春秋時代 叔向の周聘問

晋の叔誉(叔向。羊舌肸が周を聘問しました。

春秋時代164 東周霊王(二十七) 棘沢の戦い 前549年

本編では『資治通鑑外紀』と『帝王世紀』を元に書きました。ここでは『逸周書』と『国語』の内容を紹介します。
 
まずは『逸周書・太子晋解(巻六十四)』から叔誉と太子・晋の会話を簡訳します。

周を聘問した叔誉は太子・晋と答弁をし、五件のうち三件は言葉に窮しました。叔誉は不才を恥じて帰国し、平公にこう言いました「太子・晋は十五歳ですが、臣はまともに受け答えができませんでした。主君は声就と復与(どちらも晋が周から奪った邑)の地を返すべきです。もしも返さなかったら、太子が天下を得た時、咎を受けるでしょう。」

平公は同意しようとしましたが、師曠が反対して言いました「瞑臣(盲目の臣。師曠は盲目の楽師です)を派遣して太子と話をさせてください。私に勝てたら、土地を返しましょう。」

師曠は周に入り、太子・晋に会って言いました「王子の語は泰山より高い(無上。この上ないほど優れている)と聞いたので、私は夜も眠れず、昼も落ち着かず、遠路を苦ともせずここまで来ました。一言をいただきたいものです。」

太子が言いました「私は太師師曠)が来ると聞いてとても喜びましたが、同時に恐れも抱きました。私はまだ幼いので、(あなた)に会って畏怖し、心の内のことを全て忘れてしまいました(だから授けられる言葉はありません)。」

師曠が言いました「王子は古の君子のように事を成就させても驕ることがないと聞きました。(その太子に会えるので)晋から周に来るのにも、労苦を感じなかったのです(だから是非、言葉を戴きたいです)。」

太子が言いました「古の君子は、その行いは慎重で、食糧を蓄え、道路に障害を設けず、百姓を喜ばせることができました。人々は君子に会うために遠くから助けあって訪問し、喜びのおかげで遠路を遠く感じなかったものです(私は古の君子には及びません)。」

師曠は太子を称賛してからこう言いました「古の君子の行動は、我々の準則にすることができます。舜より後で誰に広徳があったでしょう。」

太子が言いました「舜は天のような人物です。舜は自分の場所にいたまま天下を利し、遠方の人も保護し、人々は皆、仁を得ることができました。このような存在を天といいます。禹は聖(聖人)です。労苦が多くても功を誇らず、天下を利しました。好取不好与(「取ることを好み、与えることを好まず」?)、度が正であること(物事が適切・適度であること)を求めました。このような存在を聖といいます。文王の大道は仁であり、小道は恵でした。天下の三分の二を擁しながら他者を敬い商に仕え、天下の衆を得た時にはその身を失いました(逝去しました)。このような存在を仁といいます。武王は義です。一人(殷紂)を殺して天下を利し、異姓も同姓もいるべき場所を与えられました。このような存在を義といいます。」

師曠は太子を称賛してから、また言いました「名号の区別において、異姓、外邦も含む王・侯・君・公の中で、どれが最も貴く、最上でしょうか。」

太子が答えました「人が生まれると丈夫(男子)を重視します。丈夫は『胄子(長子。後継者)』になるからです。胄子が成長して官に就いたら、『士』といいます。士が衆を率いて適時に労作したら、『伯』とよばれます。伯が善事を大衆に広め、百姓と好悪を共にできたら、『公』とよばれます。公が名声を得て万物を養い、天道と共に歩むことができたら、『侯』になります。侯が群を治めることができたら『君』になります。君に広徳があり、諸侯を任じて信を守ったら、『予一人』とよびます。善が四海に及んだら『天子』です。四荒(四方の荒遠の地)に及んだら『天王』です。四荒の人々が帰順し、怨みも非難も無ければ『帝』に登ることができます。」

