春秋時代170 東周霊王(三十三) 伍挙と声子 前547年(3)

今回も東周霊王二十五年の続きです。
 
[] 楚の伍参と蔡の太師・子朝(公子・朝。蔡文侯の子、景侯の弟)は友人関係にあり、伍参の子・伍挙と子朝の子・声子(公孫帰生)も交流がありました。
伍挙は楚の王子牟(申公)の娘を娶りました。しかし王子牟は罪を侵して逃走します。楚人が「伍挙が申公の逃走を助けた」と訴えたため、伍挙も鄭に奔り、やがて晋に移ろうとしました。
その頃、声子が晋に向かっており、鄭の郊外で伍挙に会いました。二人は草で席を作り、野外で食事をします。伍挙が楚に帰りたいと話すと、声子はこう言いました「行きなさい。私があなたを帰らせましょう。」
 
宋の向戌が晋と楚の関係を調停することになりました(講和は翌年の事です)。声子は講和の準備のために晋を訪れ、楚に行きました。
楚の令尹・子木が声子に晋の状況を問い、こう聞きました「晋の大夫と楚の大夫ではどちらが優れているか?」
声子が言いました「晋の卿は楚に及びませんが(楚の卿・子木は晋の卿・趙武よりも優れているという意味です)、晋の大夫は皆、賢明で、卿に相当する材です。杞梓や皮革は楚で生産してから晋に送られていますが、これと同じように、楚に人材がいても、実際は晋で用いられています。」
子木が聞きました「晋は族姻(同宗・親戚)を用いないのか?」
声子が答えました「用いています。しかし楚の材が多いのは確かです。国をうまく治める者は、賞が度を越えることなく、刑が妄りに行われることもないといいます。賞が度を超えたら淫人(悪人)に賞が与えられることを恐れなければなりません。刑が妄りに行われたら善人に刑が与えられることを恐れなければなりません。もし不幸にも賞や刑が度を越えてしまうようなら、刑が妄りに行われるよりも、賞が過度に与えられたほうがましです。過度な刑によって善人を損なうくらいなら、過度な賞によって淫人を利する方がましです。善人がいなくなったら、国も害を受けることになるからです。『詩(大雅・瞻卬)』にはこうあります。『人材がいなくなったら、国が衰弱する(人之云亡,邦国殄瘁)。』これは善人がいなくなるからです。だから『夏書尚書・大禹謨)』には『無罪の者を殺すくらいなら、罪人に対する刑を失った方がいい(與其殺不辜,寧失不経)』とあるのです。善人を失うことを恐れるからです。また、『商頌詩経・商頌・殷武)』はこう言っています『度を越さず濫用もせず、怠けることもない。下国に命を発し、大いに福を作る(不僭不濫,不敢怠皇。命于下国,封建厥福)。』これは湯商王朝初代王・成湯)が天福を得た理由です。古の民を治める者は、賞を楽しみ刑を恐れ、民を慈しんで厭うことなく、賞は春夏に行い、刑は秋冬に行いました。統治者が賞を行う時には、自分の膳(食事)を増やし、余った分を下の者に与えました。ここから賞を楽しんでいたことがわかります。刑を行う時には、自分の食事を減らし、音楽も退けました。ここから刑を恐れていたことがわかります。彼等は朝早く起き、夜遅く寝て、一日中政事に臨みました。ここから民を慈しんでいたことがわかります。この三者は礼の大節です。礼があれば失敗することはありません。
今の楚は淫刑(妄りに行う刑罰)が多いため、大夫が四方に逃走し、別国の主に仕えて楚国を害しています。この状況は既に救いようがありません。これこそが刑罰を濫用してはいけない理由です。子儀の乱(東周頃王六年・前613年)では析公が晋に奔り、晋人は彼を戎車(晋侯の車)の後ろに置いて謀主(策謀を練る者)にしました。繞角の役(東周簡王元年・前585年)で晋が退却しようとした時、析公はこう言いました『楚師は軽窕(陣が薄い)なので、容易に動揺させることができます。戦鼓の音を一斉に響かせて夜の間に進軍すれば、楚師は必ず遁走します。』晋人がこれに従ったため、楚師は夜間に壊滅しました。そこで晋は蔡を侵し、沈を襲い、その君を捕えることができました(東周簡王三年・前583年)。また、桑隧では申と息の師を破り、申麗を捕えて還りました。だから鄭は南面(楚に仕えること)しなくなったのです。楚が華夏を失ったのは析公が原因です。
