春秋時代164 東周霊王(二十七) 棘沢の戦い 前549年

今回は東周霊王二十三年です。
 
霊王二十三年
549 壬子
 
[] 春、魯の叔孫豹(穆叔)が晋に行きました。
晋の士范宣子)が迎え入れて質問しました「古人は『不朽の死(死而不朽)』という言葉を残したが、これはどういうことであろうか?」
叔孫豹が答えないため、士が言いました「私の祖先は、虞舜以前は陶唐氏、夏の時代は御龍氏、商の時代は豕韋氏、周の時代は唐杜氏であり、晋主が夏(中原)の盟主になってからは范氏となった。これを不朽というのであろう。」
叔孫豹が言いました「私が知る限りでは、それは世禄というものであり、不朽ではありません。魯の先大夫に臧文仲という者がいましたが、彼が死んでからもその言は生きています。これを不朽というのでしょう。彼はこう言いました『最も重要なのは徳を立てること。次は功績を立てること。その次は言を立てることだ(大上有立徳,其次有立功,其次有立言)。』この言葉は既に久しくなるのに忘れられていません。これこそが不朽というものです。姓を保って氏を受け、宗祊(宗廟)を守って代々祭祀を途絶えさせない者は、どこの国にもいます。これは禄(官)が大きいのであって、不朽とはいえません。」
 
[] 晋の士が政事を行ってから、諸侯の幣(盟主への貢物)が重くなりました。鄭もその負担に苦しみます。
二月、鄭簡公が晋に入朝した時、子産が子西(公孫夏。公子・騑の子。簡公の相として晋に同行しました)に書を預けてにこう告げました「子(あなた)が晋国を治めてから、四鄰の諸侯から令徳(美徳)を聞いたことがないのに、重幣に関することは耳にします。僑(子産)はこれに戸惑っています。君子が国や家を治める時は、財貨がないことを憂いとせず、令名(名声)がないことを難とするといいます。諸侯の財が晋の公室に集まれば、諸侯は二心を抱きます。もしも吾子(あなた)が諸侯の財を自分の利としたら、晋国内部が分裂します。諸侯が背けば晋国が害を受け、晋国内部が分裂したら、あなたの家が害を受けます。何故それが理解できないのでしょう。そうなった時、財貨が役に立ちますか。
令名とは徳を載せる輿(車)です。徳とは国家の基礎です。基礎があれば破滅することはありません。だから令名を得るために努力するのです。徳があれば楽しむことができ、楽しめれば長久を得ることができます。『詩』にはこうあります『君子とは楽しいものだ。君子は国や家の基礎である(『小雅・南山有台』。『楽只君子,邦家之基』)。』これは君子に令徳があるからです。また、こういう句もあります『上帝が汝に臨んでいる。汝は徳に専心せよ(『大雅・大明』。「上帝臨女,無貳爾心」)。』こうすることで令名を得ることができるのです。寛恕によって徳を明らかにすれば、令名が天下に行き届き、遠い者も帰順して近い者は安らかになります。他者から『あなたのおかげで私は生きています』と言われる方がいいですか。それとも『あなたは私から搾取して生きている』と言われたいですか。象は象牙を持っているために自分の身を損なっています。それは象牙に価値があるからです。」
は忠告に喜び、幣を軽くしました。
 
鄭簡公は晋に入朝して幣を軽くするように請うのと同時に、陳の討伐も願い出ました。鄭簡公がに稽首します。が稽首を止めさせると、子西が言いました「陳国は大国(楚)に頼って敝邑を侵しています。寡君(鄭君)はその罪を問うように請願しているので、稽首しないわけにはいきません。」
 
[] 魯の仲孫羯(孟孝伯)が軍を率いて斉を攻めました。前年、斉が晋を攻めたため、晋のための出兵です。
 
[] 夏、楚康王が舟師(水軍)を率いて呉を討伐しました。しかし軍政がなかったため、戦功無く還りました。軍政というのは軍の教育・訓戒という説と、賞罰の規定という説があります。
 
[] 斉荘公は晋を攻撃してから恐れを抱き、楚康王に会うことにしました。
楚康王は(または「啓彊」)を斉に送って聘問し、会見の日時を決めます。
斉人は軍内で社(土地神)を祭ってから大規模な蒐(狩猟。閲兵)を行い、疆に見せて武威を示しました。
斉の陳須無(陳文子)が言いました「斉は寇(敵の侵略)を招くだろう。兵器をしまうことがなかったら、兵器による禍を招くものだ。」
 
[] 秋七月甲子朔、皆既日食がありました。
 
[] 魯周辺で大水(洪水)がありました。
 
[] 八月癸巳朔、日食がありました。
これは『春秋』経文の記述です。但し、楊伯峻の『春秋左伝注』は、七月に皆既日食があったばかりなので、一カ月後にまた日食がおきるということはあり得ない、としています。
 
[] 秋、斉荘公は晋が出兵の準備をしていると聞き、陳無宇を疆に従わせて楚に送りました。戦争が近いため会見ができないことを説明し、あわせて楚の出兵を請います。
崔杼が軍を率いて陳無宇等を送り出し、そのまま莒を攻撃して介根(莒の旧都)を侵しました。
 
[] 晋侯(平公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(武公)、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子が夷儀(または「陳儀」。晋地)で会しました。
諸侯は斉を討伐しようとしましたが、洪水のため中止しました。
 
[十一] 冬、楚子(康王)、蔡侯(景侯)、陳侯(哀公)、許男(霊公)が鄭を攻めました。斉を援けるためです。
楚軍は鄭の東門を攻めてから、棘沢に駐軍しました。
晋を中心とする諸侯は夷儀から鄭の救援に向かいます。
 
