春秋時代178 東周霊王(四十一) 楚康王の死 前545年(3)

今回で東周霊王の時代が終わります(霊王は前回死にましたが、年が改まるまで霊王二十七年です)。
 
[十一] 斉荘公が公子・牙とその余党を討伐した時(東周霊王十八年・前554年および霊王二十年・前552年参照)、諸公子が各地に逃走しました。公子・鉏は魯に、叔孫還は燕に、公子・賈は句瀆の丘に住みます。
慶氏が亡命すると、斉は諸公子を呼び戻し、器用(生活や祭祀に使う器物)を与えてそれぞれの邑を返しました。
 
景公が晏嬰に邶殿(斉の大邑)の境にある六十邑を与えようとしましたが、晏嬰は辞退しました。子尾が言いました「富とは人が欲するところである。なぜあなただけはそれを欲しないのだ。」
晏嬰が答えました「慶氏の邑は欲を満足させるに充分だったため、慶氏は亡命することになりました。私の邑は、欲を満足させるには足りません。しかし邶殿を加えたら欲を満足させることができます。欲を満足させたら亡命が近くなり、亡命して外に住むようになったら、一邑を擁することもできなくなります。邶殿を受け取らないのは富を嫌うからではなく、富を失うことを恐れるからです。そもそも富というのは、布帛に幅の決まりがあるのと同じです。その決まりを変えることはできません。民は生活が豊かになり、器物が便利になることを願っているので、徳を正して制限を作り、過不足がないようにしているのです。これを幅利(利を規制すること)といいます。利が過ぎればかならず失敗します。私が多くを貪らないのは、幅利のためです。」
 
景公は北郭佐に六十邑を与えました。北郭佐は全て受け入れます。
子雅に邑を与えると、子雅は多数を辞退して少数だけ受け取りました。
子尾に邑を与えると、子尾は全て受け入れてから返還しました。
景公は子尾を忠臣と認めて寵信するようになりました。
 
盧蒲は慶封の党として北の国境に追放されました。
 
斉景公は崔杼の死体を探しました。死体に刑を加えるためです。しかし見つかりませんでした。
 
それを聞いた魯の叔孫豹(穆子)が言いました「(崔杼の死体は)必ず得ることができる。武王には国を治める臣が十人いた文母・周公・太公・召公・畢公・栄公・大顛・閎夭・散宜生・南宮适)。崔杼にそれがいたか?(同心の者が)十人いなければ葬儀はできない(聖人の武王は同心の臣が十人いたから天下を得ることができました。崔杼は罪人なので、下に集まる臣下も徳がなく、そのような臣下がたとえ十人集まっても天下を取ることはできません。しかし十人いれば葬儀はできます。崔杼にはその十人すら集まらなかったので、崔杼の葬儀は行われておらず、死体はまだどこかにあるはずです)。」
暫くして崔氏の臣だった者が言いました「私に拱璧(大璧。崔杼の宝物)をくれるのなら、柩(崔杼の棺)を献上しましょう。」
崔杼の死体が朝廷に送られました。
 
十二月己亥(『春秋左氏伝』には「乙亥」とありますが、楊伯峻『春秋左伝注』によると「己亥」の誤りです)朔、斉人は荘公の改葬を行うため、その棺を大寝正室に置きました。
また、崔杼を晒すため、棺を市に置きました。死体はまだ元の姿を保っていたため、国人は死体が崔子だと確認できました。
 
[十二] 少しさかのぼります。
十一月、宋の盟に従い魯公(襄公)、宋公(平公)、陳侯(哀公)、鄭伯(簡公)、許男(悼公)が楚に朝見に行きました。
 
魯襄公が鄭を通った時、鄭簡公は不在だったため、伯有が黄崖で慰労しました。しかしその態度が不敬だったため、叔孫豹(穆叔)が言いました「伯有が鄭で罪を得ることがなければ、鄭は必ず大咎を受けるだろう。敬とは民の主である。それを棄ててどうして祖宗を継ぎ、家を守ることができるだろう。鄭人がそれを討たなければ、禍を受けることになる。済沢の阿(水辺の崖)や行潦(道の水が溜まった場所)に生える蘋・藻(どちらも水草は宗室に置かれ(祭祀で使われ)、季蘭が尸(祭尸。神や死者の代わりに祭祀を受ける者)になるのは敬である(『詩経・召南・采蘋』を引用しています。神に仕えることが敬であり、それを疎かにしてはならないという意味です)。敬を棄てていいはずがない。」
 
