春秋時代180 東周景王(二) 季札の魯聘問 前544年(2)

今回は東周景王元年夏の続きからです。
 
[十二] 魯が杞に田(土地)を還すことになったため、杞文公が魯に来て盟を結びました。
『春秋』経文は「杞文公」を「杞子」と書いています。これは東夷とみなしているからです。
同じように、中原諸侯に属さない楚の国君は「楚子」、呉の国君は「呉子」と書かれています。
 
[十三] 呉が季札(呉王・寿夢の第四子)を魯に送って聘問しました。呉の魯に対する聘問はここから記録が始まります。
季札は魯の叔孫豹(叔孫穆子)に会って喜びましたが、こう忠告しました「子(あなた)は善い終わりを迎えることができないかもしれません。善を好みながら相応しい人材を選べないからです。君子の重要な任務は人を選ぶことにあるといいます。吾子(あなた)は魯の宗卿であり、大政を任されていますが、慎重に人を推挙していません。どうして禍に堪えることができるでしょう。」
 
季札は周楽(周代の礼に則った音楽)の観賞を望みました。周公・旦を始祖とする魯は、周王室から虞舜・夏・商・周四代の楽舞を行うことが許されていました。
魯襄公は楽工に『周南』と『召南』を披露させました。音楽が奏でられ、歌が歌われます。『周南』以下、全て『詩経』に収録されています。詩の詳しい解説は省略します。
『周南』と『召南』は周の王業を助けて南方にまで教化を進める周公・旦と召公・奭を称える歌です。聞き終わってから季札が言いました「美しい。王業の基礎が造られましたが、まだ完成していません。それでも民は勤勉に働き、怨みを持ちません。」
 
次に『邶風』『鄘風』『衛風』を披露しました。邶・鄘・衛は商殷の王畿だった場所に位置し、「三監」とよばれるそれぞれ独立した国でしたが、周王室に対して謀反したため、周公・旦に平定され、衛に統一されました。
聞き終わった季札が言いました「美しく深淵です。憂いがあるのに困窮しません。衛の康叔や武公の徳がそのようだったと聞いています。『衛風』は二子を歌っているのでしょう。」
 
次に『王風』を披露しました。周王室が東遷する内容です。
季札が言いました「美しい。(周室の衰退と滅亡を)憂慮しながら(先王の遺風があるので)恐れていません。これは周が東に遷ってからの歌でしょう。」
 
『鄭風』を披露すると、季札が言いました「美しい。しかし内容が細かすぎます(『鄭風』は男女の恋愛に関する内容が多いことで知られています。政治に関する大事が少なく、取るに足らないことが多いという意味です)。民は堪えることができないでしょう(鄭は教化の程度がこのようなので、政治も正しく行われず、民の負担が多くなるでしょう)。鄭は先に滅びるはずです。」
 
『斉風』を披露すると、季札が言いました「美しく広大(泱泱乎)です。これこそ大風(大国の気風・音楽)です。東海を率いる太公呂尚の国は、量り知ることができません。」
 
『豳風』を披露すると、季札が言いました「美しく膨大(蕩乎)です。楽しいのに淫することがありません(節度があります)。周公の東征(管・蔡の乱)を歌っているのでしょう。」
 
『秦風』を披露すると、季札が言いました「これは夏声です(古代は西方を「夏」といいました。秦は西方の国で、その音楽を「夏声」といいます)。夏は大を意味します。大が頂点に達しています。周の旧楽でしょう。」
秦の地は周族が振興した場所なので、周の古い音楽の影響を受けていたようです。
 
『魏風』を披露すると、季札が言いました「美しく起伏に富んでいます(渢渢)。粗く大きいのに穏和で、険しいのに進むのが優しいのは、徳によって補佐しているからでしょう。これこそ盟主です。」
魏は元々姫姓の国でしたが、この頃は晋に滅ぼされて魏氏の采邑になっていました。季札は晋の魏氏を評価しているようです。
 
『唐風』を披露しました。唐は晋国の祖・叔虞が最初に封じられた場所で、帝堯が都にしていたといわれています。
季札が言いました「思慮が深い。陶唐氏(帝堯)の遺民が居るのでしょう。そうでなければこれほど遠くを憂いることはできません。令徳(美徳の者)の後代でなければ、誰がこのようでいられるでしょうか。」
 
『陳風』を披露すると、季札はこう言いました「国に主がいません。長くないでしょう。」
 
『鄶風』と『曹風』も披露されましたが、季札は評価しませんでした。
 
『小雅』を披露すると、季札が言いました「美しい。憂いがあっても二心を抱かず、怨みがあっても言葉にしません。(憂いや怨みがあるのは)周の徳が衰えているからでしょうか。しかしまだ、先王(文王・武王)の遺民がいます。」
 
