春秋時代185 東周景王(七) 魯襄公の死 前542年(1)

今回から東周景王三年です。二回に分けます。
 
景王三年
542年 己未
 
[] 春正月、魯の叔孫豹(穆叔)が澶淵の会から還り、仲孫羯(孟孝伯)に会って言いました「趙孟(晋の趙武。趙文子)はもうすぐ死ぬでしょう。その言葉は偸(目先のことしか考えず、遠謀がないこと。目先の安逸に満足すること)であり、民の主には見えませんでした。また、年も五十に満たないのに、くどくて八九十歳の老人のようでした。長生きできるはずがありません。もしも趙孟が死んだら、政治を行うのは韓子(韓起。韓宣子)でしょう。韓子は君子といえます。吾子(あなた)はこのことを季孫季孫宿。季武子)に伝えて、早く善い関係を結ぶべきです。晋の国君はやがて政権を失います。事前に韓氏との関係を強化して魯のための備えとしなければなりません。韓子は懦弱で、大夫の多くは限りなく貪婪です(韓氏が諸大夫の貪婪を抑えることはできません)。晋の政権が大夫の手に渡ったら、斉も楚も頼りにならないので、魯に禍が訪れることになります(斉も楚も頼りにならないため、魯は晋に服従しなければなりません。しかし晋の政権が大夫に渡ったら、貪欲な諸大夫が様々な要求をしてくるので、魯の負担が大きくなります。今のうちに韓氏と関係を結んで、協力を求めるべきです)。」
しかし仲孫羯はこう言いました「人生ははかないものだ。誰もが偸を棄てることはできない。朝起きた時に、その日の夕(夜)まで生きられないことを恐れるものだ。(韓氏と)関係を樹立する必要はない。」
叔孫豹は退出してから知人にこう言いました「孟孫仲孫羯)ももうすぐ死ぬだろう。私は趙孟の偸について語ったが、孟孫はそれよりひどい。」
叔孫豹は直接、季孫宿に話をしましたが、季孫宿も意見を聞きませんでした。
 
後に趙武が死んでから(翌年)、晋の公室はますます権力を失い、政権は豪奢な大夫の家に移っていきました。韓起が政権の中枢に立ちましたが、諸大夫を抑えることができず、魯は晋の大夫による要求に苦しみます。また、讒慝(讒言や姦悪を好む小人)も増えたため、晋と諸侯の間で平丘の会(東周景王十六年・前529年)を開くことになりました。貢賦の軽重について取り決めがされます。
 
[] 斉の子尾が閭丘嬰に害されることを恐れて、先に殺そうとしました。二人がなぜ対立していたのかはよく分かりません。
子尾は閭丘嬰に魯の陽州(廬邑)攻撃を命じました。魯は兵を出して斉の出兵の理由を問い正します。
 
夏五月、子尾は出兵の責任を閭丘嬰に着せて処刑しました。
工僂灑(工僂が氏)、渻竈(または「省竃」)、孔虺、賈寅(四人とも閭丘嬰の党)が莒に出奔します。
この事件を機に子尾は諸公子(子山・子商・子周等)を放逐しました。放逐された諸公子も閭丘嬰と親しかったと思われます。閭丘嬰は子尾に匹敵する派閥、または勢力を擁していたのかもしれません。
 
[] 魯襄公が楚宮を築きました。楚を朝見した時に王宮を観て模造したくなったようです。
叔孫豹(穆叔)が言いました「『大誓尚書・泰誓)』にこうある『民が欲するところに、天は必ず従う(民之所欲,天必従之)。』主君は楚を欲したから楚宮を築いた。もし再び楚に行かないようなら、この宮で死ぬことになるだろう。」
 
六月辛巳(二十八日)、襄公が楚宮で死にました。在位年数は三十一年です。
 
叔仲帯が喪中のどさくさにまぎれて襄公の拱璧(大璧)を盗み、御人の懐に隠しました。暫くして御人から拱璧を受け取ります。
この事件を知った魯人は叔仲帯とその子孫を軽視するようになりました。
 
魯は胡女(胡は帰姓の国)・敬帰(襄公の妾)が産んだ子野を即位させようとし、季氏の家に住ませました。しかし子野は過度な哀痛のため、身体を壊します。
秋九月癸巳(十一日)、子野が死にました。
 
己亥(十七日)、魯の仲孫羯(孟孝伯)が死にました。
 
魯は敬帰の妹・斉帰が産んだ公子・裯(または「稠」)を即位させようとしましたが、叔孫豹が反対して言いました「太子が死んだ場合、同母弟がいたらそれを立て、いなければ年長者を立て、年が同じなら賢才を選び、義(才能・徳)が同じなら卜を行うのが、古の道です。(子野は)適嗣(嫡子。太子)ではないのに、なぜ母の姉の子を立てなければならないのですか。そもそも公子・裯は喪に服しても悲しまず、慼(憂。父母が死んだ時の哀しみ)にありながら嘉容(喜色)を表しています。不度(不孝)の者は憂患をもたらします。もし彼を立てたら、季氏の憂いになるでしょう。」
しかし季孫宿は公子・裯を国君に立てました。これを昭公といいます。
 
襄公の葬儀が始まってから、昭公は三回も衰(喪服)を着替えました。昭公が子供のように遊んでおり、新しい衰衽(喪服の襟)もすぐ古い衰のように汚れてしまったからです。
この時、昭公は既に十九歳でしたが、童心を持っているようでした
君子(知識人)は昭公が善い終わりを迎えることができないと判断しました。
 
