春秋時代177 東周霊王(四十) 慶封出奔 前545年(2)

今回は東周霊王二十七年の続きです。
 
[] 斉の慶封(子家。慶季)は崔氏を滅ぼしてから政権を握ることになりましたが、狩猟を好み酒も愛したため、子の慶舍(字は子之)に実務を任せました。
慶封は家財や妻妾を盧蒲の家に遷し、妻妾を交換して酒を飲む日々を送ります。
数日後には官員が盧蒲の家に集まって政令を聴くようになりました。
 
慶封は亡命中の者でも(崔氏の党人)に関する情報を提供すれば帰国を許しました。盧蒲癸(盧蒲の兄。元荘公の党。東周霊王二十四年・前548年に晋に亡命しました)が斉に帰国します。
盧蒲癸は慶舎の臣となり、慶舎は盧蒲癸を寵用して娘を娶らせることにしました。
慶舍の士(家臣)が盧蒲癸に言いました「男女は姓を分けるべきです(同姓が結婚してはなりません)。あなたは同宗を避けるべきです(どちらも姜姓です)。」
盧蒲癸が言いました「同宗(慶舎)が婚姻を避けないのに、わしが一方的に避けるわけにはいかない。詩を賦す時も、一部を抜粋して自分の意見に合うように解釈するものだ。わしも自分が必要なことだけを選ぶ。同宗かどうかを気にする必要はない。」
 
盧蒲癸は王何(盧蒲癸と同時期に莒に亡命しました)のことを慶舎に話して斉に帰らせました。二人とも慶舎に信任され、寝戈(近衛の兵仗)を持って慶舎の周りを警護するようになります。
但し二人は元々荘公に信任されていたため、荘公殺害後、崔氏と共に政権を握った慶氏を憎んでいます。
 
当時の公膳(朝廷で出される食事)では、大夫は二羽の鶏が出されることになっていました。しかし饔人(調理人)が秘かに鶏を鶩(家鴨)に換えました。それを知った御者(食事を運ぶ者)は肉を除き、汁だけを大夫に配ります。これに子雅(公孫竈。恵公の孫で公子・楽堅の子)と子尾(公孫蠆。恵公の孫で公子・祈高の子)が怒りました。公膳は国政を行う者が主管するので、怒りは慶封に向けられます。
慶封がこの事を盧蒲に話すと、盧蒲はこう言いました「彼等を禽獣に喩えるとしたら、我々は禽獣の皮の上で寝ればいいでしょう(禽獣が殺されたら、肉は食べられ皮は寝具に使われました。二人を殺せばいいという意味です)。」
慶封は析帰父を送って子雅・子尾討伐を晏嬰(晏平仲)に伝えます。晏嬰はこう言いました「私の衆は役に立たず、私の智慧も謀を出すことはできません(協力はしません)。しかしこの事を漏らすこともありません。盟を結んで約束します。」
析帰父が帰って報告すると、慶封は「晏子がそう言ったのなら、盟を結ぶ必要はない」と言いました。
慶封が北郭子車(大夫)に子雅・子尾討伐を伝えると、子車もこう言いました「人にはそれぞれ主君に仕える方法があります。今回の事は、佐(子車の名)が協力できることではありません。」
 
陳須無(陳文子)が子の陳無宇(陳桓子)に言いました「乱が近い。我々は何を得ることができるか。」
陳無宇が答えました「百車分の慶氏の木を荘で得ることができます。」
荘は斉都・臨淄の大道です。木は家屋を作る材料なので、斉都で慶氏が家屋を失い、陳氏がそれを得るという意味になります。慶氏が敗れて政権が陳氏に移るということを暗示しているようです。
陳須無が言いました「慎重にそれを守らなければならない。」
 
盧蒲癸と王何が慶氏討伐を占い、慶舎に兆を見せて言いました「ある人が仇讎を攻撃することを卜いました。その兆を献上します。」
慶舎は自分が卜われたとは知らず、兆を見て「勝つ。そして血を見ることになる」と言いました。
 
冬十月、慶封が萊に狩猟に行きました。陳無宇も従っています。
丙辰(十七日)、陳須無が使者を送って陳無宇を呼び戻し、慶封にこう伝えました「無宇の母が疾病のため、帰ることをお許しください。」
慶封が陳無宇の母を卜って見せると、陳無宇は「死の兆です」と言い、亀を泣きながら抱きました。慶封は陳無宇を帰らせました。
慶嗣(字は子息。慶封の親族)がこれを聞いて「禍は近い」と言い、慶封に「速く帰るべきです。禍は嘗(秋の祭祀)で起きます。今帰ればまだ間に合うでしょう」と勧めました。
しかし慶封は同意せず、享楽に耽る生活も改めませんでした。
慶嗣が言いました「彼は亡命することになる。呉か越に逃げることができれば幸いだ。」
陳無宇は斉都に帰る途中、淄水等の川を渡ってから舟や橋を破壊しました。
 
