春秋時代183 東周景王(五) 鄭の内争 前543年(2)

今回は東周景王二年の続きです。
 
[] 秋七月、魯の叔弓(子叔敬叔。叔老の子)が宋に行き、宋共姫を葬送しました
 
[] 鄭の伯有(良霄)は酒が好きだったため、窟室(地下室)を作って毎晩酒を飲み、鐘を演奏しました。酒盛りは翌朝まで続きます。
鄭の政権は伯有が握っていたため、朝廷に出仕した卿大夫は伯有の家に朝見するようになりました。しかし伯有は酒を飲んでおり、朝者(朝見に来た者)が伯有の家臣に「公はどこだ」と聞いても、家臣はいつも「我が公は壑谷(窟室)にいます」と答えるため、あきらめて帰るしかありませんでした。
 
ある日、久々に入朝した伯有が再び子晳に楚へ行くように命じました(前年参照)。朝会が終わって家に帰った伯有はまた酒を飲み始めます。
庚子(十一日)、子晳が駟氏の甲士を率いて伯有の家を襲い、火を放ちました。伯有は家臣に連れられて雍梁に奔ります。出奔後、酔いから醒めてからやっと状況を理解し、許に亡命しました。
 
大夫が集まって今後のことを相談しました。子皮が言いました「『仲虺の志(仲虺は商王朝・成湯の左相。『志』は典籍の意味)』にこうあります『乱れた者は取り、滅んだ者は軽視する。滅ぶべき者を滅ぼし、残るべき者を固めるのが、国の利である(乱者取之,亡者侮之。推亡固存,国之利也)。』罕氏(子皮)、駟氏(子晳)、豊氏(公孫段)は同じ生まれですが(三家の祖は鄭穆公の子で同母兄弟です)、伯有は(家系が異なるうえに)驕慢で奢侈でした。だから禍から逃れられなかったのです。」
 
ある人が子産に「(道理がある者。政治を疎かにした伯有には過失があり、それを討った子晳には道理があります)に就いて(強い勢力。駟氏等の三家)を助けるべきです」と勧めましたが、子産はこう言いました「彼等は私の徒(党)ですか?国の禍難がもうすぐ終わると誰にわかりますか?もしも主が彊直(強大で誠実)なら、難は生まれません子晳が本当に道理がある人物で、その家族が強盛なら、今回の乱は起きなかったはずです)。暫くは私の今の立場(中立)を守ります。」
 
辛丑(十二日)、子産が伯有氏の犠牲者の死体を集めて埋葬し、諸大夫と相談せず、鄭国を去りました。印段(子石)が子産に従います。
子皮が子産を止めようとすると、諸大夫が言いました「我々に従順ではない者を、なぜ留めるのですか。」
子皮が言いました「夫子(彼)は死者にも礼を行った。生者に対してならなおさらだろう。」
子産は引きとめられました。

以上は『春秋左氏伝(襄公三十年)』の記述です。『史記・鄭世家』はこう書いています。
この年、鄭の諸公子を争って殺しあいました、産も命を狙われます。しかしある公子が諫めて「子産は仁人だ。が存続できるのは子産がいるからだ。殺してはならない」と言ったため、子産は助かりました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
壬寅(十三日)、子産が鄭の都城に帰りました
癸卯(十四日)、殷段も帰りました。二人は子晳の家で盟を結んで協力を約束します。
乙巳(十六日)、鄭簡公と諸大夫が大宮(太廟)で盟を結び、師之梁(城門)の外で国人と盟を結びました。乱の収束が宣言されます。
 
ところが、亡命した伯有は鄭の人々が自分に対抗するために盟を結んだと知って激怒しました。
同時に子皮の甲士が伯有討伐に参加していないと聞いたため、喜んで言いました「子皮はわしに協力するつもりだ。」
 
癸丑(二十四日)朝、伯有が墓門(城門)の瀆(雨水等を流し出す孔)から都城に侵入し、馬師(官名)・羽頡の助けを得て、襄庫(倉庫)の武器や甲冑を自分の士卒に配りました。伯有の勢力が旧北門を攻撃します。
それを知った駟帯(子上。子西の子。子晳の宗主)が国人を率いて討伐しました。
 
駟氏と伯有の双方が子産を招きましたが、子産は「兄弟がこのようになってしまった。私は天が助ける者に従うだけだ」と言って、どちらにも附きませんでした。
結局、伯有は敗れて羊肆(羊を売る市)で死にました。子産は伯有の服を替え、死体に伏せて哀哭し、市で殺された伯有の臣も全て棺に納めて、斗城に埋葬しました。
子駟氏(駟氏)が子産を攻撃しようとしましたが、子皮が怒って言いました「礼は国の幹(基礎)だ。礼がある者を殺すことほど大きな禍はない。」
駟氏はあきらめました。
 
この時、游吉は使者として晋にいました。帰国の途中で難を知り、介(副使)だけに復命させます。
八月甲子(初六日)、游吉は晋に奔りました。
しかし駟帯が游吉を追い、酸棗に至りました。游吉は駟帯と盟を結び、黄河に二つの玉珪を沈めて協力し合うことを誓いました。
游吉に従っていた公孫肸(先に復命させた介かもしれません)が鄭に帰り、諸大夫と盟を結びました。
己巳(十一日)、游吉が帰国しました。
 
かつて子蟜(公孫蠆)が死んだ時(東周霊王十八年・前554年)、子羽(公孫揮)と裨竈が朝から子蟜の葬礼について相談しました。二人は伯有の家の前を通り、門の上に莠(狗尾草)が生えているのを見つけます。子羽が言いました「この莠は長くここに居続けることができないだろう。」
これは莠を伯有に喩えており、長く続かないことを意味しています。
当時、歳星木星降婁(奎婁。歳星が運行する軌道を十二分割したうちの一つ)に居り、朝、降婁が中天に位置して明るくなりました。周暦の八月に当たります。公孫蠆は四月に死にましたが、八月に埋葬されたようです。
裨竈が降婁を指して言いました「歳星がもう一周することはできるでしょう(歳星は約十二年で太陽を一周します)。しかし降婁まで来ることはできないはずです。」
伯有が殺された時、歳星は娵訾(歳星が運行する軌道の一つ。降婁の前)の出口におり、まだ降婁には達していませんでした。
 
大夫・僕展は伯有に従って死に、羽頡は晋に出奔して任大夫(任邑の大夫)になりました。
雞沢の会(東周霊王二年・前570年)で、鄭の楽成が楚に奔り、後に晋に移りました。羽頡は楽成を頼って趙武に仕えるようになり、鄭討伐を進言しましたが、宋の盟(弭兵の盟。停戦の約束)があるため実現しませんでした。
 
鄭では子皮が公孫鉏(子罕の子)を馬師に任命しました。羽頡の代わりです。
 
 
 
次回に続きます。