春秋時代 太子晋の諫言

東周霊王二十二年(前550年)、東周王城の北を流れる穀水と、王城の南を流れる洛水が溢れました。穀水が王城の西で南下し、洛水にぶつかります。水流によって王城の一部が破損しました。

春秋時代163 東周霊王(二十六) 杞梁と華舟 前550年(3)


霊王が川の流れを止めて王城を修築しようとしましたが、太子・晋が諫めます。以下、『国語・周語下』から簡訳します。

 

太子・晋が霊王に言いました「古に民を治めた者は、山を崩さず、藪(水がない沢)を埋めず、川を塞がず、沢(湖泊)を開かなかったといいます。山とは土が集まった場所、藪とは万物が帰る場所(物は低地に集まります)、川とは気を導く場所、沢とは水が溜まった場所です。天地が形成された時から物が集まって高地(山)となり、物が帰して低地(沢)となりました。高地に流れが通じて川谷ができ、気を導きました。低地に水が溜まって沢ができ、集まった物を潤わせました。だから高地は崩れることなく、万物もあるべき場所が定められ、気は低地に留まらず、遠くに拡散することもないのです(高地・低地、山・川・藪・沢があるから、万物に秩序があるのです)。万物があるべき場所にいるから、民は生きている間にそれらを利用し、死んでから埋葬することができるのです(山が崩れないから死者を埋葬できます)。そのおかげで夭(早世)、昏(困惑)、札(疫病)、瘥(疾病)の憂いがなくなり、飢寒・乏匱(窮乏)の患がなくなり、上下が一体になって不測の事態に備えることができるようになります。これ(天地の性)は古の聖王が慎重にしたことです。

かつて共工がこの道(道理)を棄てて、淫楽に耽り、百川を塞ぎ、高地を崩して沼沢を埋めたため、天下を害すことになりました。その結果、皇天(上天)共工に福を与えず、庶民も共工を助けず、禍乱が同時に起きて共工を滅ぼしました。有虞氏(帝舜)の時代(実際は帝堯の時代)、崇伯鯀も淫心をほしいままにし、共工の過ちを犯したため、堯が羽山で誅しました。その子・伯禹は以前の過ち知り、新しい方法を考え、天地や百物の形象に則り、民の利を基準とし、群生(生物)を傷つけることがありませんでした。共工の従孫である四嶽(諸侯の伯)が禹を補佐し、土地の高低に従って川を導き、必要に応じて水を蓄え、万物を豊かにしました。九山を高くし、九川を流れさせ、九沢を囲み、九藪を豊かにし、九原(平地。耕地)を拡げ、九隩(隩は内の意味。九州全土)を人が住める場所にし、全ての河川を四海に通じさせたのです。そのおかげで、天には伏陰(夏なのに寒くなること)がなくなり、地には散陽(冬なのに暖かくなること)がなくなり、水に気が溜まることも、火が大きく燃え上がって災害になることも、神(鬼神)が乱行することもなくなり、民の淫心もなくなり、四季が狂うこともなくなり、生物が害を受けることもなくなりました。禹の功と法則に則れば、功績を立てられないはずはなく、帝心(天の心。または帝堯の心)に沿うこともできます。皇天(上天。または帝堯)は禹を嘉し、天下を治めさせて『姒』という姓を与え、『有夏』の氏を名乗らせました(禹を夏国に封じました)。禹が祉(福)をもたらして富を大きくし、万物を生育させたからです(「姒」は「祉」に通じるようです。「夏」には「大」という意味があります)。また、四嶽にも国を与えて侯伯(諸侯の長)に任命しました。『姜(四嶽の先祖とされる炎帝の姓)』という姓を与え、『有呂』という氏を名乗らせます(四嶽を呂国に封じました)。その能力によって禹の股肱心膂(股は太股。肱は腕。心は心臓。膂は脊髄。重要な人物を意味します)となり、物を養って民を豊かにしたからです(呂は膂と同音です)

この一王四伯は寵を受けていたから成功したのでしょうか。皆、亡王鯀と共工の後代です(始めから寵を受けていたのではありません)。彼等は嘉義大義を用いることができたから、後世まで祭祀が守られているのです。『有夏』は衰退しましたが、杞国も国もまだ続いています。(姜姓の)申国や呂国は衰退しましたが、斉国や許国が存続しています。嘉功(大功)があったから、姓を与えられて祭祀を受け継ぎ、場合によっては天下を有することもできたのです(禹を指します)。それらを失うのは、嘉功が慆淫(怠慢・淫虐)の心に変わるからです(夏桀等です)。彼等は氏姓を失い、盛強を取り戻すことができず、後嗣が途絶えて祭祀を行う者がいなくなり、子孫は隸圉(奴隷や養馬を職とする身分が低い者)に落とされました。亡んだ者は寵を受けていなかったのが原因でしょうか?皆、黄帝炎帝の子孫です鯀は黄帝の子孫。共工炎帝の子孫。夏桀は大禹の子孫です。本来は寵を受けるべき立場にいました)。彼等は天地の法度に従わず、四時(四季)の秩序を無視し、民神の義(便宜)を考慮せず、生物の法則に倣わなかったから、滅んで後裔がいなくなり、祭祀が途絶えたのです。その後、再び祭祀を回復できたとしたら、それは慆淫の心が忠信の心に変わったからです。天地に倣って時動に順応し(時節に応じ)、民神と和して物則(生物の法則)に則れば、高尚明達によって大功を明らかにし、姓氏を与えられ、美名(名声)を得ることができます。もしも先王の遺訓を守り、典図刑法典礼・図象・刑律・法制)を研究し、興廃の歴史を観察すれば、これらの道理は全て知ることができます。興隆した者は必ず夏や呂の功があり、廃亡した者は必ず共工や鯀の失敗があります。今、我々の政治は恐らく誤りがあります。それが二川の神を動かし、二神に争わせて王宮に被害をもたらしました。王はそれを塞ごうとしていますが(王宮を修築して禍乱を隠そうとしていますが)、相応しくありません。

