春秋時代 季武子の卞邑占領

東周景王元年544年)魯の季武子が卞邑を占拠しました。
その時の事が『国語・魯語下』に書かれています。

魯襄公が楚での朝見を終えて帰国の途につきました。一行が楚の方城まで来た時、魯の季武子(季孫宿。または季孫夙)が卞邑を襲って自分の邑にしたという情報を得ます。
襄公は楚に戻って季氏の討伐を請おうとしましたが、大夫の栄成伯(栄欒)が言いました「いけません。国君の権威は臣下に対してとても大きいものです。それなのに国内で令が行き届かず、諸侯(他国)に頼るようでは、諸侯の誰が魯と親しくするでしょう。魯人(魯の国人)は夙(季武子の名)が卞邑を取った時に逆らいませんでした。もし楚師を得て魯を討伐しても、魯人は必ず夙の命を聴いて守りを固めるでしょう。また、もしも楚が魯に勝っても、諸姫(姫姓の諸国)に利はありません。魯の主君であるあなたならなおさらです。楚は(周王室と同じように)魯の地に同類(同姓の諸侯)を置いて東夷を服従させ、諸夏(中原諸国)と対抗して天下の王となるはずです。君(襄公)に対して何の恩徳があって奪った地を与えるというのでしょうか(楚が魯を討伐して勝ったら、襄公が魯の君になることはできません)。もしも楚が魯に勝てなかったとしても、主君は蛮夷の力を借りて討伐したので、国に入ろうとしても入ることはできないでしょう。季氏に与えるべきです。そうすれば夙は主君に仕え、心を改めるでしょう。酒に酔って怒っても、酒が醒めてから喜ぶことができれば、悪いことはありません(怒った勢いで魯の季氏を討伐しようとしたのは酔って怒った状態、冷静になって討伐を中止するのは酒が醒めた状態です)。国に帰りましょう。」
襄公は帰国しました
 
もう一つ『国語・魯語下』からです。
魯襄公が楚にいる間に、季武子が卞邑を奪いました。ほぼ同時に季冶(公冶。子冶。季氏の一族)に命じて帰国する襄公を迎え入れさせました。季冶が出発してから、季武子は新たに使者を送って季冶の後を追わせ、璽書(印章で封をした書)を届けます。そこにはこう書かれていました「卞人が謀反を企んだので、臣が討伐して既に占領しました。」
書を読んだ襄公は何も言いません。栄成子(栄駕鵞)が襄公の怒りを恐れ、襄公が口を開く前に季冶に言いました「(季子にこう伝えなさい。)(季孫宿)は魯国の股肱であり、社稷の事は子が制している。子にとって利があるのなら、卞の地にこだわることはない。卞に罪があり、子が征伐したのは、子の隸(職責)である。わざわざ報告する必要もない。」
季冶は帰国してから季氏から与えられた禄(采邑)を返還し、官を辞してこう言いました(季氏は)私を使って主君を欺いたのに(季冶を使って「卞人が謀反を企てたから占領した」という嘘を襄公に伝えさせました)、私を賢能の人材だと言っている。賢能でありながら主君を欺くようでは、その俸禄を得て朝廷に立つことはできない。」