春秋時代179 東周景王(一) 魯襄公と季孫氏 前544年(1)

今回東周景王の時代です。三回に分けます。

景王
東周霊王が死んで子の貴が立ちました。これを景王といいます。
 

景王元年
544年 丁巳
 
[] 春正月、魯襄公が楚に入朝しているため、祖廟での告朔(新しい月が始まった報告)と朝政(朝廷で一月の政務について報告を聴くこと)ができませんでした。
 
楚は前年死んだ康王のために魯襄公自ら襚(死者に服を着せること。弔問に来た使臣が行う礼です)を行うように要求しました。襄公が困惑すると、叔孫豹(穆叔)が言いました「殯(霊柩)の不祥を祓ってから襚を行うのは、朝見において最初に貢物の皮幣を並べて見せるのと同じことです(今回、襚を要求されたので、まずお祓いをしましょう)。」
襄公は巫に命じて桃の棒と茢(竹箒)で殯を祓わせました。これは国君が臣下の葬儀に参加した時の礼です。
楚人はそれを禁止しませんでしたが、終わってから襄公に襚を行わせたことを後悔しました。
 
[] 二月癸卯(初六日)、斉が荘公(東周霊王二十四年・548年、崔杼に殺されました)を北郭(外城北部)に改葬しました。
 
[] 夏四月、楚の康王が埋葬されました。魯襄公、陳哀公、鄭簡公、許悼公が送葬し、西門の外に至ります。諸侯の大夫は墓地まで同行しました。
 
楚で郟敖(康王の子・麇)が正式に即位しました。王子・囲が令尹になります。
鄭の行人・子羽が言いました「これは相応しくない。令尹が昌盛(国君の地位)を取って代わるだろう。松柏の下では草は繁茂しないものだ。」
松柏は権力を握る王子・囲で、草は幼弱な郟敖を指します。松柏が育つ場所は、土壌が肥えないといわれていました。
 
[] 魯襄公が楚から魯に帰国する途中、方城(楚国境)に至りました。その頃、魯国内を守っていた季孫宿(季武子)が卞邑(本来は魯公室の邑)を奪いました。
卞邑を奪う前に季孫宿は公冶を派遣して襄公を慰問しました。ところが、公冶が魯を出ると季孫宿は卞邑を占拠し、璽書(印章で封をした書信)を持った使者に公冶を追わせて、公冶の手から襄公に璽書を渡させました。
公冶は璽書の内容を確認せず、そのまま襄公に渡し、襄公を慰労してから営舎に入りました。
襄公が璽書を開くと、こう書かれていました「卞を守る者が叛すと聞いたので、臣(季孫宿)が徒(歩兵)を率いて討伐し、既に占拠しました。ここに占拠の事を報告いたします。」
襄公は怒ってこう言いました「卞を欲して謀反と偽るとは、わしをないがしろにするつもりか。」
この時、公冶は初めて季孫宿が卞を奪った事を知りました。
襄公が公冶を招いて聞きました「わしは国に入ることができるか?」
公冶が答えました「主君が国を有しています。誰が主君に逆らうでしょう。」
襄公は公冶の忠心を認めて冕服(礼冠と服飾)を与えようとしました。公冶は固辞しましたが、襄公が強制したため、受け入れました。
 
襄公は帰国をためらいましたが、栄駕鵞(栄成伯)が『式微詩経邶風)』を歌ったため、魯に向かいました。『式微』には「空が暗くなったのに、なぜ帰らないのか(式微,式微,胡不帰)」という句があります。
 
五月、魯襄公が魯に帰りました。
公冶は季氏から与えられていた邑を全て返し、「主君を欺くのに、なぜ私を使ったのだ」と言って、生涯、出仕しませんでした。季孫宿が会いに来た時は以前と同じように会話をしましたが、いない時は季氏に関して話題にすることもなくなります。
後に病にかかって死が近づくと、公冶は家臣を集めてこう命じました「わしが死んだら、冕服を斂(死者に服を着せて棺に入れること)に使ってはならない。あれは徳によって賞された物ではないからだ。また、季氏にわしを葬送させる必要もない。」
 
