春秋時代167 東周霊王(三十) 呉楚の戦い 前548年(3)

今回で東周霊王二十四年が終わります。
 
[十三] 秋七月己巳(十二日。『春秋』経文では「八月」ですが、誤りです)、諸侯(夷儀の会の諸侯)が重丘(斉地)で盟を結びました。斉が晋と講和したためです。
 
この時、晋の士が既に死に、趙武趙文子)が政事を行っていました。趙武は諸侯の幣を軽減し(前年、士も幣を軽くしました。今回、更に軽減しました)、礼を重視しました。
魯の叔孫豹(穆叔)が趙武に会うと、趙武が言いました「今後は戦も少なくなるだろう。斉の崔氏と慶氏は新たに政権を握ったばかりで、諸侯との関係を改善しようとしている。また、武(私)は楚の令尹屈建)をよく知っている。恭しく礼を行い、文辞によって彼と交われば、諸侯を休めて戦を止めることができるはずだ。」
 
[十四] 魯襄公が重丘の会から帰国しました。
 
[十五] この頃、楚の令尹・子馮が死に、屈建(字は子木)が令尹になりました重丘の会以前の事です)。屈蕩が屈建に代わって莫敖になります。
 
呉の誘いを受けていた舒鳩が楚からの離反を明らかにしました。
楚の令尹・屈建が舒鳩を討伐して離城(舒鳩の城)に至った時、呉が援軍を出しました。
屈建は右師を率いて舒鳩に急行し、子彊、息桓、子捷、子駢、子盂に左師を率いて退かせました。呉軍は楚の左右の師の間に駐留し、七日間が経過します。
 
子彊が言いました「時間が経てば疲労し、疲労すれば敵の虜になります。速戦を求めるべきです。私が私卒(各将領の家兵)を率いて敵を誘うので、諸将は精鋭を選んで陣を構え、待機してください。私が勝てそうなら進軍し、私が敗走するようなら陣を出ずに様子を伺えば、敗戦を免れることができます。そうでなければ呉の捕虜になるでしょう。」
諸将はこれに従い、五将の私卒が子彊に率いられて呉軍を攻撃しました。呉軍は敗退して山に登ります。山上から周辺を見渡した呉軍は、楚軍(子彊)に後続の部隊がいないと確認し、再び楚軍に接近しました。子彊の部隊に誘い出された形になります。そこを楚の簡師(精鋭)が集中攻撃したため、呉軍は大敗しました。
 
楚の左師も前進し、右師と共に舒鳩を包囲しました。
八月、舒鳩が滅びました。
 
[十六] 衛献公が夷儀に入りました。
 
[十七] 鄭の子産が陳から得た戦利品を晋に献上しました。子産は戎服(軍服)で入朝します。
晋の士弱(士荘伯)が子産に陳の罪(なぜ討伐したのか)を問うと、子産はこう答えました「昔、虞閼父は周の陶正(陶器を掌る官)となり、我が先王西周武王)に仕えました。先王はその技術が人の役に立つとして称賛し、また、彼が神明の後(舜の子孫)だったため、元女・大姫(武王の長女・太姫)を胡公(満。虞閼父の子)に嫁がせて陳に封じました。こうして三恪黄帝・堯・舜の子孫。三帝の子孫を封じて薊・祝・陳の三国が建てられました)が備えられたのです。陳国は我が周によって建てられ、今も周の徳に頼っています。桓公の乱(東周桓王十三年・前707年参照)では、蔡人が桓公の子(厲公)を立てようとし、我が先君の荘公が擁立した五父(佗。陳桓公の弟)を殺しました。そこで我が国は蔡人と共に厲公を奉じたのです。その後の荘公・宣公(どちらも厲公の子)は皆、我が国によって立てられました。夏氏の乱(東周定王八年・前599年)では、流亡した成公を我が国が帰国させたことは、貴君も知っていることです。しかし今、陳は周の大徳を忘れ、我が大恵を軽視し、我々姻親を棄て、楚の衆に頼って敝邑(鄭)を侵し、それでも満足しませんでした。だから我が国は(貴国に対して)報告を行いましたが(前年、鄭は晋に陳討伐を申請しました)、討伐の命を受けることができず、逆に東門の役(陳が楚と共に鄭を攻撃した事件)を招きました。陳は通った場所で井戸を埋め、樹木を伐採したので、敝邑は不競(競争力を失うこと。陳の侵略によって衰弱すること)となり、大姫が辱められることを恐れました。そこで天が我々の思いを導き、敝邑の陳討伐という心を啓発させたのです。陳はその罪を知り、既に罰を受けました。よってこうして戦功を献上させていただくのです。」
士弱が問いました「相手は小国なのに、なぜ侵犯したのだ(なぜ敢えて兵を用いたのだ)。」
子産が答えました「先王の命では、罪があれば刑が施されることになっています。そもそも、かつて天子の地は一圻(方千里)、列国(諸侯の国)は一同(方百里までと決められていました。しかし今の大国は数圻に及んでおります。小国を侵犯していないのに、なぜそうなることができたのでしょう。」
士弱が問いました「なぜ戎服を着ているのだ?」
子産が答えました「我が先君である武公・荘公は平王と桓王の卿士を勤めました。城濮の役(東周襄王二十一年・前632年)で文公(晋文公)が『それぞれ旧職を復せ』と命じ(鄭が再び周の卿士になり)、我が文公には戎服を着て王を補佐させ、楚捷(楚から得た戦利品)を王室に献上させました。(私が戎服を着ているのは)王命を廃さないためです。」
士弱は言葉がなくなり、趙武に報告しました。
趙武は「彼の言葉は順である(理にかなっている)。順に背くのは不祥だ」と言って戦利品を受け取りました。
 
