春秋時代174 東周霊王(三十七) 弭兵の会(後) 前546年(3)

今回は東周霊王二十六年秋七月辛巳(初五日)に開かれた弭兵の会の続きからです。
 
[(続き)] 晋と楚が歃血(犠牲の血を啜り、血を口の横に塗る儀式)の順位を争いました。
晋人が言いました「晋は元々諸侯の盟主である。今まで晋より先に行った者はいない。」
楚人が言いました「子(あなた。晋人)も晋と楚は同格だと認めているのに、もし晋が常に先に行うのなら、楚が弱いことになる。それに、晋と楚が諸侯の主を交代した盟から久しく経った(東周定王十八年・前589年、楚が蜀に諸侯を集めて会盟しました。楚が盟主になって既に四十年以上経っているので、今回は楚が晋より先に儀式を行うべきだ、という意味です)。なぜ晋だけが先に行うというのだ。」
晋の叔向が趙武に言いました「諸侯は晋の徳に帰しています。会盟の主に帰しているのではありません。子(あなた)は徳に務めるべきであり、先を争ってはなりません。そもそも諸侯の盟においては、小国が必ずやらなければならないことがあるものです(諸侯が歃血を行う時、小国の大夫が犠牲の耳を切る等の手伝いをしました)。楚に先に儀式をさせて、晋の小国(儀式を手伝う者)とみなせばいいではないですか。」
 
『国語・晋語八』にもこの事は書かれています。
宋の会盟で楚の子木が先に歃血を行おうとしました。
晋の叔向が趙文子(趙武)に言いました「霸王の勢とは徳にあり、歃血の後先にはありません。子(あなた)は忠信によって国君を補佐し、諸侯の不足を補っています。たとえ歃血が後になっても、諸侯は晋を奉載するでしょう。先を争う必要はありません。もしも徳に逆らい、財貨によって事を成そうとしたら、今回たとえ先に歃血を行っても、諸侯に棄てられます。昔、成王が岐陽(岐山の南)で諸侯と盟を結んだ時、楚は荊蛮荊州の蛮)とみなされたため、茅蕝(祭祀で使う酒を濾過する草)や望表(山川を祭る時の標示)の準備を命じられ、鮮卑(東夷の国)と共に燎(松明)を守るだけで、盟に加わることはできませんでした。今、楚が我が国と共に諸侯の盟を主宰することができるようになったのは、彼等の徳によるものです。子は徳に努めるべきであり、先を争ってはいけません。徳に努めれば楚を服従させることもできます。」
晋は楚に歃血を譲りました。
 
『春秋左氏伝(襄公二十七年)』に戻ります。
会盟には晋の趙武、魯の叔孫豹、楚の屈建、蔡の公孫帰生、衛の石悪、陳の孔奐、鄭の良霄および許人、曹人が参加し、楚が先に歃血を行いました。
 
壬午(初六日)、宋平公が晋と楚の大夫を招いて宴を開きました。趙武が客(主賓)になります。
子木が趙武に質問しましたが、趙武は答えることができず、側に従っている叔向に回答させました。
叔向が質問すると、今度は子木が答えられませんでした。
 
乙酉(初九日)、宋平公と諸侯の大夫が蒙門(東北門)の外で盟を結びました。
子木が趙武に問いました「范武子(晋の士会。賢人として知られていました)の徳とはどのようなものでしたか。」
趙武が答えました「彼は善く家を治め、晋国に対して隠し事がありませんでした。范氏の祝史(祭祀・祈祷を行う官)も鬼神に対して信を表し、愧辞(やましい言葉)がありませんでした。」
子木が帰国してから楚康王にこのことを話すと、康王はこう言いました「高尚なことだ。神と人を喜ばせることができたのだから、五君(文公・襄公・霊公・成公・景公)を補佐して盟主にすることができたのも当然だ。」
子木が康王に言いました「晋は伯(覇者)に相応しい国です。晋では叔向がその卿(趙武)を補佐していますが、楚には彼に匹敵する者がいません。晋と争うべきではありません。」
 
