廟号

『中国歴代帝王世家年表』(斉魯書社・杜建民編)が中国古代帝王の廟号と諡号について解説しています。
以下、簡単に紹介します(完訳ではなく、部分的に添削しています)
今回は廟号です。
 
中国古代の帝王が死ぬと、子孫や公卿大臣が二種類の称号を贈りました。一つは廟号、一つは諡号です。
諡号は帝王の徳行や功業を評価したもので、多くは褒揚称賛の意味を持ちます。
廟号は先代の帝王が宗廟に入る時に贈られる名称です。
帝王が死ぬと、その子孫が皇族中の位置(世系)に基づいて、先君の神主(牌位。霊牌)を宗廟に入れました。こうすることで後世の膜拝(礼拝)・祭祀の対象となります。また、「某祖」「某宗」という名称を追尊(死者に贈ること)することで、死んだ帝王の地位を確認し、後世に対して明らかにしました。
後代から「某祖」「某宗」と追尊された名称を「廟号」といいます。
 
廟号は宗廟や祖先に対する祭祀と深い関係があります。
祖先に対する祭祀は、原始の祖先崇拝を元にしています。夏王朝から商王朝を経て周王朝になると、盛大な祭祀が行われるようになり、その制度も完成されたものになりました。元々、祖先崇拝から始まった祭祀ですが、祭祀を通して更に祖先崇拝の意識が強化されていきます。その結果、宗族による共同体を維持し、発展させるための精神的な支えが形成され、共同体内部を団結させる力が生み出されました。
祭祀の制度と祭祀の対象となる宗廟の設立は、家族を中心とする宗廟制度を守り、帝王・貴族による世襲統治を安定させる作用があったといえます。そのため、三代(夏・商・周王朝から明清にいたる歴代統治者は「家天下(帝王の家系が天下を治める世襲制度)」を守るという目的から、宗廟制度を大切にし、三、四千年もの間、継承させてきました。
 
中国は古くから宗廟と社稷(社は土地神。稷は五穀の神)を並列し、王室や国家の代称としてきました。王朝が交代する度に、新王朝がまず旧王朝の宗廟を取り壊したのは、旧王朝の滅亡を天下に示すためでした。西漢の賈誼が『過秦論』の中で「一夫作難,而七廟隳(一夫が難を成して七廟が潰される)」と言ったのは、宗廟の取り壊しが秦王朝の滅亡を意味したからです。
また、新王朝は旧王朝の宗廟と社稷を取り壊すのと同時に、自分の王朝の宗廟と社稷を建立する必要がありました。
宗廟と社稷は通常「左宗右社」といわれており、皇宮の前の左側に宗廟、右側に社稷が建てられました(この左右は皇宮から見ての左右です。皇宮の門は南を向いているので、皇宮から見た左は東、右は西になります)
例えば現在の北京故宮を見ると、左(東)前に北京市労働人民文化宮がありますが、ここは明清時代に宗廟が建てられていた場所です。右(西)前の中山公園は、明清時代には社稷壇が築かれていました。
 
宗廟は中国古代の天子、諸侯、卿大夫や秦漢以後の帝王が祖宗を祭った場所です。宗廟と祭祀には厳しい決まりがありました。
周朝より前、天子の宗廟は「五廟」と決められていました。清代の学者・焦循は『群経宮室図』の中で「五廟の制度は、虞()の時代から周代になるまで、天子から附庸(五爵の下。諸侯の属国)に至る全ての階級が同じだった」と書いています。
しかし周代になると「天子七廟,諸侯五廟,大夫(卿大夫)三廟,士一廟,庶人無廟祭于寝(庶人には廟がなく、室内で祖先を祭る)」という変化が現れました。これは『礼記・王制』に書かれています。
「五廟」というのは、父廟、祖廟、曾祖廟、高祖廟の「四親廟」と太祖廟の五つです。祖は祖父、高祖は曽祖父の父です。太祖廟は太廟ともいい、開国の君主や始めて封国された者を祀りました。
古代、「父」というのは生前の呼び方で、死後は「考」と称されたため(『礼記・曲礼』「生曰父,死曰考」)、四親廟も多くの場合に「考廟」「王考廟」「皇考廟」「顕考廟」とよばれました。
 
