春秋時代176 東周霊王(三十九) 鄭の入朝 前545年(1)

今回から東周霊王最後の年です。三回に分けます。
 
霊王二十七年
545年 丙辰
 
[] 春、魯で氷がはりませんでした。
周暦は夏暦と二カ月の差があるので、周暦の春は夏暦の十一月・十二月・一月になります。一年で最も寒い時期です。
 
魯の大夫・梓慎が言いました「今年は宋と鄭を飢饉が襲うだろう。歳星木星星紀にいるはずなのに、既にそこを越えて玄枵にいる(星紀と玄枵は歳星が運行する道を十二分した時の位置の名称です。天道は降婁・大梁・実沈・鶉首・鶉火・鶉尾・寿星・大火・析木・星紀・玄枵・娵訾に分けられました)。天の時が正しくなければ災害が起きる。だから陰が陽に勝てないのだ(陰は寒冷の冬、陽は温暖な夏を象徴します。氷ができないというのは陰が陽に負けていることを意味します)。蛇が龍に乗っているが(歳星は木星で、木徳を象徴する動物は蒼龍です。玄枵は女・虚・危の三宿にあたり、虚と危は蛇を意味しました。歳星が玄枵で失速して虚宿や危宿の下に現れたので、蛇が龍に乗っていることになります)、龍は宋と鄭の星だ(古代は中国全土に宿星があてはめられていました)。だから宋と鄭は必ず飢える。玄枵は虚宿(虚は何もないこと)が中心に居り、枵は消耗するという意味だ。土が虚ろになり民が消耗したら、飢えないはずがない。」
 
[] 夏、斉侯(景公)、陳侯(哀公)、蔡侯(景侯)北燕(恐らく懿公)、杞伯(文公)、胡子(胡は帰姓の国)、沈子と白狄が晋に入朝しました。前年の宋の会盟を確かめるためです。
 
斉景公が国を出ようとした時、慶封が言いました「我々は盟に参加していません(斉と秦は弭兵の会盟に参加していません)。なぜ晋に入朝するのですか。」
陳須無(陳文子)が慶封に言いました「先に大国に仕えることを考え、それから財貨について考えるのが、礼というものです。また、小国が大国に仕える時、会盟に参加していなくても大国の志(意志)に従うのが、礼というものです。たとえ今回の盟に参加していなくても、晋に背くことはできず、重丘の盟(東周霊王二十四年・前548年)を忘れてはなりません。子(あなた)は主君に出発するよう勧めるべきです。」
 
[] 衛が甯氏の党を討伐したため、石悪が晋に出奔しました。
衛人は石悪の従子(兄弟の子)・圃を後継者に選び、石氏の祭祀を継がせました。
 
[] 邾子が魯に来朝しました。時節に応じた定例の朝見です。
 
[] 秋八月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。旱害があったためです。
 
[] 蔡景侯が晋から帰る途中、鄭に入りました。
鄭簡公が宴を開いてもてなしましたが、蔡景侯は不敬でした。
鄭の子産が言いました「蔡侯は禍から逃れることができないだろう。以前(晋に入朝する時)、彼がここを通ったので、国君は子展を送って東門の外で労ったが、蔡侯は傲慢だった。私は時が経てば改められると思ったが、今回帰国する時も、享(宴の礼)を受けながら怠惰であった(礼を失した)。これは彼の心(本性)だ。小国の主君として大国に仕えながら、惰傲を心としていたら、死から逃れることができない。そしてそれは自分の子によってもたらされるはずだ。彼は国君であるが、淫乱で父らしいことをしていない。このような者はしばしば子によって禍を受けるものだ(蔡景侯は太子のために娶った女性と姦通し、二年後に太子に殺されます)。」
 
