春秋時代181 東周景王(三) 東阿の晏子 前544年(3)

今回で東周景王元年が終わります。
 
[十三(続き)] 前回は『春秋左氏伝(襄公二十九年)』を元に諸侯を訪問する呉の季札の様子を書きました。
晋に入った時の季札の言葉が『説苑・政理(巻七)』に紹介されています。
延陵季子(季札)が晋に行った時、国境を入ると「ああ、暴(暴虐)の国だ」と言い、国都に入ると「ああ、力屈(民力を消耗すること)の国だ」と言い、朝廷に入ると「ああ、乱れた国だ」と言いました。
従者が問いました「夫子(あなた)は晋に入って間もないのに、なぜ躊躇することなくそのようなことを言うのですか?」
季子が言いました「私が国境に入った時、田地は荒れ果て、雑草が茂っていた。そこから国の暴を知ったのだ。都に入った時は、新室(新しい家)の質が悪く、故室(古い家)の方が美しかった。新しい壁は低く、古い壁高い。そこから民力が消耗されている(最近の民には以前にまさる家を建てる力がない)ことを知ったのだ。朝廷に立った時、晋君は意見を聞くだけで下に問うことがなく、臣下は善伐(自分の功績を誇って自慢すること)するだけで上を諫めることがなかった。そこから国の乱れを知ったのだ。」
 
資治通鑑外紀』に紹介されている季札の言葉は少し異なります。
季札はこう言いました「私は烏の巣が高いため(意味は分かりません)、暴を知った。旧室が好く、新室の方が悪いので、民力が損なわれていると知った。国君は自ら判断して下に意見を求めず、臣下は俸禄を守って上を諫めようとしないので、その乱を知った。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
季札は晋に入って趙武(趙文子)、韓起(韓宣子)、魏舒(魏献子)と会い、喜んでこう言いました「晋国の政権はこの三族に集まるでしょう。」
季札は叔向とも意気投合しました。晋国を去る時、叔向にこう言いました「吾子(あなた)は勉めるべきです。主君は奢侈ですが、良臣が多く、大夫が皆富んでいます。政権はやがて家(卿大夫)に移るでしょう。吾子は直言を好むので、難から逃れる方法をよく考えるべきです。」
史記・趙世家』はこれを晋平公十三年の事としていますが、平公十四年の誤りです。

史記・呉太伯世家』には季札と徐君の話が書かれています。
季札が呉を出たばかりの時、北に向かって徐国の主君に会いました。徐君は季札の剣を気に入りましたが、口に出そうとしません。季札は内心それを知りましたが、諸国を巡らなければならないため剣を献上しませんでした。
各国の旅が終わり、帰路、再び徐国に寄りました。しかし徐君は既に死んでいました。季札は宝剣をはずすと、徐君の墓に生えた木に結び付けて去りました。
従者が言いました「徐君は既に死にました。あの剣は誰に譲ったのですか?」
季札が言いました「私は内心で譲ることを決めていた。相手が死んだからと言って、私の心に背くわけにはいかない。」
 
この話は『新序・節士(第七)』に詳しく書かれています。
延陵季子は西の晋を聘問しました。途中、宝剣を帯びて徐国を訪ねます。剣を見た徐君は言葉にはしませんでしたが、顔色から剣を欲していることが分かりました。しかし季子は諸国に行かなければならないため、心中ではいずれ剣を譲ると決めましたが、献上せずに旅を続けました。
晋から帰る途中、徐君は楚で死にました。季子は剣をはずすと嗣君(徐君の後継者)に譲ります。
従者が言いました「これは呉国の宝です。人に贈ってはなりません。」
季子が言いました「人に贈るのではない。以前、徐君は言葉にしなかったが剣を欲していた。私は上国(諸侯)を巡らなければならなかったから献上しなかったが、心中では譲ると決めていた。死んだからと言って献上しなければ、自分の心を欺くことになる。剣を愛して心に偽るのは、廉者がすることではない。」
季子が剣を嗣君に譲ると、嗣君はこう言いました「先君からそのような命は受けていません。孤(国君の自称)は剣を受け取ることができません。」
そこで季子は剣を帯びて徐君の墓に行き、樹木に剣を掛けて去りました。
徐人は季子を称賛してこう歌いました「延陵季子は故人を忘れず、千金の剣をはずして丘墓に帯びさせた延陵季子兮不忘故,脱千金之剣兮帯丘墓。)
この故事は「季札掛剣」という美談として語り継がれています。

