春秋時代168 東周霊王(三十一) 衛献公復位 前547年(1)

今回から東周霊王二十五年です。四回に分けます。
 
霊王二十五年
547年 甲寅
 
[] 二年前、斉が洛邑。王城)に築城しました。その年の五月に秦と晋が講和しました。晋の韓起が秦に入って盟を結び、秦の伯車が晋に入って盟を結びます。しかし晋と秦の同盟は毀弱なものでした。
 
春、秦景公が弟の鍼を晋に送って関係を修復させました。
晋の叔向が秦の使者の対応をさせるために行人(賓客の対応をする官)・子員を招くと、行人・子朱が言いました「朱(私)もここにいます。」
子朱は自分が秦の使者の対応をすることを三回願い出ましたが、叔向は同意しませんでした。子朱が怒って言いました「職位等級が同等なのに、なぜ朱を退けるのですか。」
子朱は剣に手をかけます。
叔向が言いました「秦と晋の不和は久しいが、今日、幸いにもこうして両国が集まることになった。晋国はこの機会に頼っている。もしも成功しなかったら、三軍が骨を晒すことになるだろう。子員は二国の言を伝える時、私心を持たない。しかし汝は私心によって二国の言を変えることがある。姦悪によって君に仕える者を、私は防がなければならない。」
叔向が袖を振るって子朱と戦おうとしたため、周りの者が抑えて止めました。
晋平公が言いました「晋はよく治まるだろう(栄えるだろう)。我が臣は大事について争うことができる。」
しかし師曠がこう言いました「公室が卑しくなるでしょう。臣が心で競わず力で争い、徳に務めず是非を争っています。臣下の私欲が大きくなっているので、公室の地位は低下するはずです。」
 
[] 以前、衛献公が甯喜(悼子)に復位の相談をすると、甯喜はこう言いました「必ず子鮮(献公の同母弟・鱄)を味方につける必要があります。そうしなければ失敗します。」
そこで献公は子鮮に協力を求めましたが、子鮮は拒否しました。敬姒(献公と子鮮の母)が強く命じると、子鮮はこう言いました「国君(献公)に信がないので、臣(子鮮)は禍から逃れられなくなることを恐れます。」
敬姒が言いました「そうだとしても、私のために協力しなさい。」
子鮮はやむなく献公の復位に同意しました。
 
敬姒は子鮮に協力を要求したものの、具体的な指示は出しませんでした。そこで子鮮は甯喜に会いに行き、献公の言葉を伝えます「もしも帰ることができたら、政事は甯氏に任せ、寡人は祭祀を行おう。」
甯喜がこのことを蘧伯玉に話すと、蘧伯玉は「瑗(蘧伯玉の名)は国君が出た時に関与しませんでした。入る時も関与できません」と言って退席し、最も近い関から国を出ました。
甯喜が右宰穀(大夫。右宰は官名を元とする氏)に話すと、右宰穀はこう言いました「いけません。二人の国君から罪を得て(以前、献公を放逐し、今回、殤公を廃位させようとしています)、天下の誰があなたを許容するとお思いですか。」
しかし甯喜は「私は先人・殖甯恵子。甯喜の父)の命を受けた(東周霊王十九年・前553年)。それを裏切ることはできない」と言います。
右宰穀は「私を派遣して様子を観させてください」と言い、夷儀に行って献公に会いました。
戻った右宰穀が甯喜に言いました「国君は難を避けて国外に亡命して十二年にもなるのに、憂色がなく、寬言(寛大な言葉)もなく、以前から変わっていません。計画を中止しなければ、失敗して死ぬことになるでしょう。」
甯喜が言いました「我々には子鮮がいる。」
右宰穀が言いました「子鮮が何の役に立ちますか。失敗しても彼は亡命するだけのことです。我々の助けにはなりません。」
甯喜が言いました「それでも、中止するわけにはいかない。」
 
この時、孫林父孫文子)は戚(孫氏の食邑)に居り、孫嘉は斉を聘問中で、孫襄(伯国)が衛都・帝丘にある孫氏の家を守っていました。孫嘉と孫襄は孫林父の子です。
二月庚寅(初六日)、甯喜と右宰穀が衛都で孫氏の屋敷を攻撃しましたが、勝てませんでした。しかし孫襄が負傷します。
甯喜は城を出て郊外で宿泊しました。出奔を考えたようです。
ところが負傷した孫襄が死亡し、孫氏が夜を通して号哭しました。衛の国人(城内の人)がそれを甯喜に伝えて城内に招き、甯喜は再び孫氏を攻撃して破ります。
辛卯(初七日)、甯喜が殤公(衛君・剽。子叔)と太子・角を殺しました。
 