太祖廟は開国の君主や始めて封国された者が祀られているので、宗族の共通した始祖であり、歴代帝王や全ての宗室の謨拝・祭祀を受けました。しかし四親廟が祀っているのは在位中の君王から血縁関係が最も近い四代前までの先祖なので、代が重なったら太祖廟と四親廟の間にも先祖が存在することになります。その場合は、四親よりも遠い神主を太祖廟に入れて一緒に祭祀を行いました。このように太祖廟と四親廟の間に位置する先祖には独立した廟を設けず、あくまでも五つの廟を祭祀の対象にすることを「五廟の制」といいます。
 
周朝も初めは五廟の制度を行っていました。しかし西周中期になると、商王朝を滅ぼして周王朝を建国した文王と武王が四親から外れることになりました。周朝の太祖廟は太王・季を祀っています。四親から外れた文王と武王は王季の廟に入ることになります。これは周人にとって納得がいかないことでした。そこで「徳がある王は祖宗とし、その廟を取り壊す必要はない」という決まりを作りました。
こうして四親廟の上に文王と武王の廟が残されることになります。この二廟を「世室廟」といいます。
この後、更に代が重なって二世室と四親の間にも先祖が存在するようになると、それらの神主は二世室廟に入れられることになりました。これを「天子七廟の制」といいます。
秦漢以後の歴代皇帝も周朝の王(天子)に相当するので、周朝の「天子七廟の制」を踏襲しました。
 
七廟の配置にも厳格な決まりがありました。太祖廟は最北にあり、南を向いています。その前の両側に六廟が建てられます。左を昭輩廟、右を穆輩廟といいそれぞれ三廟になります。これを「左昭右穆」といいます(この左右も太祖廟から見ての左右なので、左は東、右は西になります)
例えば周の七廟はこうなります。
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宗廟で祀られる祖先には「神主」が作られます。木製の牌位のことで、帝王の廟号と諡号が書かれます。
例えば唐朝の皇帝・李淵の神主には「高祖大武皇帝」と書かれていたはずです。「高祖」は廟号、「大武」は諡号です(唐朝玄宗皇帝の時代になって「神堯大聖大光孝皇帝」に追尊されました)
同じく唐朝の皇帝・李世民は、神主に「太宗文皇帝」と書かれていたはずです。「太宗」は廟号、「文」は諡号です玄宗皇帝の時代に「文武大聖大広孝皇帝」に追尊されました)


それぞれの王朝において、開国の帝王の廟号は「祖」がつけられました。例えば漢高祖劉邦、唐高祖李淵後晋高祖(石敬瑭)や、宋太祖趙匡胤、明太祖朱元璋、清太祖(努爾哈赤/ヌルハチ等です。「祖」はその王朝において歴代帝王の祖であることを意味します。
開国の帝王を継承した歴代皇帝の廟号には「宗」が使われます。例えば唐高祖の後を継いだ皇帝の廟号には太宗李世民、高宗(李治)、中宗(李顕)、睿宗(李旦)玄宗(李隆基)等があります。宋太祖の後の廟号にも太宗(趙光義)、仁宗(趙禎)、英宗(趙曙)、神宗(趙頊)、哲宗(趙煦)等があります。

但し、一つの王朝に二つ、または三つの「祖」が存在するという特殊な場合もあります。
例えば元朝は鉄木真(テムジン。成吉思汗/ジンギスカンの廟号が太祖、後代の忽必烈フビライの廟号が世祖です。鉄木真は蒙古(モンゴル)帝国の創始者で、忽必烈は金と宋を滅ぼして中国を統一し、元朝を開いたからです。
また、明も太祖と成祖がいます。太祖は朱元璋で、明朝を建国しました。成祖は朱元璋の子・朱棣で、廟号の「祖」には靖難の変を平定して明を再建したという意味が込められています。
清朝では、女真諸部を統一して後金政権を樹立した努爾哈赤ヌルハチが太祖、入関(山海関を越えて中原に向けて南下すること)して中国の大部分の主となった福臨順治帝が世祖、三藩の乱を平定して中国を統一した玄燁康熙帝が聖祖と定められました。

廟号は商(殷)代から始まったといわれています。例えば商王・太甲は後嗣によって「太宗」と尊称され、その後も太戊は「中宗」、武丁は「高宗」と称されました。
商王朝から始まった廟号の制度は清朝が滅亡するまで延々と受け継がれました。



次回は諡号です。