春秋時代175 東周霊王(三十八) 崔氏滅亡 前546年(4)

今回で東周霊王二十六年が終わります。
 
[] 宋の左師・向戌が弭兵の功績による賞賜を求めて言いました「死をまぬがれることができたので(失敗したら死刑になる恐れもあった大任を成功させたという意味です)、邑をいただきたいです。」
平公は邑六十を向戌に与えることにし、その文書を司城・子罕に見せました。
子罕が言いました「小国の諸侯に対して、晋も楚も兵(武力)によって威を示すから、小国はそれを恐れて上下が慈和し、慈和することで国家を安靖にできます。大国に仕えるから小国は存続できるのです。脅威がなくなれば驕慢になり、驕慢になれば乱を生み、乱が生まれたら必ず滅びます。天は五材(金・木・水・火・土)を生み、民はそれを併用しており、一つも欠けてはなりません。誰が兵(武器)を排除していいのでしょう(武器は金属と木で作られており、金属の鋳造には火と水を使います。その武器を使って土地を争うので、武器は五材全てに関係しています)。兵(武器)が誕生して久しく、不軌(礼に外れた者)に威を与えて文徳を明らかにしてきました。聖人は兵によって興り、乱人は兵によって廃されたのです。廃興存亡、昏明の術(策略)は皆、兵によるものです。しかし子(あなた)はそれを除こうとしています。これは誣(欺瞞)というものでしょう。誣道によって諸侯を覆うことほど大きな罪はありません。大討(大きな咎。死罪)を受けていないからといって、逆に賞を求めるとは、無厭(満足を知らないこと)の極みです。」
子罕は簡(木簡か竹簡)に書かれた文字を削って地に投げ捨てました。
向戌は邑を辞退しました。
 
向氏の衆人が子罕を攻めようとしましたが、向戌がこう言いました「私が亡ぼうとした時、夫子(彼)は私を守ってくれたのだ。これ以上大きな徳はない。なぜ攻撃するのだ。」
 
[] 斉の崔杼には成と彊という子が産まれましたが、暫くして妻を失いました。
後に東郭姜(東郭が氏。姜は姓。かつての棠姜。東周霊王二十四年・548年参照を娶って明が産まれました。
東郭姜は前夫・棠公との間に産まれた子・棠無咎を連れて崔氏に入り、東郭偃(東郭姜の弟)と共に崔氏に仕えさせました。
崔成は病があったため後継者を廃され、崔明が後継者になります。崔成は引退して崔の地に住むことを願い、崔杼はそれに同意しました。しかし東郭偃と棠無咎が反対して言いました「崔地は宗邑(宗廟がある場所)です。宗主(崔明)が住むべきです。」
それを知った崔成と崔彊の兄弟は怒って東郭偃等を倒す計画を練り、慶封に言いました「夫子(崔杼)のことは子(あなた)も知ってのとおりですが、棠無咎と東郭偃のことしか聞かず、父兄(年長者)の言も聴こうとしません。夫子を害することになるのではないかと心配なので報告に来ました。」
慶封が言いました「汝等はとりあえず帰りなさい。私が方法を考えてみよう。」
 
慶封は盧蒲にこの事を話しました盧蒲は元々荘公に重用されていたため、荘公が殺されてから政権を握っている崔氏と慶氏に怨みを抱いています。そこで盧蒲はこう言いました「彼は国君(荘公)の讎です。天が彼を棄てたのかもしれません。彼の家が乱れることを、あなたが心配する必要はありません。崔氏が薄くなれば慶氏が厚くなります。」
後日、崔成と崔彊が再び慶封に相談に来ました。封はこう言いました「夫子(崔杼)に利があるのなら彼等を排除するべきだ。困難があるようなら、私が汝等を助けよう。」
 
九月庚辰(初五日)、崔成と崔彊が崔氏の朝(外朝。古代は諸侯も大夫も内朝と外朝がありました。外朝は政務を行う場所です)で東郭偃と棠無咎を殺しました。
崔杼が怒って部屋を出ましたが、近侍は皆逃走しており、馬車の用意もできません。そこで圉人(馬を養う官)を見つけて馬車を準備させ(本来、圉人の仕事ではありません)、寺人(宦官)に馬を御させました。
崔杼が言いました「崔氏に福があるのなら、禍は余の身だけで収まれ(私一人が死ぬのはいいが、崔氏は滅びるな)。」
 
家を出た崔杼は慶封を頼りました。慶封はこう言いました「崔氏と慶氏は一家と同じです。彼等はなぜこのようなことをしたのでしょう。子(あなた)のために討伐させてください。」
盧蒲甲士を率いて崔氏を攻めました。
崔氏の家衆は壁を高くして慶氏の攻撃に抵抗します。なかなか攻略できませんでしたが、やがて斉の国人も盧蒲を助けたため、崔氏は滅び、崔成と崔彊は殺され、家財も人も奪われました。崔杼の妻(東郭姜)は首を吊って死にました。
盧蒲崔杼に討伐の終了を報告し、崔杼の車を御して帰らせました。家に戻った崔杼は帰る場所がなくなったことを知り、妻を追って首を吊りました。
 
崔明は夜の間、大墓(群墓)に隠れました。
辛巳(初六日)、崔明が魯に奔走しました。
慶封が斉の国相となり政権を握りました。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公二十七年)』を参考にしました。『史記』も『資治通鑑外紀』も『春秋左氏伝』と同じく本年(東周霊王二十六年・前546年)の事としていますが、『資治通鑑前編』は前年に書いています。
 
[] 楚の罷が晋に行って盟を結びました。晋は罷のために宴を開きます。
罷は帰国する時、『既酔詩経大雅)』を賦しました。「既に美酒に酔い、その徳に満たされる。君子の万寿を願い、あなたの大福を祈る既酔以酒,既飽以徳。君子万年,介爾景福)」という内容です
晋の叔向が言いました「氏は楚国で長く存続するだろう。君命を受けて敏(鋭敏、聡明)を忘れなかった(宴に感謝し、晋君の長寿を願い、去る時に相応しい詩を賦したことが、時宜にかなった聡明なことと評価されました)。子蕩罷)はやがて政事を行うことになるはずだ。敏によって主君に仕えれば民を養うことができる。政権が彼から逃げることはない。」
 
[] 二年前に斉で起きた崔氏の乱(荘公が殺された事件)で申鮮虞が魯に逃げて来ました。申鮮虞は野(郊外)で人を雇って荘公のために喪に服しました。
冬、楚が人を送って申鮮虞を召したため、申鮮虞は楚に入り、右尹に任命されました。
 
[十一] この年の冬、日食がありました。
『春秋』経文は「十二月乙卯朔」、『春秋左氏伝(襄公二十七年)』は「十一月乙亥朔」のこととしています。
この解釈に関して諸説ありますが、暦のことは難しいので省略します。
 
 
 
次回に続きます。