十二月乙未(『春秋左氏伝』の杜注によると、この年の十二月に乙未の日はないので誤りです)、諸侯が漢水に至った時、楚康王が在位十五年で死にました。
 
楚康王の死を知った魯の襄公は退き返そうとしましたが、叔仲帯(叔仲昭伯)が言いました「我々は楚国のために来たのです。一人(楚康王)だけのために来たのではありません。進むべきです。」
孟椒子服恵伯)が言いました「君子は遠慮(遠謀)があり、小人は近くに従うものです。目先の飢寒を考慮することもできないのに、後の事を考えている暇がありますか。とりあえず帰るべきです。」
叔孫豹(穆子)が言いました「叔仲子の言こそ用いるべきです。子服子はまだ学び始めたばかりです(見識が足りません)。」
栄駕鵞(栄成伯。叔肸の曾孫。叔肸は宣公の弟)が言いました「遠くを図る者こそ忠臣です。」
襄公は楚に行きました。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公二十八年)』の記述です。『国語・魯語下』にもこの時のことが書かれています。
魯襄公が楚に向かいましたが、漢水に至った時、楚康王が死んだと知りました。襄公は引き返そうとします。
しかし魯の大夫・叔仲昭伯(叔仲帯)が言いました「主君がここまで来たのは一人(康王)のためではありません也。楚の名(大国であり、諸侯の盟主としての地位・名声)とその衆(軍事力)のためです。今、王が死んだとはいえ、楚の名は変わらず、その衆も衰敗したわけではありません。なぜ帰るのですか。」
しかし諸大夫も帰国を望んだため、大夫・子服恵伯(子服椒)もこう言いました「どうするべきだろう。とりあえず主君に従って帰ろうか。」
叔仲が恵伯に言いました「子(あなた)がここに来たのは、自分の身の安全のためではありません。国家の利益のためです。だから遠路を困難とせず、楚の命を聴きに来たのです。楚に義があるからではありません。楚の名と衆を恐れるからです。他人の義に服している者でも、慶事があれば祝い、憂事があれば弔問するものです。恐れて服しているのなら、なおさらそうしなければなりません。楚を恐れたから来たのに、喪を聞いて還ろうとしていますが、羋姓(楚の姓)にも後嗣がいます。誰も喪主にならないというのですか(康王が死んだら楚がなくなると思うのですか)。王の太子は既に成人で、執政(政事を行う者。令尹や司馬等)も替ってはいません。先君のために来たのに死んだと知って帰ったら、新君が先君に及ばないということになります。魯の国内にいても喪を聞いたら弔問するのに、今回、喪を知って引き返したら、楚に対する侮辱だと思うでしょう。楚の卿大夫は新君に仕えて政事を始めています。自分が政事を行っている時に、諸侯が二心を持つことを願う者はいません。彼等が自分を軽視する者を除こうという願いは先人の時代よりも大きくなるでしょう。その結果、報復のために弱みを見せることはなく、執政(群臣)は心を一つにし、大讎によって小国に難を与えることになります。誰がそれに対抗できますか。主君に従って患憂に向かうくらいなら、主君に逆らって難を避けるべきです。そもそも、君子とは計が成ってから行動するものです。二三子(諸大夫)に計がありますか。楚を防ぐ術があり、国を守る備えがあるのなら、帰国してもかまいません。もしそれがないのなら、楚に行くべきです。」
襄公一行は楚に朝見しました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
宋の向戌は平公にこう言いました「我々は一人(楚康王)だけのために来ました。楚のためではありません。自分の飢寒を考慮することなく、楚のことを考える余裕がありますか。とりあえず帰国して民を休ませ、楚が新君を立ててから備えを考えるべきです。」
宋平公は引き上げました。
 
楚では康王の子・員(または「麏」「麇」)が立ちました。これを郟敖といいます
 
[十三] 楚の令尹・屈建が死にました。晋の趙武(趙文子)が同盟国と同等の礼で弔問しました。
 
[十四] 十二月甲寅(十六日)、魯に天王(周霊王)崩御の訃報が届きました。
魯の史書である『春秋』経文にはこの日に天王が死んだと書かれています。
 
[十五] この年、燕懿公が在位四年で死に、子の恵公(または「簡公」)・款が立ちました。
 
 
 
次回から春秋時代第三期に入ります。