿が望んでいたことなので、臧紇は助けただけです。もしも季孫宿が孟孫子に対して、既に後継者に立てられている孺子秩を廃して羯を立てることができれば、季氏は臧氏よりも力が大きいということになります)。」
季孫宿は同意しませんでした。
 
己卯(初十日)、仲孫速が死にました。
公鉏は羯を奉じて戸の傍に立ちます。古代の葬礼では、死者が部屋の中にいる間、後継者が戸の南に立って弔問客の対応をすることになっていました。戸の傍に立ったというのは、羯が仲孫速の後継者になったことを表します。
季孫宿が弔問に来て哭礼し、部屋を出てから聞きました「秩はどこだ。」
公鉏が答えました「羯がここにいます。」
季孫宿が言いました「孺子が年長者だ。」
公鉏はこう言いました「年長者に何の意味がありますか(年長者の公鉏も家を継げませんでした)。才があるかどうかが重要です。これは夫子(仲孫速)の命でもあります(恐らく仲孫速の命というのは嘘です)。」
結局、羯が孟孫氏を継ぎ、秩は邾に出奔しました。
 
臧孫紇が弔問して哭礼を行いました。激しく哀痛します。門を出てから御者が問いました「孟孫はあなたを嫌っていたのに、あなたはこれほどまで深く悲しみました。もしも(仲が良い)季孫が死んだらどうするつもりですか?」
臧孫紇が言いました「季孫が私を愛すのは、疾疢(疾病)のようなものだ。孟孫が私を嫌うのは、薬石(薬や鍼)のようなものだ。美疢(苦痛の無い疾病)よりも悪石(苦痛のある薬石)の方がいい。悪石は(苦痛によって)私を活かすことができるが、美疢は(苦痛がないうちに)毒を広げていく。孟孫が死んだのだから、私が亡ぶ日を近いだろう。」
 
孟氏は臧氏を嫌っていましたが、仲孫速が生きている間は対立が激化することはありませんでした。しかし仲孫速が死ぬと制御が無くなり、臧孫紇を陥れる動きが起きます。
臧氏を嫌っている孟氏の人々が門を閉じて季孫宿にこう訴えました「臧氏は乱を成そうとしており、我々に安葬をさせてくれません。」
季孫宿は信じませんでしたが、これを聞いた臧孫紇は孟氏に対する警戒を強めました。
 
冬十月、孟氏が仲孫速を埋葬するために墓道を掘りました。臧氏に人を借ります。臧孫紇は正夫(正卒)を派遣して協力し、東門に墓道を掘りました。臧孫紇自ら甲士を率いて視察します。
それを孟氏が季孫宿に伝えました。季孫宿は臧孫紇が武装しているため、謀反が本当だと信じて激怒し、臧氏を攻撃しました。
乙亥(初七日)、臧孫紇は鹿門(魯都南城東門)を破って邾に奔りました。
 
以前、臧孫許(臧宣叔)は鋳国(任姓。西周武王が殷を破った後、黄帝の子孫を探して建てた国といわれています)の女性を娶り、臧賈と臧為を産みました。しかし二人が産まれてすぐに鋳女は死んでしまいます。
臧孫許は鋳女の姪(兄弟の娘)を継室(後妻)にしました。穆姜(魯宣公夫人。成公の母。襄公の祖母)の妹の子にあたります。この継室が産んだ子が臧孫紇です。臧孫紇は公宮で育ったため、穆姜に愛され、臧氏を継ぐことになりました。臧賈と臧為は鋳国に遷ります。
邾に出奔した臧孫紇は、邾から使者を派遣し、臧賈に大蔡(卜に使う大亀)を送ってこう伝えました「紇(私)は不才のため宗祧(宗廟)を守ることができなくなったので、あなたに不善(今回の難)を伝えます。しかし紇の罪は祭祀ができなくなるほどのものではありません(家系が断絶するほどのものではありません)。あなたが大蔡を主君に献上し、臧氏の後を継ぐことを申請してください。」
臧賈は「これは家の禍であり、あなたの過ちではありません。賈は命に従います」と言うと再拝して亀を受け取り、弟の臧為を送って魯襄公に請願させました。ところが臧為は兄ではなく自分が後継者になることを請います。
臧孫紇は防(臧孫紇の邑)に入ってから使者を送って襄公にこう伝えました「紇は害されたのではありません。知(智)が足りなかったのです。私個人のために請うつもりはありません(家を守るために請うのです)。先祀(先祖の祭祀)を守り、二勳(臧孫辰と臧孫許の勲功)が廃されることがないようなら、私は邑(防)から出ていきます。」
魯は臧為に臧氏を継がせることを約束しました。
臧紇は防から斉に奔ります。
 
従者が臧紇に言いました「彼等(魯の大夫)は我々の事を盟すでしょうか(ここでいう「盟」というのは、出奔した悪臣の罪状を宣言して大夫の戒めとすることです)?」
臧紇が言いました「彼等には盟にする言葉(戒めとするべき臧紇の罪状)がないはずだ。」
 
魯の大夫が出奔した臧氏の罪を戒めとするために盟を行うことになりました。季孫宿が外史を召して盟辞の内容を相談します。外史が言いました「東門氏(襄仲。嫡子・悪を殺して宣公を立てました。東周匡王四年・前609年参照)を盟した時はこう書きました『東門遂のように公命を聴かず、適(嫡子)を殺して庶を立ててはならない。』叔孫氏(東周簡王十一年・前575年参照)を盟した時はこう書きました『叔孫僑如のように国常を廃して公室を蕩覆させようとしてはならない。』」
季孫宿が言いました「臧孫の罪はこれらに及ばない。」
孟椒が言いました「なぜ城門を破ったことを書かないのですか?」
季孫宿は納得し、大夫を集めて「臧孫紇のように国の紀を犯し、門を破って逃走してはならない」と盟しました。
これを聞いた臧紇は「国に人才がいるようだ。恐らく孟椒であろう」と言いました。
孟椒は仲孫蔑(孟献子)の孫、仲孫佗の子で、子服・恵伯といいます。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代163 東周霊王(二十六) 杞梁と華舟 前550年(3)