冬十月、子展が鄭簡公の相(補佐)となり、晋に入朝しました。陳の戦利品を受け入れたことを拝謝するためです。
 
鄭の子西(公孫夏)が再び陳を攻撃し、陳は鄭と講和しました。
 
[十八] 楚の蔿奄。子馮の子)が司馬になりました。令尹・子木は掩に賦税を管理させ、甲兵(兵器)の検査を命じました。
甲午(初八日)掩が土(土地)・田(農地)の状況を記録し、山林の材を量り、藪沢の産物を集め、地形の高低を調べ、淳鹵(塩分が多くて植物の成長に向かない場所)に標識を立て、湿地の面積を計算しました(塩分や水分が多くて農作物が育ちにくい地域は税が軽くなります)
堤防を作って水を溜め、灌漑を行い、堤防に挟まれた狭い耕地を区画し、水草が多い湿地では放牧を行わせ、肥沃な土地では井田制を施行します(楚では当時まだ井田制を行っていたようです)
収穫数を量って賦税を整理し、民から車馬の税を取り(または「民から税を取って車馬の備えとし」。原文は「賦車籍馬」)、車兵(戦車が使う武器)・徒兵(歩兵が使う武器)や甲楯を納めさせました(または「これら兵器を作るための税を納めさせました。」原文は「賦車兵徒兵甲楯之数」)
全て完成すると、掩は子木に報告しました。
 
[十九] 十二月、呉子(諸樊)が楚を攻撃しました。舟師の役(前年)の報復です。
呉軍は巣の城門を攻撃しました。
巣牛臣が言いました「呉王(当時既に王を公言していたようです)は勇敢ですが、軽率なので、城門を開いたら自ら門に進むはずです。私がそれを射て倒しましょう。呉の君が死ねば、国境が少しは安らかになります。」
楚の諸将はこれに従いました。
諸樊が城門に入ると、巣牛臣は短牆(城壁の低くなった場所)に隠れて矢を射ました。諸樊は矢が中って戦死しました。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公二十五年)』の内容です。『史記・呉太伯世家』は、諸樊が楚との戦いで殺されたことには触れていません。但し、君位の継承について記述しています。以下、『呉太伯世家』からです。
王諸樊は自分の死後、国君の地位を弟の餘祭に譲るように遺言していました。
諸樊は寿夢の長男で、餘祭、餘眛、季札という弟がいます。このうち、末弟の季札は賢人として認められていたため、寿夢は本来、季札を後継者に立てようとしていました。しかし季札が断ったため、諸樊が寿夢を継ぎました(東周霊王十一年・前561年)
諸樊は父の意志を受け継ぎ、季札を国君に立たせるため、兄弟で順に君位を継承することにしました。
諸樊の死後、遺言に従って餘祭が即位します。
季札は延陵の地に封じられ、延陵季子と号しまた。
 
[二十] 楚康王が舒鳩を滅ぼした功績を称えて子木を賞しました。しかし子木は「先大夫・蔿子馮)の功です」と言って辞退しました。前年、舒鳩を攻撃しようとした康王を子馮がとどめて離反を待ったためです。
康王は賞賜を蔿掩に与えました。
 
[二十一] 晋の程鄭が死にました。
それを聞いた鄭の子産は初めて然明の聡明を知ります(然明は程鄭の死を予言しました。前年参照)
子産が然明に政治について問うと、然明はこう答えました「民を子のようにみなすべきです。また、不仁の者を見つけたら誅殺し、その様子は鷹鸇が鳥雀を駆逐するようでなければなりません。」
喜んだ子産は子太叔に言いました「以前、私は彼の外貌しか見ていなかったが、今、その心を見ることができた。」
子太叔が政治に関して子産に問うと、子産はこう言いました「政事とは農功(農業)と同じで、日夜それを想わなければならない。その始まりを想い、またその終わり(結果)を想い、朝から夜まで考えたことを行う。行動は思考したことを越えない(熟考したことだけを行い、妄りに行動してはならない)。それは農地に畦(あぜ)があるようなものだ。そうすれば過失を少なくすることができる。」
 
[二十二] 衛献公が夷儀から使者を送って甯喜に復国の相談をしました。甯喜は献公の帰国に同意します。

大叔文子(太叔儀)がそれを知って言いました「『詩(邶風・谷風と小雅・小弁)』には『私の身も容認されていないのに、後世のことを考える余裕はない(我躬不,皇恤我後)』とある。甯子は後世のことを考えていないと言っていいだろう。それでいいはずがない。君子の行いとは、その終わり(結果)を想い、次を考えてから行動するものだ。『書(恐らく佚書。但し、似たような文は『逸周書・常訓篇』等に見られます)』にはこうある『始めに慎重になり、終わりを重視すれば、困窮することはない(慎始而敬終,終以不困)。』また、『詩(大雅・烝民)』は『朝も晩も怠ることなく、一人に仕える(夙夜匪解,以事一人)』と言っている。甯子の国君に対する態度は弈棋(将棋の駒)にも及ばない。禍から逃れられるはずがない。弈者(将棋を打つ人)は棋(駒)が定まらなければ相手に勝てない。国君を定めることができないのは、なおさら危険なことである。九世の卿族(甯氏は衛武公から出て九世になります)も、一挙にして滅びるとは、哀しいことだ。」

 
 
次回に続きます。

春秋時代168 東周霊王(三十一) 衛献公復位 前547年(1)