春秋時代163 東周霊王(二十六) 杞梁と華舟 前550年(3)

今回で東周霊王二十二年が終わります。
 
[] 晋が曲沃を討伐し、欒盈を破りました。欒氏の族党が皆殺しにされます。欒魴は宋に出奔しました。
 
[] 斉荘公は晋討伐から還りましたが、国に入らず、莒を襲いました。しかし且于(莒の邑)の城門を攻撃した時、股を負傷したため一時兵を還します。
荘公は再戦のために、翌日、寿舒(莒の邑)で軍を集結させるように命じました。
夜、斉の大夫・杞殖(杞梁。梁は字)と華還(華周。恐らく周は字)が兵車に甲士を載せて且于の隘路に進入し、莒の郊外で一泊しました。
翌日、杞殖と華還が蒲侯氏(莒城附近の邑)で莒子が率いる大軍に遭遇します。しかし莒子は戦いを避けるため、二人に厚い財貨を贈って「盟を結びたい」と伝えました。
華還が応えて言いました「財貨を貪って君命(莒討伐)を棄てるのは、国君が嫌うことだ。昨晩、既に命を受けたのに、日が正午に至る前に君命を棄てたら、今後、主君に仕えることができなくなる。」
莒子は講和をあきらめ、自ら戦鼓を敲いて斉軍を攻撃しました。莒の大軍との戦いで杞殖が戦死します。
会戦後、莒は斉と講和しました。
 
斉荘公が帰還する時、郊外で杞梁(杞殖)の妻に会いました。荘公は使者を送って弔います。しかし妻はこう言いました「殖に罪があるのなら、君命を煩わせることはできません(弔問は不要です)。もしも罪から免れることができるのなら(無罪なら)、先人(夫)にも敝廬(粗末な家)があるので、下妾(私)は郊で弔を受けるわけにはいきません。」
当時の礼では、賤しい身分の者が郊外で弔問を受けることになっていました。杞殖は大夫だったので正式な弔問を要求し、荘公は誤りに気がついて杞殖の家に弔問に行きました。
 
杞梁の妻に関しては、『列女伝・貞順伝(巻四)』にも記述があります。以下、簡訳します。
杞梁の妻は子がなく、親戚もいなかったため、夫が死んでから頼るべき人がいなくなりました。妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続けます。その姿は人々の心を動かし、道を通る者は皆涙を流しました。
十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまったといいます。
夫の葬儀・埋葬が終わってから、妻は「私はどこに行けばいいのでしょう。婦人は誰かを頼りにしなければなりません。父がいれば父に頼り、夫がいれば夫に頼り、子がいれば子に頼るものです。しかし今、上は父がおらず、中は夫がおらず、下は子もいません。内に頼る者がいなければ誠意を明らかにさせ、外に頼る者がいなければ貞節を立てるものです(誰も頼る者がいないのに、誠意や貞操を棄てて生きるのは誤りです)。二人の夫に仕えることはできません(再婚することはできません)」と言い、淄水に身を投げて死にました。
 
『説苑・立説(巻四)』にも杞梁の記述があります。
斉荘公は莒を攻撃する前に、勇士に五乗の賓を与えました。五乗の賓というのは爵禄のことで、恐らく五乗(一乗は面積で六里四方)の賦税を俸禄にできたことから、この名がついたようです。または勇士に与えられた車が五乗だったのかもしれません。
この人選に杞梁と華舟は入っていませんでした。
二人は元気をなくし、家に帰っても食事をしません。すると母が言いました(どちらの母が誰に言ったのかははっきりしません。二人に言ったのかもしれません)「汝(もしくは汝等)が生きていても義を語らず、死んでも名(功名)がないようなら、たとえ五乗の爵禄があったとしても、汝を笑わない者はいないでしょう。逆に生きている間に義を行い、死んでも名を残せば、五乗の賓も皆、汝の下になります。」
母は食事をするように勧め、食べ終わると莒討伐に従軍させました。
 
