春秋時代 晋の出来事

資治通鑑外紀』が『国語・晋語八』から晋の出来事を引用しています。
以下、列記します。
 
[] 士范宣子)和大夫(和邑の大夫)と田(土地)を争い、長い間解決しませんでした。は和邑を攻撃しようとして伯華羊舌赤。中軍尉の佐)に出兵を相談します。しかし伯華はこう言いました「対外の事は軍(軍事)、対内の事は政(政事)といいます。私は外事(軍)を掌っており、他の官に干渉することはできません。吾子(あなた)が軍を外に向ける必要があるようなら、私をよんでください。」
孫林甫(孫林父。衛から亡命しました)に問うと、孫林甫はこう言いました「私は旅人(客)なので、あなたの命に従います。」
張老(上軍の将)に問うと、張老はこう言いました「私は軍事において子(あなた)に仕えています。戎(戦)に関係ないことは、私が知ることではありません。」
祁奚に問うと、祁奚はこう言いました「公族の不恭、公室の姦悪、内事(朝廷)の不正、公族大夫の貪婪、これらは私の罪です祁奚は公族大夫を管理する立場にいました)。もしも国君から与えられた官にいながら子(あなた)の私的なことに従ったら、子は表面上は私を受け入れても、内心では私を嫌うでしょう。」
籍偃(籍游。上軍司馬)に問うと、籍偃はこう言いました「私は斧鉞(刑具)を持って張孟(張老)に従い、毎日その命を聞いています。もしも夫子(彼。張老)の命があるのなら、異論はありません。夫子を無視して行動したら、吾子(あなた)の命に背くことになりますは上卿として国政の頂点にいます。籍偃が上官を無視するのは、国政そのものに対する違反であり、に対しても罪を負うことになります)。」
叔魚(叔向の弟)に問うと、叔魚は「私が子のために殺しましょう」と言いました。
 
これを聞いた叔向がに会って言いました「子と和邑の問題はまだ解決できず、大夫に意見を求めても決断できないと聞きました。訾祏に意見を求めたらどうでしょうか。訾祏は実直かつ博識です。その実直によって公正に是非を判断し、博識によって古今の出来事を比較することができます。しかも彼は吾子の家老です。国家に大事がある時は、必ず典刑に則り、耇老(年長者)の意見を聞いてから行動するといいます。」
司馬侯(汝叔斉)に会って言いました「吾子と和邑が対立していると聞きましたが、信じられないことです。諸侯が二心を持っているのにそれを憂いず、(国内の)和大夫と対立するとは、あなたが取るべき態度ではありません。」
祁午もに会って言いました「晋は諸侯の盟主であり、子(あなた)は正卿です。もしも諸侯を安定させ、晋の命に服従させることができたら、晋国内の誰が子に逆らうでしょう。和大夫とは関係を改め、大徳によって小怨を鎮めるべきです。」
 
訾祏に問うと、訾祏はこう言いました「昔、隰叔(杜伯の子。杜伯は西周宣王に殺されました)の子が周の難を避けて晋国に遷り、子輿(士蔿)を産みました。子與は理(司法官)となり、朝廷を正したので、朝廷には姦官がいなくなりました。司空になってからは国を正したので、国に敗績(大きな過ち)がなくなりました。その後、武子(士会)の代になって文公と襄公を補佐し、晋を諸侯の覇者としました。諸侯には二心がなくなります。武子が卿になってからは、成公と景公を助け、軍に敗政(誤った軍政)がなくなりました。成師(成公の軍師。実際は景公の軍師。中軍の元帥)になった時は太傅を兼任し、刑法を正し、訓典をまとめました。そのおかげで国に姦民がいなくなり、後の人は武子の法を受け継ぎました。その功績によって隨と范の二邑が与えられたのです。文子(士燮)は晋と荊(楚)の盟を成立させ、兄弟の国(鄭・衛等)との関係を強化し、間隙をなくしました。その功績によって郇と櫟の二邑が与えられました。今、吾子が位を継ぎ、朝廷には姦行がなく、国には邪民がなく、四方にも患憂がありません。内外に憂いがないのは三子子輿、武子、文子)功によって禄位を受け継いだからです。ところが、内外に憂事がないのに、和と対立しています。(和を襲って奪おうとしている)あなたに晋が寵(賞賜・食邑)を加えようとしたら(先祖のような功績がなく、逆に国内を乱そうとしているのに、晋が新たに食邑を与えたら)、あなたはどうするつもりですか。」
は諫言に喜び、和大夫に土地を与えて関係を改善しました
 
[] 訾祏の死後のことを『国語・晋語八』からです。
訾祏が死んだ時、が子の范鞅(献子)に言いました「鞅よ、以前、わしには訾祏がいた。わしは朝も夜も彼に意見を求め、それを元に晋国と我が家を治めてきた。汝はまだ一人で事を処理することができず、謀をするにも賢臣がいない。どうするつもりだ。」
范鞅が言いました「私は恭敬を心がけ、安逸を貪らず、学業に励んで仁を愛し、政治は和を重視して道(道理・正道)を遵守し、衆と謀っても歓心を得ようとせず、自分の考えが善いと思ってもそれだけに固執しないで長者の意見に従おうと思います。」
は「それなら禍から逃れることができるだろう」と評価しました。
 
[] 最後は平公に関する故事です。
平公が鴳(小鳥)を射ましたが殺せませんでした。そこで豎襄(豎は宮内の奴僕。襄は名)に捕まえに行かせましたが、逃げられてしまいました。
平公は怒って豎襄を捕え、処刑しようとします。
それを聞いた叔向は、夜、平公に会いに行きました。平公が鴳を逃がした話をすると、叔向はこう言いました「主公は豎襄を殺すべきです。昔、我が先君の唐叔は兕(犀。または牛に似た伝説の動物)を徒林で射ました。唐叔は一発の矢で兕をしとめ、その皮で大甲(鎧)を作ったので、(才を認められて)晋に封じられたのです。今、主君は我が先君・唐叔を継ぎましたが、鴳を射ても殺すことができず、捕まえようとしても逃げられました。これでは(竪襄によって)我が君の恥を広めることになります。主公は早く彼を殺すべきです。そうすれば恥が遠くに伝わることもないでしょう。」
平公は小鳥すら射殺すことができないのに、怒りにまかせて人を殺そうとしたことを恥じて、豎襄を釈放しました。