雍子の父兄が雍子を讒言し、国君と大夫も助けなかったため、雍子は晋に奔りました。そこで晋人は鄐の地を与えて謀主にしました。彭城の役(東周簡王十三年・前573年)の際、晋と楚は靡角の谷で遭遇しました。晋は撤退しようとしましたが、雍子が軍中に命じて言いました『老幼(老人・未成年者)、孤疾(孤児・病人)は帰れ。兄弟二人そろって従軍している場合は一人が帰れ。精鋭を選んで車馬を検査し、馬に餌を食べさせ、兵も食事をとり、陣を構えて帳を焼け。明日、決戦する。』こうして帰るべき者は全て帰り、わざと楚囚(楚の捕虜)も逃がしました(晋が決戦の準備をしていることを知らせるためです)。その結果、楚師は夜の間に壊滅し、晋は彭城を降して宋に返し、魚石を連れて帰りました(東周簡王十四年・前572年)。楚が東夷を失い、子辛(公子・壬夫)が死んだのは雍子が原因です(実際に子辛が死んだのは、東周霊王四年・前568年の事で、楚に殺されました)
子反と子霊(巫臣)が夏姫を争った時(東周定王十八年・前589年)、子霊は婚姻を阻止されて晋に奔りました。そこで晋人は子霊に邢の地を与え、謀主にしました。その結果、子霊は北狄を防ぎ、呉と晋を通じさせ、呉を楚から背かせ、乗車、射御(射術と御術)、駆侵(兵車の戦い)を教え、その子・狐庸を呉の行人にしました。その後、呉は巣を侵し、駕を取り、棘を占領し、州来に入りました。楚は呉のために奔命し、今も患憂となっています。これは子霊が原因です。
若敖の乱(東周定王二年・前605年)で伯賁の子・賁皇が晋に奔りました。そこで晋人は苗の地を与え、謀主にしました。鄢陵の役(東周簡王十一年・前575年)では、朝から楚が晋軍を圧して陣を構えたため、晋は撤退しようとしました。しかし苗賁皇が『楚師の精鋭は中軍の王族だけです。井戸を埋め、竃を平らにして陣を敷き、欒氏(欒書)と范氏(士燮)が敵を誘い出せば(原文は「易行以誘之」。「易行」の部分は解釈が困難です。後述する『国語』では「中軍と下軍の位置を換える」としていますが、それでも理解は困難です)、中行氏(荀偃)と二郤(郤綺と郤至)が必ず二穆(子重と子辛。二人とも楚穆王の子孫)を破ります。その時、四軍を集結して楚の王族を撃てば、必ず大勝できます』と言い、晋人はそれに従いました。その結果、楚師は大敗し、王は負傷し、士気が落ちて子反が死にました。鄭が背き、呉が興隆し、楚が諸侯を失ったのは、苗賁皇が原因です。」
子木が言いました「全てその通りだ。」
声子が続けて言いました「ところが今、これらよりも更に重要な者がいます。椒挙(伍挙)は申公・子牟の娘を娶りましたが、子牟が罪を得て亡命した時、国君と大夫は椒挙に『汝が逃がした』と言いました。そのため椒挙は恐れて鄭に奔りました。彼は南を眺めて『赦されて帰国できるかもしれない』と言っていますが、楚には彼を赦すつもりがありません。今、彼は晋に行きました。晋人は彼に県を与えて叔向(上大夫)と同列に置こうとしています。彼が楚国を害するようになったら、楚国の禍患となります。」
子木は恐れて康王に報告しました。康王は伍挙の禄爵を増して呼び戻すことにします。声子は椒鳴(伍挙の子)を派遣して伍挙を招きました。
 
以上、『春秋左氏伝(襄公二十六年)』を元にしました。『国語・楚語上』にも記述がありますが、別の場所で書きます。

春秋時代 伍挙の亡命

 
 
 
次回に続きます。

春秋時代171 東周霊王(三十四) 楚鄭の戦い 前547年(4)