この出来事は『国語・魯語下』にも書かれています。別の場所で紹介します。

[] 周王室が霊王を埋葬しました。
 
当時、鄭簡公は楚に朝見しており、上卿の子展は国を守っているため、国君も上卿も霊王の葬送に参加できませんでした。そこで子展は印段を送ることにしました。
伯有が反対して言いました「いけません。若すぎます。」
子展が言いました「誰も送らないよりも、若くても参加させた方がいいだろう。『詩(小雅・四牡)』には『王に仕えて慎重・細緻で、足を休める暇もない(王事靡盬,不遑啓処)』とある。東西南北、誰が敢えて安寧に居座ろうとしているのだ。晋と楚に服従しているのは王室を守るためだ。王事(聘問・朝見・会盟・征伐等、王のために行う事)はまだ廃されていない。常例にこだわっている場合ではない(使者を送って葬礼に参加しなければならない)。」
印段が周に行きました。
 
[] 呉が越を攻撃して捕虜を得ました。捕虜は閽(門を守る官)となり、やがて舟の守備を命じられます。
後日、呉子・餘祭が舟を観察した時、閽が刀で餘祭を刺殺しました。
 
餘祭の在位年数は『春秋左氏伝』では四年ですが、『史記・呉太伯世家』では十七年となっています。
史記・十二諸侯年表』を見ると、餘祭は在位四年で殺されていますが、なぜか五年以降も餘祭の時代が続き、十七年で終わっています(景王年表参照)
寿夢の死後、長子・諸樊、次子・餘祭と継承され、餘祭の後は三子の夷末餘眛。夷眛)が継ぎました。
 
[] 鄭の子展(公孫舎之)が死に、子の子皮罕虎)が上卿を継ぎました。
 
当時、鄭を飢饉が襲いました。麦の刈り入れ前だったため民が窮乏します。
子皮は子展の命として(喪中なので父・子展の名を使って命を発したようです。もしくは、父が存命の時に飢饉が始まっており、子皮は子展の遺命を発表したともいわれています)、国内の各戸に一鍾(重さの単位。六石四斗)を与えて飢餓の救済としました。その結果、罕氏(子罕の子孫。子罕は公子・喜ともいい、子展の父)が鄭の民心を得て、長く上卿として国政に携わるようになりました。
宋の司城・子罕(楽喜)がこれを聞いて言いました「(上にいる者が)善に近づくことができるのは、民の望(願い)だ。」
 
宋でも飢饉が起きました。宋の子罕は平公に公粟(国の食糧)を貸し出すように請い、大夫にも食糧を出させました。子罕は食糧を貧民に貸しても書(契約書)を書かず、大夫に貸し出す食糧がない場合は代わって食糧を提供しました。宋に飢人がいなくなります。
 
晋の叔向がこれを聞いて言いました「鄭の罕氏と宋の楽氏はどちらも長く続き、国政を掌握するだろう。民が帰心しているからだ。しかも、施しを行っても自分の徳としない点では、楽氏が勝っている。楽氏は宋国と命運を共にできるはずだ。」
 
[] 六月庚午(初五日)、衛献公が復位して三年で死にました。子の悪が継ぎます。これを襄公といいます。
 
[] 杞国が淳于に遷都しました。
晋の平公は母が杞人だったため、杞の新都ために城壁を築くことにしました。
荀盈(知盈。知悼子)が諸侯を集め、築城を指揮します。魯の仲孫羯(孟孝伯)、斉の高止、宋の華定、衛の大叔儀(世叔・儀。または「世叔・斉」。大叔文子)、鄭の子大叔(子太叔。游吉)と伯石(公孫段)、および曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、小邾人が参加しました。
鄭の子大叔が衛の大叔儀と話をした時、大叔儀がこう言いました「(晋君の母のために諸侯を動員して)杞に城を築くというのはひどくないか。」
子大叔が言いました「仕方がないことだ。晋国は周宗(周室)の衰弱を心配することなく、夏朝の残り(杞国は夏王朝の末裔です)を守ろうとしている。(周室を心配することもないのだから)諸姫(晋と同姓である姫姓の諸侯)を棄てることもできるだろう。しかし、諸姫を棄てたら誰が晋に帰順するか(親戚も大事にできないのなら、異姓の諸侯が晋に従うはずがない)。同族を棄てて異姓に近づくのは、徳から離れることだという。だから『詩(小雅・正月)』にはこうある『近親と協調すれば、姻戚もますます親しくなる(協比其鄰,昏姻孔云)。』晋は近親と親しもうとしないのだから、誰とも友好関係をもてないだろう。」
 
