春秋時代171 東周霊王(三十四) 楚鄭の戦い 前547年(4)

今回は東周霊王二十五年七月の続きからです。
 
[十一] 『資治通鑑外紀』はここで楚の令尹・子木に関する故事を紹介しています。『国語・楚語上』からの引用です。
楚の卿・屈到(子木の父)は芰(菱。植物の名)が好物でした。病に倒れて死が近づくと、宗老(家臣)に言いました「私の祭祀では芰を使え。」
屈到が死んで祥(葬祭)が行われると、宗老が芰を供えようとしました。しかし屈建(子木)がそれを持ち去るように命じます。宗老が言いました「夫子(屈到)が言い遺したことです。」
屈建が言いました「夫子は楚国の政を奉じ、その法刑は民心に留められ、王府にも保管されています。上は先王と較べることができ、下は後世を訓導することができる人物だったので、たとえ今後、楚国でその栄誉を称えられなくなっても、諸侯が忘れることはありません。祭典(祭祀の規則)にはこうあります『国君は牛、大夫が羊、士は豚犬、庶人は魚炙(炙った魚)を供える。籩豆(礼器)や脯醢(干肉・肉醤)は国君から庶民まで使うことができる。珍味を供えず、種類を多くしない(国君有牛享,大夫有羊饋,士有豚犬之奠,庶人有魚炙之薦,籩豆、脯醢則上下共之。不羞珍異,不陳庶侈)。』夫子(父)が私欲によって国の典(きまり)を犯すことは許されません。」
芰は供えられませんでした。
 
[十二] 許霊公が楚に入り、鄭討伐を請いました。鄭と許は長い間敵対しています。
許霊公は「楚師が起きなければ孤(私)は帰らない」と言いました。
 
八月壬午朔、許霊公が楚で死にました。楚康公は「鄭を討伐しなければ諸侯を得ることはできない」と言って出兵を決意しました。
 
冬十月、楚康王が鄭を攻撃しました。『春秋』経文は楚子(楚康王)だけでなく、蔡侯(景侯)、陳侯(哀公)も共に鄭を攻めたとしています。
 
鄭人が楚軍に対抗しようとしましたが、子産が反対して言いました「晋と楚は和平しようとしています。諸侯が和そうとしているのに、楚王は唐突で意味のない出兵をしました。彼等を満足させて帰らせたほうが、講和もしやすくなるでしょう。小人(楚と戦おうとしている鄭人)の性とは、隙を見つけたら勇を奮わせ、禍乱の中で貪欲になり、自分の本性を満足させて虚名を求めるものです。これは国家の利にならないので、従うべきではありません。」
子展は納得して楚に抵抗しませんでした。
 
十二月乙酉(初五日)、楚軍が南里に入って城を破壊しました。楽氏(洧水の渡し場)を渡って師之梁(鄭の城門)を攻撃します。鄭は城門を閉じましたが、楚軍は逃げ遅れた鄭人九人を捕虜にしました。
楚軍は南氾で汝水を渡って帰国します。
 
その後、楚は許霊公を埋葬しました。
許では霊公の子・買が即位しました。これを悼公といいます。
 
[十三] 衛が衛姫を晋に嫁がせました。晋平公には姫姓の妾が四人おり、衛姫はそのうちの一人です。
晋平公は衛献公を釈放しました。六月に捕えられた甯喜と北宮遺も一緒に帰されたと思われます。
君子(知識人)は姫妾を得てから献公を釈放した平公の判断を失政として謗りました。
 
[十四] 晋の韓起(韓宣子)が周王室を聘問しました。
周霊王が使者を送って聘問の理由を聞くと、韓起はこう答えました「晋の士(諸侯の大夫は周王の士になります)・起は時事(四季の貢物)を宰旅冢宰の士)に奉じに来ました。それ以外の理由はありません(天子に朝貢に来ただけです。それ以外の目的はありません)。」
これを聞いた霊王が言いました「韓氏は晋で隆盛するだろう。その言が旧(古の礼)を失っていない。」
 
[十五] 斉が郟洛邑・王城)に築城した年(二年前)夏、斉の烏餘(烏が氏。餘が名)が廩丘(元は衛の地。斉が奪って烏餘に与えたようです)を挙げて晋に亡命し、衛の羊角を攻めて奪いました。
更に魯の高魚も攻撃します。ちょうど大雨が降ったため、竇(城内の水を出す孔)が開かれました。烏餘の兵はそれを利用して侵入し、城内の武庫を占拠して兵を武装させ、城壁に登って高魚も占領しました。
その後、宋の邑も奪いました。
当時、晋の士范宣子)が死んだばかりだったため、盟主がいない諸侯は烏餘を討伐できませんでした。
 
この年、趙武(趙文子)が晋の政事を行うことになりました。趙武が平公に言いました「晋が盟主であるのに、諸侯が互いに侵犯しています。討伐して奪った地を返させるべきです。烏餘の邑は本来、討伐を受けるべきですが、我が国はそれを自国の利としています(烏餘の亡命を受け入れています)。これでは盟主になる資格がありません。奪った地を返すべきです。」
平公は納得し、誰を派遣するべきか問いました。
趙武が言いました「胥梁帯(胥甲父の孫。胥午の子)は師を用いなくても任務を完遂できます。」
平公は胥梁帯を派遣しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代172 東周霊王(三十五) 衛の内争 前546年(1)