春秋時代172 東周霊王(三十五) 衛の内争 前546年(1)

今回から東周霊王二十六年です。四回に分けます。
 
霊王二十六年
546年 乙卯
 
[] 春、晋の胥梁帯が烏餘によって城邑を失った諸侯(斉・魯・宋。前年参照)に車徒(車兵と歩兵)を用意させました。秘密裏に反撃の準備が進められます。
その後、胥梁帯は烏餘に命じ、車徒を率いて封地を受け取りに来させました。烏餘は自分の衆を率いて出発します。
烏餘が到着すると、胥梁帯は諸侯に命じて烏餘に城邑を譲るふりをさせ、油断した烏餘を捕えました。その衆も全て捕虜になります。
烏餘が侵略した邑は全て諸侯に返され、諸侯が改めて晋に帰心しました。
 
[] 斉景公が慶封を魯に送って聘問しました。
その車が美しかったため、魯の仲孫速(孟孫)が叔孫豹に言いました「慶季(慶封)の車はとても美しい。」
叔孫豹が言いました「『車服等の装飾と人がつりあっていなければ、悪い終わりを迎えることになる(服美不称,必以悪終)』という。車が美しいことは役に立たない。」
叔孫豹が慶封を食事に招きましたが、慶封は不敬でした。叔孫豹が『相鼠詩経・鄘風)』を賦しましたが、慶封はその意味を理解できませんでした。

『相鼠』には「人でありながら儀がなければ、死ぬしかない(人而無儀,不死何為)」「人でありながら恥を知らないのに、死なずに何を待っている(人而無止,不死何俟)」「人でありながら無礼ならば、速やかに死ぬべきだ(人而無礼,胡不遄死)」といった句があります。

[] 衛の甯喜が権力を集中したため、献公に疎まれるようになりました。そこで大夫・公孫免餘が甯喜誅殺を進言します。しかし献公はこう言いました「甯子がいなければここにいることはできなかった。また、彼とは約束がある(献公が復位したら政治は甯氏が行うと約束しました)。事が成功するかどうかは分からず、悪名を残すことになる。止めておこう。」
公孫免餘が言いました「臣が彼を殺します。主君は知らなかったことにしてください。」
公孫免餘は公孫無地、公孫臣と相談し、二人に甯氏を攻撃させました。しかし失敗して二人とも殺されます。
献公が言いました「臣(公孫臣)に罪はない。父子とも余のために死んでしまった。」
公孫臣の父は献公が出奔した時(東周霊王十三年・前559年)、孫氏に殺されたようですが、詳細は分かりません。
 
夏、公孫免餘が再び甯氏を攻撃し、甯喜と右宰穀を殺しました。死体が朝廷に晒されます。
石悪は宋国で行われる会盟に参加するように命じられたばかりでした。異変を知った石悪は出発する前に朝廷に行き、甯喜の死体に服を着せ、太股の上に寝かせて号哭しました。
その後、大斂(死体を棺に入れること。または埋葬すること)してから亡命しようと思いましたが、禍を恐れてあきらめ、「君命を受けた」と言って会盟に向かいました。
 
子鮮(衛献公の弟・鱄)も変事を知ってこう言いました「国君を駆逐した者(孫林父)は逃亡し、国君を国に入れた者(甯喜)は死んでしまった。賞罰に基準がないのに、悪を防いで善を勧めることができるか。国君が信を失い、国には正常な刑が存在しない。難しいことだ。しかも、甯喜に指示を出したのは私自身だ(前年参照)。」
子鮮は晋に出奔します。
献公が止めようとしましたが、子鮮は国を出ました。黄河を渡ろうとした時も、献公の使者が呼び戻しに来ましたが、子鮮は使者を留め、黄河に誓って去りました。
子鮮は木門(晋地)に住みました。『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』によると、子鮮は衛国に向かって坐ることなく、妻と誓って衛国の地を踏むことなく、衛の食物を採ることなく、死ぬまで衛について話すこともなかったといいます。
 
晋の木門大夫が子鮮に仕官を勧めましたが、子鮮は拒否して言いました「仕官しても事を廃したら罪になる(晋に仕えても自分の職責を全うせず、功績を挙げようとしなければ罪になる)。従ったら出奔した理由を明らかにすることになる(晋に仕えて功績を挙げたら、賢臣を出奔させた衛君の罪が天下に示されることになる)。私は誰にも自分の境遇を明らかにすることができない。だから私が人の朝(晋の朝廷)に立つことはできない。」
子鮮は官に就くことなく、暫くして死にました。
献公は子鮮のために税(喪服)を着たまま、最後の年を迎えることになります(二年後に献公は死にます)
 
献公は公孫免餘に六十の城邑を与えようとしましたが、公孫免餘は辞退してこう言いました「卿だけが百邑を持つことができます。臣は既に六十の邑を有しています。下の者が上の禄を持つようになったら、乱を招きます。臣は命に従うことができません。そもそも、甯子は邑が多いため殺されました。臣は死が速く訪れることを恐れます。」
しかし献公が頑なに与えようとしたため、公孫免餘は半数を受け入れました。
献公は公孫免餘を少師に任命し、更に卿にしようとしましたが、公孫免餘はこう言いました「大叔儀(文子)は二心を抱かず、大事を助けることができます。主君は彼を任命するべきです。」
大叔儀が卿になりました。
 
衛の乱の前後に起きた事を『呂氏春秋・恃君覧・観表』が紹介しています。
魯の郈成子が晋に聘問に行きました。途中で衛を通ります。衛の右宰穀臣(右宰穀)郈成子を留めて宴を開きました。楽器が並べられ音楽が奏でられましたが、曲には楽しさがありません。酒に酔った頃、右宰穀臣が郈成子に玉璧を贈りました。
晋から帰る時、郈成子は右宰穀臣を訪ねませんでした。僕(御者)が言いました「晋に行く時は、右宰穀臣は吾子(あなた)をもてなし、楽しそうでした。帰りに寄らないのはなぜですか?」
郈成子が答えました「私をここに留めてもてなしたのは、私と楽しみを共にしたかったからだ。しかし音楽には楽しさがなかった。これは私に憂いを伝えたかったからだ。酒がまわった時、私に璧を贈ったのは、私に後の事を頼みたかったからだ。恐らく衛で乱が起きるだろう(だから寄らないのだ)。」
郈成子が衛を離れて三十里まで進んだ時、甯喜の難によって右宰穀臣が死んだと知りました。郈成子は車を還して衛に入り、三回哀哭して帰国します。
その後、郈成子は人を送って太宰穀臣の妻子を魯に招き、自分の屋敷と俸禄を分けて生活させました。
太宰穀臣の子が成長すると、郈成子は玉璧を返しました。
 


次回に続きます。