師曠は厳粛な顔をして言いました「温恭敦敏(温厚聡明)で普遍の徳を変えることなく、物を聞いて(原文は「聞物□□」となっています。物の後、。二文字が読めなくなっているようです)、下から学んで帝臣に登り、最後は天子になった者は誰ですか。」

太子が言いました「恭敬な虞舜は光明まぶしく、義(基準・道理)を立てて律を作り、万物が栄えました。自然界の財を均等に分割し、万物(民衆)を楽しませるのは、舜でなくて誰にできたでしょう(穆穆虞舜,明明赫赫,立義治律,万物皆作,分均天,万物熙熙,非舜而誰能)。」

師曠は足踏みして「素晴らしい!素晴らしい!(善哉,善哉)」と言いました。

ここまでは師曠が太子に質問し、太子は完璧な回答をしてきました。ここからは太子が師曠に質問するようになります。太子が最初に質問したのは、「太師はなぜ足踏みするのですか」というとても身近で意外なものでした。

師曠が答えました「天が寒く足がつりやすくなっているので、頻繁に足を動かしているのです。」

そこで太子は師曠を部屋に招くと、席を設けて瑟を渡しました。

師曠は『無射』という曲に合わせて歌を歌いました。歌の内容はこうです「国は確かに安定し、遠人が観光に来た。義を学んで久しく、音楽を好んでも頽廃することはない国誠寧矣,遠人来観,修義経矣,好楽無荒)。」

師曠が太子に瑟を返すと、太子は『嶠』を歌いました「なぜ遥か遠い南から、遥か遠い北の地まで来たのですか。国境を越える道のりを遠いと思わないのでしょうか(何自南極,至于北極,絶境越国,弗愁道遠)。」

これは師曠がわざわざ周に来た理由を聞いています。師曠が来た理由は太子の能力を確認し、周から奪った地を返すか返さないかを判断することです。しかしそれを言うわけにはいかない師曠は急いで立ち上がって「瞑臣は帰ります」と言いました

太子は一乗の車と四頭の馬を贈ってこう聞きました「太師は車を善く御しますか?」

師曠が答えました「御術は学んだことがありません。」

太子が言いました「あなたは『詩』を研究しているのではないのですか。『詩』にはこうあります『馬が剛烈なら手綱を緩め、馬が剛烈でなければ手綱を固くする。心は柔軟で、決断に迷ってはならない(馬之剛矣,轡之柔矣,馬亦不剛,轡亦不柔,志気鑣鑣,取予不疑)。』これが御術です。」

師曠が言いました「瞑臣は目が見えないので、人を見分ける時は耳だけが頼りです。しかし耳も寡聞なので(聞き洩らすことが多いので)、容易に言葉に窮してしまいます(太子の話が高尚すぎてついていけません)。王子は天下の宗(明主)になるのではありませんか。」

太子が言いました「太師は私に冗談を言っているのですか。太昊(伏羲)以下、堯・舜・禹に至るまで、一つの姓で再度天下を有した者はいません。木は伐るべき時に伐らなければ、天から与えられることはありません(天命とは測りがたく、時機を得なければ天下の主になることはできません。私が盟主になるかどうかは、私にはわからないことです)。あなたは人の寿命を知ることができると聞きました。教えていただけますか。」

師曠が言いました「あなたの声は清汗です(原文「汝声清汗。」「清汗」がどういう意味かは分かりません)。あなたは赤白の色をしているはずです。火色は長寿ではありません。」

太子が言いました「その通りです。私はこの後三年で、上帝がいる場所に行くはずです。あなたはこの事を口外してはなりません。あなたにも禍が及んでしまいます。」

師曠が晋に帰ってから三年もせずに、太子・晋の訃報が届けられました。

 

 

次は『国語・周語三』から叔向の周聘問時の様子です。

叔向は周に入ると諸大夫に礼幣(礼物)を贈りました。卿士・単靖公(単襄公の孫、頃公の子)にも幣を贈ったため、単靖公は宴を開いて叔向をもてなしました。宴そのものは質素でしたが単靖公の態度は恭敬で、贈(礼物)も餞(飲食)も単靖公より上の立場にいる人として用意されました。但し度を過ぎることもありません。

