名と字 中国史用語解説

前回は「姓」と「氏」について簡単に解説しました。
今回は「名」と「字(あざな)」について書きます。
前回の「姓氏」と同じく、『中国文化史概要』を元に一部内容を追加・省略して解説します。


まずは「名」です。
古代の人々は産まれて三カ月で名がつけられ、男子は二十歳で冠礼を行い、その後、字(あざな)を持ちました。女子は十五歳で笄礼を行い、字をもちます。冠礼と笄礼は成人の儀式です。
正式に名をつける前に、「乳名」をもつこともありました。「乳名」は「小名」ともいいます。
例えば曹操三国志の英雄の一人)の小名(乳名)は阿瞞、劉禅三国志の英雄の一人・劉備の子)の小名は阿斗、劉裕南北朝時代・宋の皇帝)の小名は寄奴といいました。
現代でも農村を中心に小名の習慣は残っています。多くの場合、育ちやすくなるようにという願いを込めて、また驕貴になることを避けるために、敢えて卑賤な物が小名に使われました。阿狗、阿毛、鎖柱、鉄蛋等等です。
 
正式な名には祝賀や記念の意味を持つことがよくありました。
例えば春秋時代、魯国の叔孫氏が敵に勝って長狄喬如を捕えたため、子の名を喬如にしました。また、鄭荘公は「寤生(逆子)」だったため、それが名になりました。
宋代の蘇洵は自分の二人の子(蘇軾と蘇轍)に対する願いを込めて名をつけたことを『名二子説』という文章で語っています。
また、皇帝から名を贈られることもありました。
唐代の楊国忠楊貴妃の一族)は元の名を釗といい、朱全忠(五代・後梁の初代皇帝)は元の名を温といいましたが、どちらも皇帝から名を贈られて改名しました。
 
数の子がいる場合は、兄弟の排行(序列)を考慮する必要がありました。先秦時代は「伯」「仲」「叔」「季」が長男、次男、三男、末子を意味しました。例えば伯夷、叔斉、仲由、季札等の「伯」「叔」「仲」「季」は兄弟の序列を表します。
後には「字輩」が生まれました。宗族の中で複数の文字の順序を規定し、共通した文字によって輩份(世代)の序列を示します。同宗の子孫は「字輩」の順序に従って名がつけられました。例えば譚姓(『中国文化史概要』の主編を担当した譚家健の姓)の字輩は「承祖徳尚善,家運慶修禎(長い字輩の一部です)」と決められており、この文字の順に名の一字をつけることで同族間の輩份がわかるようにしました。
 
日本にはない習慣なのでもう少し詳しく説明します。
例えば譚姓の親族で名の一字に「承」を使っている人が複数いたとします。「譚承国」「譚承哲」「譚承生」等です。彼等は名を見ただけでお互いが同じ世代だと分かります。この三人にそれぞれ子ができたら、「字輩」の決まりに従って、子の名に「祖」が使われます。「譚祖任」「譚祖華」「譚祖高」等です。彼等にも子ができたら「徳」という字が使われます。
こうすることで譚姓の間で誰が祖父の世代、誰が父の世代、誰が自分と同じ世代かが分かるようになります。
 
字輩は皇族も使いました。例えば清代の康煕帝は「玄」字輩なので、その兄弟の名には全て「玄」の字が使われています。雍正帝は「胤」字輩、乾隆帝は「弘」字輩、嘉慶帝は「顒」字輩、道光帝は「旻」字輩、咸豊帝は「奕」字輩、同治帝と光緒帝は同世代なので「載」字輩、宣統帝は「溥」字輩です。
 
輩份を示す字は、二字名の場合、通常、最初の一字(姓名合わせて三文字なら真ん中)に置かれます。例えば張学良、張学思、張学銘は「学」が字輩です。
但し最後の一字に字輩を置くこともあります。宋慶齢宋靄齢宋美齢姉妹の「齢」がそうです。
名が一字の場合は、部首が輩份を表しました。例えば蘇軾、蘇轍は「車」が共通しているので同輩(兄弟か同世代の親族)だとわかります。その他にも「賈赦」「賈政」「賈敬」や「賈珍」「賈璉」「賈珠」「賈環」等があります。
女子は男子と同じ字輩を使うことも、異なる字によって輩份を表すこともありました。
また、家族によっては一字を共有するだけでなく、他の規定を設けることもありました。例えば明の皇族は三文字目の一部に決まりがありました。泰昌帝・朱常洛の弟は朱常洵といい、字輩の「常」以外に三文字目の「氵」が共通しています。天啓帝・朱由校の弟には崇禎帝・朱由検、弘光帝・朱由崧等がおり、「由」字輩の他に三文字目の「木」が共通しています。
 
このような字輩の規制があったため、命名の幅が狭くなり、敢えて通常使われない複雑な漢字が使われることも増えるようになりました。
 
 
次は「字(あざな)です。
字は名を補い、解説するものです。名と表裏の関係にあるので「表字」ともいいます。
例えば孔子の弟子・冉耕は字を伯牛といいました。伯は上述した通り「伯・仲・叔・季」の筆頭で、兄弟の序列を表します。牛は農耕に使われる動物なので、名の「耕」と関係があります。
孔子の子・孔鯉は字を伯魚といいました。鯉は魚の一種です。
蘇軾の字は子瞻といいました。軾は馬車の前につけられた横木で、そこに手を置いて前方を眺めました。瞻は遠くを眺めるという意味です。
三国志に登場する趙雲は字を子龍といいました。龍は雲に乗って現れるからです。
明代に「呉中四才子」の一人と称された唐寅は字を伯虎といいました。寅と虎は同意です。
 
名と字が逆の意味を持つこともあります。
管同(清代の文学者)の字は異之といいました。「同」と「異」は逆の意味です。
朱熹(宋代の儒学者の字は元晦といいました。熹は光明、晦は暗黒を意味します。
 
古典から名と字を取ることもありました。
銭謙益(清代の文学者)の字は受之ですが、この名と字は『尚書』の「満招損,謙受益」が元になっています。
 
通常は一名一字ですが、字を複数持つこともありました。例えば蒲松齢(小説『聊斎志異』の作者)には留仙と剣臣という字がありました。
 
 
次回は号・代称について解説します。