こういう言葉があります『乱人の門前を通るな(無過乱人之門)。』『調理する者を助ければ食べることができる。喧嘩する者を助ければ殴られる(佐饔者嘗焉,佐闘者傷焉)。』『財色(禍の元)を好まなければ、禍は来ない(禍不好,不能為禍)。』また、『詩大雅・桑柔)』にはこうあります『四頭の戦馬が駆け走り、多数の軍旗が空になびく。乱が生まれて収まることなく、衰亡を招かない国はない(四牡騤騤,旟旐有翩,乱生不夷,靡国不泯)。』『(暴君に堪えることができない)民が乱を起こす。(困窮した民は)敢えて荼毒の道(苦しい道。叛乱)を選ぶ(民之貪乱,寧為荼毒)。』禍乱を見ながら警戒しなければ、禍は多くなり、過失を隠そうとしても暴露されるだけです。民の怨乱ですら制御するのは難しいのに、神がもたらしたことならなおさらでしょう。王は川の争い(二川がぶつかり合うこと)を防ぎ、王宮を飾ろうとしていますが、それは乱を飾って争いを助けることであり、禍を拡大して自分に害を招くことになります。先王の厲・宣・幽・平四代が天禍を招いて今に至っています。我々がその禍を更に大きくしたら、禍は長く子孫に及び、王室はますます衰弱するでしょう。

我々の先祖は后稷の時から禍乱を鎮めることに努め、文・武・成・康四王の時代になって、やっと民を安定させることができました。后稷が始めて民を安んじさせてから、十五代後の文王によってやっと天下が平定され、十八代目の康王の時代になってやっと民が安定できたのです。それほど困難な事業だったのです。その後、厲王が法典を変えてから十四代になります。周の徳は十五代で初めて安定しました。周の禍も十五代あれば充分大きくなるでしょう。私は朝も夜も畏れてこう言っています『どうすれば徳を修めて王室を光揚させ、天の福を迎え入れることができるのだろう。』しかし王は禍乱をますます大きくしようとしています。王は黎九黎)・苗三苗王や夏・商の末世(夏桀・殷紂)を教訓とするべきです。彼等は、上は天に倣わず、下は地に則らず、中は民と和すことなく、四方で時に順応せず、神祇を奉じることもありませんでした。この五則象天・儀地・和民・順時・共神)を棄てたので、人々に宗廟を破壊され、彝器(祭器)を焼き棄てられ、子孫は隸となり、下は民にまで禍が及んだのです。王は前哲(かつての賢人)の美徳による法則を観るべきです。彼等はこの五者を守ったので、天の豊福を受け、民に擁戴され、子孫が繁栄し、美名が伝わりました。これは天子なら知っているべきことです。

天に認められた者の子孫でも、畎畝(農地)にいることがあります(帝王の子孫でも庶民や農夫になることがあります)。これは民を乱したからです。畎畝で産まれた人でも、社稷(朝廷)にいることがあります。これは民を鎮めようとしているからです。不思議なことではありません。『詩(大雅・蕩)』にはこうあります『殷が教訓としたのは遠くないことだ。それは夏王の世だ(「殷鑒不遠,在夏后之世」。商王朝は前の時代にあたる夏王朝末期の暴政を教訓にして自身を戒めた、教訓とすることは身近にある、という意味です)。』王宮の修築は乱を招きます。それは天神に対しては非祥であり、地物(地上の万物の秩序)に対しては非義であり、民に和すという法則に対しては非仁であり、四方の時宜に対しては非順であり、前訓に対しては非正だからです。『詩詩経』『書書経』や民の憲言(格言・ことわざ)から亡王の行いを知ることができます。上下(天地万物)を観て、正しいとする根拠がないことに対しては、慎重に考えるべきです。大は象(天象)に従わず、小は文(詩書)に従わず、上は天刑(天の法)にあわず、下は地徳にあわず、中は民則(法則)にあわず、時宜にもあわないのに行動したら、節(法度)を失います。行動に節がないのは、禍害の道となります。」

しかし霊王は諫言を聴かず、王城の西南に流れた穀水を塞ぎました。

 

霊王の子・景王の時代になると(太子・晋は早死しました。景王は太子・晋の弟のようです)寵臣が増え、王室が乱れました。景王が死ぬと王室は大乱に陥ります(子朝の乱)

貞王(貞定王)の時代(戦国時代)になると、周王室は完全に衰微しました。