[] 魯の仲孫羯(孟孝伯)が晋に行きました。宋の盟を守って楚に入朝することを報告するためです。
 
[] 蔡景侯が晋に朝見した頃、鄭簡公が游吉(子大叔)を楚に派遣して聘問させました。しかし游吉が漢水に至った時、楚人が游吉を帰らせてこう言いました「宋の盟には国君が自ら参加したのに、今回は吾子(あなた。大夫の游吉)が来た。寡君(楚康王)はとりあえず吾子に帰国を命じ、馹(駅車)を駆けさせて晋に問うことにした(国君自ら入朝するべきかどうかの確認です)。」
游吉が言いました「宋の盟において、貴君の命は小国の利となり、それによって社稷を安定させ、民・人を鎮撫させ、礼によって天の福禄を受け入れることになりました。それは貴君の憲令(法令)であり、小国の願いでもあります。今回、寡君が吉(游吉)に皮幣(礼物)を奉じさせましたが、これは近年難が多いので(恐らく魯の大夫・梓慎の予言が的中し、この年は飢饉に襲われています)下執事(楚の官員)を聘問させたのです。しかし今、執事(楚君)はこう命じました『汝(游吉)はなぜ政令に関与するのか(大夫の身であるのに、なぜ朝見に来たのか)。汝の国君(鄭君)に国土と守りを棄てさせ、山川を越え、霜露を犯して、君心(楚君の心)を満足させよ。』小国は貴君を望としているので(貴国の恩恵を望んでいるので)、命に背くことはありません。しかし盟載の言に背けば君徳を損ない、執事(楚君)の不利になることを、小国は恐れます。そうでなければ労苦を嫌うことはありません(鄭君自ら入朝します)。」
游吉は帰国して簡公に報告しました。
その後、子展に言いました「楚子(康王)はもうすぐ死ぬでしょう。政徳を修めず、諸侯の進奉を貪って自分の願望を満足させようとしています。長寿を求めても得ることはできません。『周易』では『複』が『頤』に変わるという卦があり、『迷復(道に迷って帰ること)は凶』といわれています。これは楚子のことを言っているのでしょう。願望を実現させようとしているのにその本(徳を修めること)を忘れたら、帰る場所がなくなります。これが『迷復』というものです。凶でないはずがありません。国君が楚に赴き、(康王の)葬儀に参加して帰れば、楚は満足します。楚は約十年の間、諸侯を恤すことができないでしょう(覇を称えることができないでしょう)。その間、我が国は民を休めることができます。」
 
裨竈が言いました「今年は周王と楚子が死ぬだろう。歳星がいるべき場所を失い、明年の位置に移動して鳥・帑(鳥は朱鳥・朱雀、帑は鳥の尾。それぞれ天体の鶉火と鶉尾を意味し、周と楚にあたるようです)を害している。これは周と楚が嫌うことだ。」
 
九月、鄭の游吉が晋に行き、宋の盟に従って鄭君が楚に入朝することを報告しました。
子産が鄭簡公の相(補佐)となり、楚に入ります。当時の諸侯は、他国に入った時、郊外で草を除いて壇を築きました。郊労(慰労)を受けるためです。しかし子産は壇を築かず、舍(帳)だけを作りました。
外僕(官名。舎や壇の担当)が言いました「かつて先大夫が先君の相として四国に行った時、壇を造らなかったことはありませんでした。今に至るまでそれは変わっていません。草を除かず舍しか作らないのは、相応しくないでしょう。」
子産が言いました「大国が小国に行く時は壇を作るが、小国が大国を訪問する時は、舍だけで充分だ。大国が小国に行く時は五美(五つの利)があるという。大国は小国の罪に寛大になり、その過失を赦し、災患を救い、徳刑(徳と刑法)を賞し、至らないことがあれば教えるものだ。そのおかげで小国は困窮せず、家に帰るように大国に服すようになる。だから壇を築いてその功を明らかにし、後人が徳を怠らないようにするのだ。逆に小国が大国に行く時は五悪がある。大国はその罪を解釈し(大国の罪を粉飾し)、大国が不足している物を求め、小国に大国の政事を支持するように要求し、職貢(貢物)を納めさせ、時命(随時発せられる命)に従わせるのだ。そうしなければ大国の福(吉事)を祝福する時も、凶(葬事)を弔問する時も、幣帛(財礼。貢物)を重くされる。これらは全て小国の禍である。壇を作って禍を明らかにする必要はない。子孫に禍を称揚することはないのだ。」
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代177 東周霊王(四十) 慶封出奔 前545年(2)