『大雅』を披露すると、季札が言いました「広大で、和して楽しそうです(熙熙乎)。曲がっているのに本体が真っ直ぐなのは、文王の徳でしょうか。」
 
『頌』を披露すると、季札が言いました「頂点に達しました。正直で不遜にならず(直而不倨)、曲がっても屈することなく(曲而不屈)、近くても侵さず(邇而不偪)、遠くても疎遠にならず(遠而不攜)、離れても乱せず(遷而不淫)、往来を繰り返しても厭わず(復而不厭)、悲しんでも憂いず(哀而不愁。天命を知るという意味です)、楽しんでも度を越さず(楽而不荒)、用いても窮することなく(用而不匱。徳を施して尽きることがないとも読めます)、広くても表すことなく(広而不宣。心が寛くても自分からそれを見せることなく)、施しは浪費にならず(施而不費)、物を得ても貪婪にならず(取而不貪)、静止しても停滞することなく(処而不底)、行動しても勝手に流れることがありません(行而不流)。五声(古代の五つの音階)が和し、八風(八音。八方向の風の音)が平(協調)し、節に度があって秩序を守っています。これは盛徳の人が持っていることです。」
 
歌が終わると季札は舞を観ました。
まず、『象』と『南籥』の舞を見て、こう言いました「美しい。しかし憾(遺憾)もあります。」
二つの舞踏は西周文王を称える舞です。文王は天下統一の前に死んでしまったため、「憾がある」と言いました。
西周武王の舞楽である『大武』を見て、こう言いました「美しい。周の隆盛はまさにこのような状態でしょう。」
商王朝の成湯を称える『韶濩』を見て、こう言いました「聖人のように弘大ですが、慙徳(徳に対する慙愧の気持ち)もあります(恐らく、成湯が臣下の身でありながら夏王・桀を倒したことを指します)。聖人とは難しいものです。」
夏王朝の禹を称える『大夏』を見て、こう言いました「美しい。勤労でありながら自分に徳があるとは思いませんでした。禹でなければ、このような舞楽はできなかったでしょう。」
虞舜を称える『韶(䔥韶)』を見て、こう言いました「徳が頂点に至りました。偉大です。天に覆いがなく、地に乗らない物がないのと同じです。これ以上大きな盛徳はありません。これで観るのを止めておきます。他に舞楽があったとしても、これ以上、観ることはできません。
 
今回、季札は呉で餘眛が即位したことを報せるために諸侯を巡りました。季札は魯を始め各国で敬われます。
斉では晏嬰晏平仲。晏子に会って喜び、こう言いました「子(あなた)は速く邑と政(政権)を公室に還すべきです。邑と政がなければ難から逃れることができます。斉国の政は向かうところが決まっています(いずれ斉国の政治は陳氏に帰します)。そこに至らなければ、難が鎮まることはありません。」
晏嬰は陳無宇(陳桓子)を通して政と邑を返上しました。そのおかげで、欒氏と高氏の難(東周景王十三年・前532年)から逃れることができました。
 
鄭を聘問して子産に会いました。旧知のように親しくなり、季札は縞帯(白絹の帯)を贈りました。子産は(麻の服)を贈ります。
季札が子産に言いました「鄭の執政(伯有)は奢侈なので、間もなく禍難が及び、政権は子(あなた)に渡ります。子は礼に基づいて慎重に政治を行うべきです。そうしなければ、鄭国は敗亡するでしょう。」
 
季札は衛に行き、蘧瑗(蘧伯玉)、史狗(文子。史朝の子)、史鰌(史魚)、公子荊、公叔発(公叔文子)、公子朝(あるいは「公孫朝」)と親しくなってこう言いました「衛には君子が多いので、患憂はまだない。」
 
衛から晋に行く途中、戚(孫林父の食邑)に泊まろうとしました。そこで鐘の音を聞いて言いました「不思議なことだ。変(乱。主君を駆逐したこと)を起こしながら徳がなければ、必ず誅殺されるという。夫子(彼。孫林父)は主君の罪を得てここにおり、恐れを抱いても足りないはずなのに、何を楽しんでいるのだろう(鐘の音は孫林父が音楽を楽しんでいたことを表します)。夫子がここにいるのは、燕が帳幕の上に巣を作るようなものだ(帳幕はいつでも撤去できるので、巣は破壊される危険があります)。しかもその国君は殯にいる(衛献公は死んだばかりで、まだ埋葬されていません。埋葬される前の状態を殯といいます)。楽しんでいていいのだろうか。」
季札は戚を去りました。
これを聞いた孫林父(文子)は、終生、琴瑟(音楽)を聴かなくなったといいます。

以上は『春秋左氏伝(襄公二十九年)』の記述です。『史記・衛康叔世家』は異なった記述をしています。
季札が宿を通った時、孫林父が季札のためにを敲きました。季札はそれを聞いて(楽しいこと)ではない。大悲がある。衛に乱をもたらした者はここにいる」と言いました。
 
 

次回に続きます。