盧蒲姜(盧蒲癸の妻。慶舎の娘)が盧蒲癸に言いました「事があるのに私に話さないようでは、成功できません。」
盧蒲癸が慶氏討伐の計画を話すと、盧蒲姜はこう言いました「夫子(父。慶舎)は頑固なので、誰も止めなければ逆に出て来ません(祭祀の参加を止めれば逆に出てきます)。私が諫めに行きましょう。」
盧蒲癸は同意しました。
 
十一月乙亥(初七日)、太公呂尚の廟で嘗の儀式が行われました。慶舍が祭祀を主宰します。盧蒲姜が慶舎に危険を伝えて参加を止めるように勧めましたが、慶舎は「誰にそのようなことができるか」と言って廟に入りました。麻嬰が尸(祭尸。神霊の代わりに祭祀を受ける者)に、慶上献(上賓)になります。二人とも慶氏の党です。
盧蒲癸と王何は寝戈を持ち、慶氏の甲士が警護のため公宮を囲みました。廟は公宮の中にあります。
 
陳氏と鮑氏の圉人(馬を養う者)が優(俳優)となり、演技をしました。慶氏の馬が演技の音に驚いたため、警護の甲士達は馬を繋ぎます。その後、甲士達は甲冑を脱いでくつろぎ、酒を飲み、優の演技を見るために魚里(宮門外の里)に移りました。
それを見届けた欒氏(子雅)、高氏(子尾)、陳氏(陳須無)、鮑氏(鮑国)(兵)は、慶氏の兵が脱いだ甲冑を身につけて廟に入ります。
子尾が桷(槌)で門を三回敲いた時、盧蒲癸が慶舎を後ろから刺しました。王何も戈で慶舎を襲い、左肩を打ちます。慶舎は廟の桷(四角い柱)にしがみついて甍(棟梁)を震わせ、俎や壺(酒器)を投げつけて襲ってくる兵達を殺しましたが、やがて力尽きました。
慶縄、麻嬰も殺されます。
 
景公が乱に驚き恐れましたが、鮑国が言いました「群臣は主君のためにこうするのです。」
陳須無が景公を連れて帰り、祭服を脱いで内宮に入りました。
 
慶封は狩猟から帰る途中で乱を告げる者に会いました。
丁亥(十九日)、慶封が西門を攻撃しましたが、攻略できず、北門に移りました。北門は陥落し、慶封は城内に入ります。しかし内宮を攻めて失敗したため、嶽(大通り)に陣を構えて決戦を求めました。
内宮の勢力は戦いに応じず、行き場を失った慶封は魯に奔りました。
 
慶封が魯の季孫宿(季武子)に車を献上しました。漆が塗られた車体は鏡のように輝いています。展荘叔(魯の大夫)がそれを見て言いました「車が光沢を放てば放つほど、人は憔悴するものだ。彼の亡命は当然だ。」
叔孫豹(叔孫穆子)が慶封を食事に招きました。当時は食事の前に必ず神を祭るものでした。しかし慶封の祭は礼から外れていたため、叔孫豹は不快になり、工(楽師)に『茅鴟』を歌わせます。この詩は不敬を風刺する内容だったようですが、現代には伝わっていません。
慶封は詩の意味を理解することができませんでした。
 
斉人が魯を譴責したため、慶封は呉に奔りました。
呉の句餘(餘祭。または夷末。夷末だとしたら、慶封が呉に行ったのは翌年のことになります)は慶封に朱方(呉の邑)を与え、族人を集めて住ませました。慶封は以前よりも富貴になります。
魯の孟椒子服恵伯)が叔孫豹に言いました「天が淫人(悪人)を富ませようとしている。慶封がまた富を手に入れた。」
叔孫豹が言いました「善人が富を手に入れることを賞というが、淫人が富を手にしたら殃(禍)となる。天は殃を与えようとしているのだ。一族を集めて全滅させるのだろう。」

史記・斉太公世家』は慶封出奔の後に「この、斉が荘を改葬し、崔杼の死体をに晒して人々を喜ばせた」と書いています。しかし慶封が出奔したのは冬です。出奔前に荘公の改葬と崔杼の見せしめが行われたのか、「秋」が「冬」の誤りなのか、はっきりしません。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、周に太陽のような黒い気が五つ(黒気如日者五)現れました。『漢書・五行志中之下(巻二十七之下)』にも日(太陽)のような黒い物が五つ(有黒如日者五)現れ、霜が降りるのも早かった(蚤霜)と書かれています。
 
十一月癸巳(二十五日)、周霊王が死に、子の貴が立ちました。太子・晋(東周霊王二十三年・前549年参照)の弟です。これを景王といいます。
 
史記・周本紀』の注集解)によると、霊王の墓は河南城西南柏西周山の上に作られました。霊王は産まれた時から髭が生えており、神とみなされたため、霊王という諡号が贈られたようです。その冢(墓)は民の祭祀が絶えませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代178 東周霊王(四十一) 楚康王の死 前545年(3)