春秋時代166 東周霊王(二十九) 崔杼専権 前548年(2)

今回は東周霊王二十四年五月の続きからです。
 
[] 崔杼は鬷蔑を平陰で殺しました。荘公の母を鬷声姫というので、鬷蔑は荘公と親しかったようです。平陰は斉都・臨淄附近の険邑で、鬷蔑が守っていました。崔杼が鬷蔑を殺したのは、荘公の党が険要の地を擁すことを恐れたためです。
 
盧蒲癸は晋に、王何は莒に奔りました。二人とも荘公の党です。
 
[] 叔孫僑如(宣伯。東周簡王十一年・前575年、魯から斉に出奔しました)が斉にいた頃、叔孫還(斉の公子)が僑如の娘を斉霊公に娶らせました。娘は寵愛されて杵臼を産みます。荘公の異母弟にあたります。
丁丑(十九日)、崔杼が杵臼を擁立しました。これを景公といいます。崔杼が自ら相(右相)となり、慶封が左相になりました。
 
崔杼は大宮(太公廟)に国人を集めて宣言しました「崔氏と慶氏に協力しない者は…。」
ここまで言った時、晏子が天を仰いで嘆き、こう言いました「嬰(私)がもしも国君に忠を行うことができず、社稷を利する者と協力しないようなら、上帝の咎を受けよう。」
晏嬰は自分の誓いを立ててから崔杼と盟を結びました。
 
この内容は『春秋左氏伝(襄公二十五年)』を元にしました。『史記・斉太公世家』は少し異なります。
景公が即位すると崔杼を右相に、慶封を左相に任命しました。二相は乱が起きることを恐れたため、国人と盟を結び、「崔氏と慶氏に与しない者は死ぬ」と誓わせました。
すると晏子(晏嬰)は天を仰いで言いました「嬰は君に忠であり社稷を利することができる者だけに従おう。」
晏子が盟を結ぼうとしないため、慶封が晏子を殺そうとしましたが、崔杼はこう言いました「忠臣だ。放っておこう。」
 
呂氏春秋・恃君覧・知分』『新序・義勇』『韓氏外伝(巻第二)』等にはもう少し詳しく書かれています。以下、三書の内容をまとめて簡訳します。
荘公を殺した崔杼は士大夫に盟を結ばせました。士大夫は剣をはずして集められます。崔杼への協力を誓う言葉を躊躇したり、盟を結ぶ時に使う犠牲の血に指をつけない者は次々に殺され、その数は十人にのぼりました。
晏嬰に順番が来た時、晏嬰は犠牲の血が入った杯を持ち、天を仰ぎ、嘆息して言いました「崔子を憎め。無道を行い、その君を殺した。」
集まった者達は皆、晏嬰を見ました。
崔杼が晏嬰に言いました「子(あなた)が私に協力するのなら、私は国を分けて子に与えよう。子が私に協力しないのなら、私は子を殺すしかない。直兵(矛のような真っ直ぐな武器)が子を突き、曲兵(戟等の刃が曲がった武器)が子の首にかけられることになるだろう。子はよく考えよ。」
晏嬰が言いました「利で誘って主君に背かせようとする者は非仁、武器で脅して志(心)を失わせようとする者は非勇といいます。『詩(大雅・旱麓)』にはこうあります『親しみやすい君子は、福を求めて道をはずさない(愷悌君子,求福不回)』。私も道をはずすことはできません。直兵や曲兵に脅かされてもです。」
崔杼は晏嬰を赦しました。
晏嬰は小走りで門を出て車に乗りました(小走りは身分が高い人の前で行う礼です)。僕人(御者)が急いで出発しようとすると、晏嬰は僕人の手を抑えてこう言いました「麋鹿(『新序』では虎豹)は山林にいるが、その命は庖廚に握られている。早く駆けたからといって安全とは限らない。ゆっくり駆けたからといって死ぬとは限らない。」
晏嬰は通常の態度を崩さず、馬を走らせました。
 
[] 辛巳(二十三日)、斉景公と諸大夫が莒子と盟を結びました。莒子は荘公が生存中に入朝しましたが、崔杼の乱によって景公が即位したため、改めて盟が結ばれました。
 
[] 斉の太史(大史)が「崔杼がその君を殺す(崔杼弑其君)」と記録しました。
崔子は怒って太史を殺します。
しかしその弟が同じ文を書きました。
崔杼はこの弟も殺しました。
ところが少弟も同じ文を書いたため、崔杼はついにあきらめました。
 
南史氏は太史が殺されたと聞くと、簡(竹簡・木簡)に同じ文を書いて崔杼に会いに行こうとしました。しかし太史の少弟が殺されなかったと聞いて帰りました。
 
尚、この時、崔杼が殺した数ですが、『春秋左氏伝(襄公二十五年)』では太史を殺した後、二人の弟も殺しましたが、更にその弟が同じ内容を書いたため、あきらめたとあります(崔子殺之。其弟嗣書,而死者二人。其弟又書,乃舎之)。よって、四人兄弟のうち三人が殺されたことになります。
しかし『史記・斉太公世家』では、太史とその弟の二人が殺され、、少弟(三弟)は許されたと書かれています。
 