斉の高子容(高止)と宋の司徒・華定が晋の知伯(荀盈)に会いに行きました。晋の女斉(司馬侯)が相礼(大臣が賓客に会う時、補佐する役)を勤めます。
賓客が退出してから、司馬侯が荀盈に言いました「二子とも禍から逃れることができないでしょう。子容は専(専横すること)、司徒は侈(奢侈)です。それぞれ、家を亡ぼす主です。」
荀盈がその理由を問うと、司馬侯はこう言いました「専は禍を速めます。侈は自分の力が強いことによって逆に倒され、専は他者に倒されるものです。禍はすぐ訪れます。」
 
[] 晋平公が士鞅(范献子。范叔)に魯を聘問させました。杞の築城に協力したことを謝すためです。
魯襄公が宴を開いて士鞅をもてなし、展荘叔が士鞅に贈るための幣(束ねた帛布)を持ちます。
当時は宴の後、射礼という矢を射る儀式が行われることがあったようです。楊伯峻の『春秋左伝注(襄公二十九年)』によると、天子と諸侯の宴では六耦(六対)、諸侯と諸侯の宴では四耦、諸侯と大夫の宴では三耦がそれぞれ四矢を射ち、最後に主人と賓客が矢を射ました。
魯襄公は三耦(六人)をそろえなければなりませんでしたが、優秀な人材がいませんでした。そこで私門の家臣からも礼と射術に通じた者が選ばれます。家臣からは展瑕と展王父(または展玉父)が選ばれて一耦(上耦)になり、公臣からは公巫召伯と仲顔荘叔(公巫と仲顔は氏。あるいは、公巫は官名)が一耦(次耦)に、鼓父、党叔が一耦(下耦)になりました
魯の公室が衰退し、人材が不足していることを象徴する出来事でした。
 
[十一] 晋平公が司馬・女叔侯(女斉)を魯に派遣し、杞田(今までに魯が杞国から奪った土地)を返還させましたが、魯が返還した土地が少なかったため、晋の悼公夫人(平公の母。杞人)が怒って言いました「斉(女斉)の働きを先君が知ったら、先君の保護を受けることができないでしょう。」
平公がこれを女叔侯に伝えると、女叔侯はこう言いました「虞、虢、焦、滑、霍、揚(または「楊」)、韓、魏は全て姫姓ですが、晋はこれらの国を滅ぼして大きくなりました。小国を侵さなかったら、国を拡げることはできません。武公・献公以来、覚えられないほどの国を兼併してきました。杞は夏朝の残りであり、東夷に属します。魯は周公の後裔であり、晋と和睦しています。魯に杞国を与えることは許されますが、杞国を心に留める必要はありません。魯は晋に対して職貢(貢物)を欠かしたことがなく、玩好(玩物)も時を失わずに届けられ、公卿大夫も相次いで入朝し、史書に記録が絶えることはなく、府庫に一月も貢物がないということもありません。それなのに、なぜ魯を痩せさせて、杞を肥えさせるのですか。もしも先君が知ることができるのなら、夫人自身にそうさせる(使者として魯に送る)はずで、わざわざ老臣を用いることはないでしょう(当時は女性が外交をすることはないので、夫人が使者になることもありえません。暗に「先君も杞国のために魯の地を削るような命令を出すはずがない」と言っています)。」
 
 
 
次回に続きます。