また、個人的に交流することもなく、見送る時も郊外を出ず、宴席では『昊天有成命詩経・周頌)』を歌いました。

 

単氏の室老が叔向を送った時、叔向が言いました「不思議なものです。『一姓が再興することはない』と言いますが、今の周は興隆するでしょう。それは単子がいるからです。昔、史佚西周の史官)はこう言いました『行動においては敬(恭敬)が最も重要であり、家を治めるには倹(倹約)が最も重要であり、徳においては譲(謙譲)が最も重要であり、事を行うには咨(意見を求めること)が最も重要である(動莫若敬,居莫若倹,徳莫若讓,事莫若咨)。』単子が私を遇した礼は、この四つを全て備えていました。宮室(屋敷)は高大ではなく、器物に彤鏤(赤く豪華な装飾)がないのは倹です。行動は慎重で行いを正し、外(朝廷)でも内(家)でも整粛であるのは敬です。賓客への宴飲や礼物が、自分の上官に対する規格を越えないのは讓です。賓客を自分の上の者とみなして礼を行うのは咨です。その上、私的な交わりをせず、衆人と一緒に郊を出ることもありませんでした。これなら怨恨を招くことがありません。家は倹、行動は敬、徳は讓、事を行う時は咨、そして怨を避けることができる。このような卿佐がいるのですから、周が振興しないはずがありません。

また、単子は『昊天有成命』を歌いました。これは盛徳を称える内容です。詩はこう言っています『大きな天が命を作り、二王(文王・武王)がそれを受ける。成王は安逸に満足せず、朝早くから夜遅くまで政治に辛勤する。光明を与えるために心を尽くし、天下に安定をもたらす昊天有成命,二后受之。成王不敢康,夙夜基命宥密。於緝熙,亶厥心,肆其靖之)。』これは成王の徳を語っています。成王は文昭(文王の徳)を宣揚し、武烈(武王の功)を確固たるものとしました。命を作った者を昊天(大きな天)と称したのは、上天を敬うからです。二王がそれを受けることができたのは、徳のある者に讓ることができたからです。成王が安逸に満足しなかったのは、百姓(百官)を敬ったからです。夙夜(朝早くから夜遅くまで)は恭(政務に対する恭敬な態度)を表します。基は始め、命は信、宥は寛(寛大)、密は寧(安寧)、緝は明、熙は広(または「光」)、亶は厚(厚実)、肆は固、靖は和を表します。詩の始めは上天を敬い、徳のある者に譲り、百姓を敬っています。詩の中間では恭・倹・信・寬を歌っています。これらは民に安寧をもたらすのに必要なことです。詩の終わりでは自分の心を広厚にして、和を固めることを歌っています。始めは徳に譲り、中は信寬を述べ、終りで和を固めれば、『成(天命を完成すること。成王の諡号』となります。単子は倹・敬・讓・咨を備えており、成徳(成王の徳。または天命を完成できる徳)と同等です。もし単子一代で興隆しなくても、子孫は必ず栄え、後世において忘れられることもないでしょう。

『詩大雅・既酔)』にはこうあります『あの家の前途はどうだろう。家族が一心になって徳を広める。君子が長生きし、永遠に天の福が与えられることを願う(其類維何,室家之壺。君子万年,永錫祚胤)。』類とは家族を指し、家族は前哲(先代の賢人)を辱めないものです。壼とは家族から民に広く拡げることです。万年とは永遠に忘れられないことを意味します。胤とは子孫が繁栄するという意味です。単子は朝も夕も成王の徳を忘れないので、前哲を辱めていません。明徳を保って王室を補佐しているので、民に徳を拡げているといえます。このように善に倣って民と厚く接するできる者は、必ず名声を得て子孫を繁栄させることができます。単子自身に隆盛が訪れなくても、その名声は他の家族ではなく単子の子孫によって引き継がれます。」