[] 晋の荀盈が楚に入って盟を結びました。
 
[] 鄭簡公が垂隴(鄭国境)で会盟から帰る趙武を宴に招きました。子展、伯有、子西、子産、子大叔(子太叔)、二子石(殷段と公孫段)が簡公に従っています。
趙武が言いました「七子が鄭君に従っているとは、武(趙武)にとって光栄なことです。鄭君の恩恵を完成させるために、それぞれ詩を賦してください。私が七子の志を見てみましょう。」
そこでまず子展が『草蟲詩経・召南)』を賦しました。「君子に会うまでは、憂いで心が安定しなかったが、君子に出会って交わったら、心が穏やかになった未見君子,憂心忡忡,亦既見止,亦既覯止,我心則降)」という内容です。君子は趙武を指します。
趙武が言いました「素晴らしい(善哉)!まさに民の主である。しかし私には、君子になる力量がない。」
伯有が『鶉之賁賁(鶉之奔奔。鄘風』を賦しました。衛宣姜の淫行を風刺する詩と言われており、「品行が悪い彼を兄とする必要はない人之無良,我以為兄)」「彼を主とする必要はない我以為君)」という句があります。鄭簡公に善行がないことを暗に非難しています。
趙武が言いました「床の上の話は門を出てはならないという。野外ではなおさらだ。これは人に聞かせることではない(『鶉之賁賁』の詩が衛宣姜の淫行に関する詩と言われているため、趙武はこう言いました。実際は国君の恥を外で語るべきではないという意味です)。」
子西が『黍苗(小雅)』の第四章を賦しました。召伯が謝邑の建築をする時の様子を描いた内容で、「謝邑の建築は急を要し、召伯がこれを経営する。軍旅は武威を奮い、召伯が任務を完遂する(粛粛謝功,召伯営之。列列征師,召伯成之)」という句です。趙武を召伯に喩えています。
趙武が謙遜して言いました「寡君(晋平公)がおられる。武に何の力があるだろう。」
子産が『隰桑(小雅)』を賦しました。「君子に会うことができた。なんと楽しいことであろうか既見君子,其楽如何)」という句があります。
趙武が言いました「その詩の末章を受け入れてください。」
末章は「心中で彼を愛する。なぜそれを言わないのか。心中に想いを隠す。いつの日か忘れることがあるのだろうか心乎愛矣,遐不謂矣,中心藏之,何日忘之)」です。趙武はこの句を子産に贈りました。
子大叔が『野有蔓草(鄭風)』を賦しました。「偶然にも彼に会うことができた。私の願いをかなえることができた邂逅相遇,適我原兮)」という句があります。
趙武が言いました「吾子(あなた)の恩恵によるものです。」
印段が『蟋蟀(唐風)』を賦しました。「過度な喜びは必要なく、頻繁に思考する。娯楽を好むが荒淫にならず、良士は常に恐れ戒める(無以大康,職思其居。好楽無荒,良士瞿瞿)」です。
趙武が言いました「すばらしい(善哉)!家を保つことができる主だ。望みがある言葉だ。」
公孫段が『桑扈(小雅)』を賦しました。君子は礼があるから天の助けを受けることができるという内容です。
趙武が言いました「驕ることがなければ(「匪交匪敖。」『桑扈』の一部です)、福が逃げることはない。この言を守ることができたら、福禄を辞退しようとしても福禄が自らやってくるだろう。」
 
宴が終わってから、趙武が叔向に言いました「伯有は近々殺されるだろう。詩とは志(心意)を表すものだ。彼の志は上を誣告し、怨んでいる。しかもそれによって賓客に栄を与えようとしたのだから(賓客を立てようとしたのだから)、長く続くはずがない。幸い死ななくていいとしても、亡命するはずだ。」
叔向が言いました「その通りです。また、彼は驕侈でもあります。五年ももたないでしょう。」
趙武が言いました「その他の者は皆、数世に渡って家を保つことができるだろう。中でも子展は最も長く残るはずだ。上にいながら降ることを忘れない。印氏はその次だ。楽しんでも荒淫に陥ることがない。楽によって民を安定させ、不淫によって民を使うのだから、長く続くはずだ。」
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代175 東周霊王(三十八) 崔氏滅亡 前546年(4)