変事を知った孫林父が、戚邑を挙げて晋に投降しました。
 
甲午(初十日)、献公が衛都に帰ります。衛都の郊外まで迎えに来た大夫には、一人一人手を取って言葉をかけました。国内の道まで迎えに来た大夫には、車の上から揖礼しました。しかし門(恐らく宮門)まで迎えに来た大夫には、頭を下げてうなずいただけでした。
朝廷に戻った献公は人を送って大叔文子(太叔儀)を譴責しました「寡人が国外に亡命していた間、二三子(諸大夫)は朝も夜も寡人に衛国の情報を伝えた。しかし吾子(汝)一人は寡人に声をかけなかった。古人は『怨みがなければ怨まない(「非所怨,勿怨」。怨まれるのには原因がある)』と言ったが、寡人には汝を怨む理由がある。」
大叔文子が言いました「臣は罪を知っています。臣は不才のため、羈絏(馬の頭につける道具と手綱)を牽いて牧圉(君王の車)を守ることができませんでした(亡命に従うことができませんでした)。これは臣の一つ目の罪です。国を出た者(献公)がおり、国に住む者(殤公)がいましたが、臣には二心がないため、内外の言を主公に伝えて仕えることができませんでした。これは臣の二つ目の罪です。二罪がありながら死を忘れることはありません。」
大叔文子が最も近い城門から国外に出ようとすると、献公は使者を送って呼び戻しました。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公二十六年)』の記述です。『史記・衛康叔世家』には全く異なる記述がされています。
衛殤公十二年、甯喜と孫林父が寵を争って対立しました。殤公は甯喜に孫林父を攻撃させます。
そこで、孫林父は晋に奔って衛献公の復位を請いました。この時、献公は斉にいます。斉景公も衛の事件を知り、衛献公と共に晋に入って復位を請いました。
晋は衛を討伐し、盟を結ぶと言って殤公を誘い出します。
衛殤公が晋平公と会見すると、晋平公は衛殤公と甯喜を捕え、衛献公を国に還しました。献公の亡命生活は十二年になります。
献公後元年(翌年)、甯喜は誅殺されました。
 
このように『春秋左氏伝』と『史記』では全く異なる内容になっていますが、通常は『春秋左氏伝』の説を採るようです。
 
[] 衛が都・帝丘の東北に位置する戚邑の東境・茅氏を攻撃しました。孫氏が晋に訴えたため、晋は茅氏に守備兵を置きました。
しかし衛の殖綽が茅氏を攻めて晋の戍(守備兵)三百人を殺しました。殖綽は元々斉の勇士です。崔氏の乱(前年)が原因で衛に出奔していたのかもしれません。
孫林父の子・孫蒯が殖綽を追撃しましたが、殖綽を恐れて攻撃しようとしません。孫林父が孫蒯に言いました「汝は厲(悪鬼・悪霊)にも及ばない!」
発奮した孫蒯は衛軍に追いつき、圉の地で破りました。孫氏の臣・雍鉏が殖綽を捕えます。
孫林父は再び晋に援助を請いました。
 
[] 鄭簡公が陳討伐(前年)の功を賞しました。
三月甲寅朔、子展を宴に招いて先路(路は天子・諸侯の車。大路・先路・次路の三等があります)と三命の車服(車の装飾)および八邑を与えました。
また、子産にも次路と再命の車服および六邑を与えようとしましたが、子産は邑を辞退して言いました「上から下へは二つずつ下がるのが礼です。臣の位は四であり(子展の下には伯有と子西がおり、子産は四番目になります。賞賜が二つずつ減るとしたら、子展には八邑が与えられるので、四番の子産に六邑というのは多すぎることになります)、そもそも功績は子展が挙げたものです。臣が賞礼に及ぶわけにはいかないので、邑は辞退します。」
しかし簡公が頑なに与えようとしたため、子産は三邑を受け入れました。
公孫揮が言いました「子産は政事を主持することになるだろう。謙譲して礼を失うことがない。」
 
[] 晋が衛の孫氏のために諸侯を集めることにしました。
夏、晋平公が荀呉(中行穆子。荀偃の子)を魯に送って聘問させました。魯襄公を会に招くことが目的です。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代169 東周霊王(三十二) 宋の太子 前547年(2)