[] 斉の閭丘嬰(閭丘が氏)が帷幕で妻を包んで車に乗せ、申鮮虞と共に逃走しました。二人とも荘公の近臣です。
申鮮虞は閭丘嬰の妻を推して車から落とすとこう言いました「主君が暗昏だったのに正すことができず、国君の危難を救うこともできず、国君が死んでも自分は死ぬことができないのに、暱愛する人。妻)を隠すことだけは知っているのか。そのような者を誰が受け入れるというのだ。」
 
二人は弇中(臨淄西南の狭道)で一泊しました。閭丘嬰が言いました「崔氏と慶氏が追ってくるのではないか?」
申鮮虞が言いました「一対一なら恐れることはない。」
道が狭いため、相手が大軍を擁していても、一対一の戦いになるという意味です。
申鮮虞は馬の手綱を枕にして寝ました。馬が逃げるのを防ぐためです。
目が覚めると、先に馬に餌をやってから自分も食事をして出発しました。馬に先に餌を食べさせておけば、逃げやすくなるからです。
弇中を出て道が広くなると、申鮮虞が閭丘嬰に言いました「速く走ろう。崔氏と慶氏の衆にはかなわない。」
二人は魯に亡命しました。
 
[] 斉の崔杼は荘公の棺を北郭(北の外城)に置きました。本来は宗廟に置いてから葬儀が行われます。
丁亥(二十九日)、荘公が荘公の遺体を士孫の里に埋葬されました。諸侯は死後五カ月で埋葬されるものですが、荘公は死んでから十三日しか経っていませんでした。
荘公の葬礼では四翣が使われました。翣は扇形の幟のようなもので、「天子八翣、諸侯六翣、大夫四翣」と決められていたため、荘公には大夫の礼が使われたことになります。道路の清掃や警護はせず、葬送には下車(粗末な車)が七乗使われました。斉侯は上公に当たるので、本来なら九乗を使う資格がありました。
埋葬品には兵器甲冑を使いませんでした。これも国君の葬礼からは外れたことです。
 
[] 晋(平公)が泮水を渡り、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(武公)、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子と夷儀で会しました。二年前の朝歌の役に報復するため、斉討伐が相談されます。
 
斉は荘公の死を利用して晋の歓心を得ようとし、隰鉏(隰朋の曾孫)を送って講和を求めました。慶封が軍中に入って男女の奴隷を整列させ(投降の姿です)、晋平公に宗器(宗廟の器物)や楽器を贈ります。六正(六卿)・五吏(軍尉・司馬・司空・與尉・候奄)・三十帥(師の長官で中大夫。一軍は五師で編制され、それぞれ正副の帥がいたため、三軍で三十帥になります)・三軍の大夫・百官の正長・師旅(官属)および処守(留守)の者にもそれぞれ財礼が贈られました。
晋平公は講和に同意し、叔向を送って斉の帰順を諸侯に告げました。
魯襄公は孟椒子服恵伯)を送って「貴君(晋平公)は罪を棄てて小国を安定させました。これは貴君の恩恵というものです。寡君は命に従います」と伝えました。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・晋世家』には「斉の乱に乗じて晋が斉を討伐し、高唐で破った」と書かれています。
 
[十一] 晋平公が魏舒と宛没を送って斉に亡命中の衛献公(東周霊王十三年・前559年参照)を迎え入れ、衛に対して夷儀(衛邑)を献公に譲るように命じました。
斉の崔杼は衛献公の妻子を人質として斉に留め、衛に五鹿の地を要求しました。
 
[十二] 前年、陳哀公が楚康王と共に鄭を攻撃した時、陳軍は通った場所で井戸を埋め、木を伐採しました。鄭人は強く陳を憎むようになります。
 
六月壬子(二十四日)、鄭の子展(公孫舍之)と子産(子美)車七百乗を率いて陳を攻め、夜のうちに陳城に突入しました。陳哀公は太子・偃師を抱えて墓地に奔ります。途中で司馬・桓子(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、恐らく袁僑)に会ったため、「車に乗せてくれ!」と頼みましたが、桓子は「城を巡視するところです」と言って断りました。
大夫・賈獲に会った時、賈獲は車に母と妻を乗せていました。賈獲は母と妻を下ろして哀公に車を譲ります。哀公が「母を車に乗せよ」と言いましたが、賈獲は「(急いでいるとはいえ、男女の別を失ったら)不祥です」と言って辞退しました。賈獲は妻と一緒に母を抱えて墓地に逃げ、皆、難から逃れることができました。
 
子展は鄭軍が陳の公宮に入ることを禁止し、子産と共に諸門を守りました。
陳哀公は司馬・桓子を鄭軍に派遣し、宗器(宗廟の器具)を贈ります。陳哀公自身も喪服を着て、社主(土地神の神主)を持ち、百官・将佐や官奴を男女で分けて整列させ、朝廷で鄭の指示を待ちました。降伏の姿です。
子展は縶(縄)を持って陳哀公に会い、再拝稽首してから杯を持ち、哀公に酒を勧めました。戦勝した国の臣下が相手国の主君に会う時の礼です。
子産も陳の朝廷に入り、捕虜の数を確認して退出しました。捕虜は釈放され、数だけが鄭の宗廟に報告されます。
鄭軍は陳国の社(土地神の社)でお祓いをしました。陳国の神の怒りに触れないためです。その後、鄭の司徒が陳の民を還し、司馬が陳の節(兵符。陳の兵馬に対する指揮権)を還し、司空が陳の土地を還し、鄭は陳と講和して撤兵しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代167 東周霊王(三十) 呉楚の戦い 前548年(3)