杞梁と華舟は同じ車に乗って宋公に従い、莒国に至りました。莒人が迎撃すると、杞梁と華舟は車を降りて戦い、甲首三百を獲ります。
荘公が二人を止めて言いました「戦いを止めよ。寡人と共に斉国を治めよう(荘公はやっと杞梁と華舟の勇猛を知って、二人が犠牲になることを心配したようです)。」
しかし杞梁と華舟はこう答えました「主公は五乗の賓を設けましたが、我々には与えませんでした。それは我々の勇を軽視したからです。しかし敵に臨んで困難に至ると、利によって我々を止めようとしました。それは我々の行動をけがすことです。敵陣に深く入って多くの者を殺すのは、臣の任務です。斉国の利は、我々が知ることではありません。」
二人は戦いを続け、莒軍の陣営を崩していきます。莒軍で敵う者はいませんでした。
 
二人が莒の城下に迫った時、莒人は火がついた炭を地にばらまきました。二人の進撃が止められます。すると車右の隰侯重が言いました「古の士は、艱難を乗り越える時、使える物を利用したといいます。私があなた達を通過させましょう。」
隰侯重は楯を持ったまま火炭の上に伏せました。その上を二人が走って渡ります。
二人は振り返って哭しました。華舟が長く泣いていたため、杞梁が言いました「汝は勇を失ったか。なぜ長く哭したのだ。」
華舟が言いました「勇を失うことはない。彼の勇は我々と同じだ。しかし我々より先に死んだ。だから哀しんだのだ。」
迫ってくる二人に莒人が言いました「子(あなた達)が死ぬことはない。我々と莒国を共にしよう。」
杞梁と華舟が言いました「自国を去って敵に帰順するのは忠臣ではない。主から離れて他者の賜を受け取るのは、正行(正しい行為)ではない。鶏が鳴く時(朝)に約束したこと(斉荘公に攻撃の続行を語ったこと)を、日中(正午)に忘れるようでは、信とはいえない。敵陣に深く入って多くの者を殺すのは臣の任務だ。莒国の利は我々が知ることではない。」
二人は戦いを続け、二十七人を殺した後、戦死しました。
その妻(恐らく杞梁の妻)は夫の戦死を知って慟哭しました。その慟哭が原因で、斉の城壁の一部が崩壊したといわれています。
 
秦代の孟姜女も長城建築に駆り出された夫の死を知って慟哭し、長城の一部を崩壊させたといわれています。杞梁の妻の故事が元になっているようです。
 
[十一] 斉荘公が魯から亡命してきた臧紇に田(土地)を与えようとしました。それを知った臧紇は、荘公に謁見しました。荘公が晋との戦いについて話すと、臧紇はこう言いました「今回の戦では多くの功績を挙げました。しかし国君は鼠のようです。鼠は昼に隠れて夜動き、寝廟(宗廟)に穴を掘ろうとはしません。人を恐れるからです。今、国君は晋の乱を聞いて兵を動かしましたが、晋が安定したらまた晋に仕えることになります。鼠と同じでしょう。」
荘公は田を与えるのを中止しました。
臧紇は荘公の命運が明るくないことを知り、あえて深く関わらないようにしたようです。
 
[十二] 『史記・秦本紀』にはこの年(秦景公二十七年)、「秦景公が晋に入って晋平公と盟したが、暫くして背いた」とあります。『春秋左氏伝』には記述がありません。
 
[十三] この年、東周王城の北を流れる穀水と、王城の南を流れる洛水が溢れました。穀水が王城の西で南下し、洛水にぶつかります。水流によって王城の西南が破壊されました。
周霊王は水流を塞ぐ工事を行いました。
この時、太子・晋が霊王を諫めましたが、霊王は聞き入れませんでした。太子・晋の言葉は『国語・周語下』に収録されていますが、長いので別の場所で書きます。

春秋時代 太子晋の諫言

 
 
 
次回に続きます。

春秋時代164 東周霊王(二十七) 棘沢の戦い 前549年