春秋時代 伍挙の亡命

楚の伍挙が亡命しました。

春秋時代170 東周霊王(三十三) 伍挙と声子 前547年(3)

本編では『春秋左氏伝(襄公二十六年)』を元にしましたが、『国語・楚語上』にも記述があるので、ここで紹介します。

 

楚の大夫・椒挙(伍挙)は申公・子牟王子牟)の娘を娶りました。しかし子牟が罪を犯して出奔すると、康王は椒挙が子牟を助けたと疑いました。椒挙は危険を感じて鄭に奔り、その後、晋に移ろうとします。

 

蔡の声子公孫帰生。子家)が使者として晋に向かう時、鄭で椒挙に会ったため、璧玉を贈って食事に誘いました。

声子が言いました「しっかり食べなさい。我々の先人椒挙の父・伍参と声子の父・子朝)があなたを助けてくれます。晋君にしっかり仕えれば、晋君を諸侯の主にすることができるでしょう。」

椒挙が言いました「それは私の願いではありません。もしも私の骨が楚に帰ることができるなら、死んでも朽ちることはありません。」

声子が言いました「しっかり食べなさい。私があなたを帰国させましょう。」

椒挙は席を下りて三拝し、声子に一乗の馬(四頭)を贈りました。声子はそれを受け入れます。

 

声子は晋から戻って楚に入り、令尹・子木屈建)に会いました。子木が言いました「子(あなた。ここでは蔡国)は晋の兄弟だが(どちらも姫姓です)、蔡君は我が国の甥である(楚王と婚姻関係にあります)。二国のどちらが賢いと思うか?」

声子が答えました「晋の卿は楚に及びません(晋の趙武は楚の屈建に及びません)。しかし大夫は聡明で、皆、卿に相当する人材です。杞梓(良木)や皮革と同じで、全て楚で作られて晋に送られています。楚にも人材がいますが、うまく用いていません。」

子木が言いました「晋にも公族や甥舅等の親戚がいるのに、なぜ人材が送られるのだ?」

声子が言いました「昔、令尹・子元の難が起きた時(東周恵王十三年・前664年)、ある人が成王に王孫啓を讒言しました。王が正しい判断ができなかったため、王孫啓は晋に奔り、晋人に用いられました。城濮の役(東周襄王二十一年・前632年)では晋が退却しようとしましたが、王孫啓が軍事に参与し、先軫にこう言いました『楚の出兵は子玉だけが欲しており、王の考えとは異なります。だから東宮西広の兵だけが派遣されたのです。諸侯で従っている者も、半数が背こうとしており、若敖氏(子玉の同族)も戦いに反対しています。楚師が必ず敗れるのに、なぜ撤退するのですか。』先軫はこれに従い、楚師を大敗させました。これは王孫啓がもたらしたことです。

昔、荘王がまだ幼弱だった頃、申公・子儀父が師となり、王子・燮が傅となり、師崇潘崇)と子孔成嘉)に舒を討伐させました。ところが、(討征軍が出発してから)燮と儀父は二帥に罪を着せ、その家財を分け合いました。師(軍)が帰還すると、燮と儀父は王を連れて廬に入りましたが、廬大夫・戢黎が二人を殺し、王を帰らせました(東周頃王六年・前613年)。この時、ある人が大夫・析公臣を讒言しました。王が正しい判断ができなかったため、析公は晋に奔って晋人に用いられます。その結果、楚は晋に敗れ、東夏(蔡・沈等、東方の諸国)を保つことができなくなりました。これは析公がもたらしたことです。

昔、大夫・雍子の父兄(同宗の年長者)が恭王に雍子を讒言しました。王が正しい判断をしなかったため、雍子は晋に奔って晋人に用いられました。鄢の役(東周簡王十一年・前575年)では晋が撤退しようとしましたが、雍子が軍事に参与し、欒書にこう言いました『楚師の動きは予測できます。精鋭は中軍の王族だけです。我々が中軍と下軍の位置を換えれば(中軍には精鋭が集まっています)、楚は(弱い下軍を撃つため)誘い出されて攻撃してきます。楚が我が中軍(実際は下軍?)との戦いに陥っている間に、上軍と下軍(実際は中軍?)が楚の左右両師を破り、三軍(上軍・下軍と中軍。または中軍を数えず、新軍)が集中して楚の王族を攻撃すれば、必ず楚は大敗します。』欒書はこれに従い、楚師は大敗して王も顔に傷を負いました。これは雍子がもたらしたことです。

昔、陳の公子夏(陳宣公の子)が御叔(公子夏の子)に鄭穆公の娘を娶らせ、子南(夏徴舒)が産まれました。しかし子南の母(夏姫)が乱を起こして陳を滅ぼし、子南は諸侯に殺されました(東周定王九年・前598年)。荘王は夏氏(夏姫)を申公・巫臣に与えましたが、暫くして子反に与え、最後には襄老に与えることにしました。ところが襄老が邲の戦いで死んだため(定王十年・前598年)、二子(巫臣と子反)が夏氏を争い、決着がつきませんでした。後に恭王が巫臣を派遣して斉を聘問させると、巫臣は夏姫を連れて晋に奔りました。巫臣は晋人に用いられ、呉と晋を通じさせ、自分の子・狐庸を呉の行人にし、射術や御術を教えて楚を攻撃するように導きました。この憂患は今も続いています。申公・巫臣がもたらしたものです

最近、椒挙は子牟の娘を娶りましたが、子牟が罪を得て亡命してから、執政(卿)は正しい判断をせず、椒挙にこう言いました『汝が子牟を逃がした。』椒挙は恐れて鄭に奔りましたが、今でも南を眺めて『私の罪が赦されるかもしれない』と言っています。楚国がしっかり考えなければ、彼は晋に奔って晋人に用いられることになるでしょう。彼が楚に対する謀策を立てたら、また大敗を招くはずです。」

子木は恐れて言いました「夫子(彼)を呼べば戻るだろうか?」

声子が言いました「亡人(亡命者)が生を得るのですから、戻らないはずがありません。」

子木が問いました「もしも来なかったらどうすればいい?」

声子が言いました「夫子が楚に住まないようなら、春秋(四季。一年)を通して諸侯の間を行き来し、各国を聘問するでしょう。東陽(楚北の邑)の盗(賊)を買収して彼を殺させることもできます。そうでもしなけれが彼は来ないでしょう。」

子木が言いました「それはいけない。私は楚の卿だ。盗に賄賂を贈って晋で一夫を殺させるのは非義である。私のために、あなたが彼を招いてくれないか。私は彼の家財を倍にして返そう。」

こうして椒鳴(椒挙の子)が父を迎えに行き(声子も同行しているはずです)、椒挙は帰国しました。