晋平公が張骼と輔躒を送って楚に戦いを挑ませました。地形に詳しい鄭人に御者を出させます。鄭人が宛射犬(鄭の公孫。但し誰の孫に当たるかは分かりません。宛は食邑です)を御者にすることを卜うと、吉と出ました。鄭の子太叔(大叔)が宛射犬を戒めて言いました「大国(晋)の人と対等の礼を行ってはならない(鄭が小国だからです)。」
宛射犬が言いました「衆寡に関係なく、御者は(大国でも小国でも、車右と車左より)上です。」
子太叔が言いました「それは違う。小山に松柏(大樹)は育たないものだ(大国と小国は平等ではない)。」
 
張骼と輔躒は陣の帳幄の中にいましたが、宛射犬は外に坐らされ、二人の食事が終わってから宛射犬に食事をさせました。また、二人は宛射犬に広車(挑戦の時に使う戦車)を御させ、自分は通常の兵車に乗って移動します。
楚陣に近づくと二人は広車に移りましたが、轉(車の後ろの横木)に坐って琴を弾き始めました。車が楚陣に接近した時、宛射犬は二人に告げずに突然馬を駆けさせました。二人は袋から冑を出して被り、楚の営塁に入ると、車から下りて楚兵を投げ飛ばしたり捕虜にして脇の下に抱えました。
すると宛射犬は二人を待たずに車を還します。二人は車を追いかけて飛び乗ると、弓を抜いて楚の追手を射ました。
難を逃れた二人は再び轉に跪いて琴を牽き、宛射犬に言いました「公孫よ。同じ車に乗ったら兄弟ではないか。なぜ二回とも声をかけなかったのだ。」
宛射犬が言いました「最初は突入することで精いっぱいだったからです。その後は敵の多勢を恐れたから、余裕がなかったのです。」
二人はこれを言い訳だと知っていましたが、笑って「公孫は性急だ(気性が激しい。不平に屈しない)」と言いました。
 
楚康王は棘沢から帰国し、啓彊に軍を預けて陳無宇を送り帰させました。
 
[十二] 魯襄公が夷儀の会から還りました。
 
[十三] 呉は楚の舟師の役に報復するため、舒鳩(楚の属国)人を招きました。舒鳩は楚に背きます。
楚康王は荒浦(舒鳩の地)に駐軍し、沈尹・寿と師祁犂(二人とも楚の大夫。師祁は官名を元にした氏。あるいは師が氏で祁犂が名)を送って舒鳩を譴責します。
舒鳩子(舒鳩の国君)は恭しく二人を迎え入れて背反の事実はないと伝え、盟を受け入れることを望みました。二人が復命した後、康王は舒鳩を攻撃しようとしました。しかし子馮が言いました「いけません。彼等は背いていないと言っており、盟を求めています。これを攻めたら無罪を討伐することになります。今は帰国して民を休め、経過を見守るべきです。その結果、二心がなければ、それ以上望むことはありません。逆にもし本当に背くようなら、彼らには名分がないので、必ず討伐が成功します。」
楚軍は引き上げました。
 
[十四] 陳が再び慶氏の党(前年参照)を討伐し、鍼宜咎(陳鍼子の子孫)が楚に出奔しました。
 
[十五] 前年、洛邑付近を流れる穀水が溢れ、洛水に合流しました。水流によって周王城が破損します。
この年、斉が郟(周都)の築城に協力しました。斉は晋に背いたため、周の歓心を得ようとしたようです。
 
魯の叔孫豹(穆叔)が京師に行って周王室を聘問し、城の完成を祝賀しました。周霊王は叔孫豹が礼に則っていることを称賛し、大路(天子の車)を下賜しました。
 
[十六] 晋平公は程鄭を寵信しており、下軍の佐に任命しました。欒盈の代わりです。
鄭の行人(使臣)・公孫揮(子羽)が晋を聘問した時、程鄭が聞きました「どうすれば降階(降格)するのでしょうか。」
公孫揮は答えられなかったため、帰国してから然明に話しました。然明はこう言いました「彼はもうすぐ死ぬか、亡命することになるでしょう。身分が貴くなったら恐れを知り、恐れたら降階を心配するから、自分の能力に相応しい位階を得ることができるのです。降階とは、自分の位を人に譲って自ら人の下になるというだけのことです。わざわざ質問することではありません。既に高位に登ってから、自分には相応しくないと思って階位を降ろすことができるのは、知人(智者)です。程鄭のような者にはできません(程鄭は阿諛追従によって卿位を得たので、智者ではありません)。彼の質問は亡命の予兆でしょう。そうでなければ惑疾(不安で精神が安定しないこと)であり、もうすぐ死ぬことを知って憂いているのです。」
 
[十七] 魯を大飢饉が襲いました。
 
[十八] この年、燕文公が在位六年で死に、懿公が立ちました。
 
[十九] 『資治通鑑外紀』によると、この年、晋平公が叔誉(叔向)を周に聘問させました。
この時の出来事は『帝王世紀』に書かれています。
周霊王の太子・晋が叔誉と会話し、叔誉は五回のうち三回言い負かされました。
帰国した叔誉が平公に言いました「太子はわずか十五歳ですが、臣はかないませんでした。主公は太子に良くするべきです。」
この時の事は『逸周書』と『国語』にも書かれているので、別の場所で紹介します。

春秋時代 叔向の周聘問


[二十] 『資治通鑑外紀』はここで『国語・晋語八』から晋の出来事を引用しています。別の場所で書きます。

春秋時代 晋の出来事

 
 
 
次回に続きます。