[十四] 『資治通鑑外紀』はここで『晏子春秋・外篇上(巻七)』から斉の晏嬰の話を紹介しています。
晏子が三年間にわたって東阿を治めました。ある日、斉景公が晏子を召して言いました「わしは子(汝)ならできると思ったから東阿を治めさせた。しかし子が治めてから東阿は乱れてしまった。子は退いて反省せよ。追って子に大誅(刑罰)を降すであろう。」
晏子が言いました「異なる方法で東阿を治めさせてください。もし更に三年経っても治まらなかったら、臣は死を請います。」
景公は同意しました。
翌年、晏子が賦税の収入を報告しました。景公は晏子を迎え入れ、祝賀して言いました「子による東阿の政治はとても素晴らしい。」
晏子が言いました「以前、臣が東阿を治めた時は、属托(こねを使って利益を得ること)する者がなく、賄賂も贈られず、陂池(池沼)の魚は貧民を助けていました。あの頃の民には飢える者がいませんでしたが、主君は逆に臣の罪としました。今、臣が改めて東阿を治めた結果、人々は属托を行い、賄賂が横行し、賦税が重くなり、倉庫の蓄えを減らして国君の左右の者のために使うようになりました。陂池の魚は権家に入っています(賄賂が横行し、景公の周りにいる高官が利益を得るようになったので、晏子を褒めるようになりました)。このような治世なので、飢える者は半数を越えていますが、主君はかえって臣を迎え入れ、祝賀しました。臣は愚かなのでこれ以上、東阿を治めることができません。骸骨(辞職。隠退)を請い、賢者に路を譲りたいと思います。」
晏子は再拝して去ろうとしました。
景公は慌てて席を下りると、謝罪して言いました「どうか子に再び東阿を治めてもらいたい。東阿は子の東阿だ。今後、寡人が干渉することはない。」
 
[十五] 秋九月、斉の公孫蠆(子尾)と公孫竈(子雅)が大夫・高止を北燕に追放しました。
乙未(初二日)、高止が斉を出ます。
高止は自分の功績が大きいと信じて専横が目立ったため、難を招きました。
 
[十六] 衛が献公を埋葬しました。
 
[十七] 冬、魯の仲孫羯(孟孝伯)が晋に入朝しました。
夏に士鞅が魯を聘問したことに対する答礼です。
 
[十八] 斉で高止が追放されたため、高豎(高止の子)が盧(高氏の食邑)で叛しました。
十月庚寅(二十七日)、閭丘嬰(東周霊王二十四年・前548年に魯に出奔しましたが、その後、斉に帰国したようです)が兵を率いて盧を包囲します。
高豎が言いました「高氏の後代を残すのなら、邑を返上します。」
斉は高傒(敬仲)の賢良を称えて、その子孫にあたる高(高偃)に高氏を継がせました
十一月乙卯(二十三日)、高豎が盧を返上して晋に出奔しました。
晋は緜上に城を築いて高竪を住ませました。
 
[十九] 鄭の伯有が子晳(公孫黒)を楚に派遣しようとしましたが、子晳は辞退してこう言いました「楚と鄭は関係が悪化しています。私を派遣するのは、私を殺すのと同じことです。」
伯有が言いました「あなたの家は代々使者を勤めています。」
子晳が言いました「行くべき時には行き、難があれば行きません。先代とは関係ないことです。」
それでも伯有が強制したため、子晳は怒って伯有氏を攻撃しようとしました。大夫達が両者の間に入って和睦させます。
 
十二月己巳(初七日)、鄭の大夫が伯有の家で盟を結びました。対立を解消するためです。
しかし裨諶(卑諶)がこう言いました「この盟は長続きしないでしょう。『詩(小雅・巧言)』にはこうあります『君子が頻繁に盟を結べば、乱を助長させることになる(君子屢盟,乱是用長)。』この盟は乱を長じさせる道であり、禍はまだ終わっていません。三年後にやっと解消できるはずです。」
然明が聞きました「政権はどこに移るのでしょうか。」
裨諶が言いました「善が不善に代わるのは天命です。政権が子産を避けることはありません。階級を越えて政権を握る者がいないとしたら、位階に則ることになります(位階の序列に則るなら、子産が政権を握る番です)善を選んで用いるとしたら、世に重んじられた者が政権を握ることになります(やはり子産しかいません)。天は(子産のために)障害を除き、伯有の魄(魂)を奪おうとしています(善い終わりを迎えることができない、という意味です)。また、子西は既に世を去りました(序列に則るとしたら、伯有の次は子西が政権を握るはずでしたが、既に死にました)(子産が)大任を避けることはできません。天が鄭に禍を降して久しくなります。子産によってそれを終息させれば、安定を取り戻すことができます。そうでなければ、鄭は滅亡するでしょう
 
 
 
次回に続きます。