[] 冬十月、滕成公が魯襄公の葬礼に参加しました。行動は不敬でしたが、涙を多く流します。
孟椒(子服恵伯)が言いました「滕君は間もなく死ぬだろう。不敬なのに涙が多すぎる。死所(葬礼の場)(不祥な)兆しを見せたのだから、(襄公に)従わなければならない。」
 
[] 癸酉(二十一日)、魯が襄公を埋葬しました。
 
[] 魯襄公が死んだ月、鄭の子産が鄭簡公に従って晋に朝見しました。しかし晋平公は魯襄公の喪を理由に会おうとしません。すると、子産が人を送って賓館の壁を破壊し、車馬を入れました。
士伯瑕(士士文伯)が子産を譴責して言いました「敝邑(晋国)は政刑が徹底できていないため、寇盗が横行しており、諸侯の属官が寡君(晋君)を朝見するのに不便でした。だから吏人に命じて賓客の館舎を完備させ、閈閎(門)を高くし、牆垣(壁)を厚くして、賓客の心配を除いたのです。しかし今、吾子(あなた)はそれを破壊してしまいました。貴国の従者には警備があるようですが、異客(他国の客)が来た時はどうするつもりですか。敝邑は盟主なので壁を修築して賓客を受け入れなければなりません。それを破壊したら賓客の求めに応えることができなくなります。寡君は壁を壊した意図を確認するために、士伯瑕を派遣しました。」
子産が答えました「敝邑は小さく、大国に挟まれており、頻繁に貢品を要求されています。そのため、安寧な生活に満足しようとはせず、敝邑の賦(財)をなるべく多く徴収して、いつでも朝見できるようにしています。ところが今回、執事(晋の執政者。平公と趙武)に暇がないため朝見することができず、命も与えられていないため、朝見がいつになるかもわかりません。幣(貢物)(晋の府庫に)送ることもできず、だからといって日夜晒しておくこともできない状態です。幣を送るとしたら、それは貴君の府に入るものなので、まず朝廷に陳列しなければなりません(貢物を献上する際、朝廷に並べる儀式が必要でした。これを「庭実」といいます)。日夜外に晒しておいたら、乾燥や湿気によって朽蠹(腐朽したり虫に喰われること)する恐れがあり、敝邑の罪を重くすることになります。僑(子産の名)は、文公(晋文公。諸侯の覇者)が盟主だった時には宮室(宮殿)を低くし、台榭(高台)を造らず、諸侯の館を大きくしたと聞いています。当時の賓館は今の公寝(晋君の公宮)に等しく、庫厩(幣物を保管する倉庫と車馬を置く厩舎)が修築され、司空は適時に道路を平にし(修理し)、圬人(泥工)は適時に賓館の壁を塗り、諸侯が来たら甸人(官名)が庭燎(庭の明かり)を点し、僕人が巡視し、車馬を置く場所があり、賓客の従者に代わって働く者が準備され、巾車(車を管理する官)が車に油を塗り(潤滑と光沢のためです)、隸人(隷僕。掃除等を担当しました)・牧圉(牛・馬を養う者)がそれぞれの任務を行い、百官が各自の礼物を並べて賓客をもてなしました。文公は賓客を留めず、廃事(必要ない事)も行わず(賓客の時間を無駄にしないために迅速な対応を心がけ)、憂楽を共にし、事があれば慰撫し、賓客が知らないことは教え、不足していることを考慮したため、賓客は自分の家に帰ったように安心できました。寇盗を恐れる必要も、幣物が乾燥や湿気で痛むことを心配する必要もなかったのです。しかし今は、銅鞮の宮(晋の離宮が数里に渡るのに、諸侯の館舍は隸人のものに等しく、門は車を通せず、壁を越えて入ることもできません(門が小さく壁が高いためです)。それでも盗賊が横行し、夭厲(伝染病)も防げないのに、朝見の時は決まらず、命も与えられません。もしも壁を壊さなかったら、幣物を保管する場所もなく、逆に敝邑の罪が重くなります。改めて執事に命をお聞きします。貴君には魯の喪がありますが、それは敝邑にとっても憂いです(同姓の鄭も魯の喪に服さなければなりません。晋だけのことではないので、朝見を受けることができない理由にはなりません)。もし幣物を送ることができるのなら(朝見して命を聴くことができるのなら)、我々は壁を直してから帰国します。貴君の恩恵があれば、勤労を厭うことはありません。」
士伯瑕が帰って報告すると、趙武は「彼の言う通りだ。確かに私が不徳だった。隸人の館舎で諸侯を受け入れるとは、私の罪だ」と言い、再び士伯瑕を送って不明を謝罪しました
 
晋平公は鄭簡公を接見し、礼を加えて盛大な宴を開きました。厚い礼物が簡公に贈られます。
その後、諸侯の館舎が修築されました。
叔向が言いました「辞(言葉)とは重要なものだ。子産の辞によって諸侯が利を得ることになった。『詩(大雅・板)』にはこうある『言葉が和していれば民が協調し、言葉に理があれば民は安定する(辞之輯矣,民之協矣。辞之繹矣,民之莫矣)。』子産はこれを理解しているのだろう。」
 
[] 鄭の子皮が印段を楚に派遣し、晋に入朝したことを報告しました。宋の盟(弭兵の盟)で晋・楚両国への朝見・聘問が義務付けられたためです。
 
[] 莒の犁比公(密州)は去疾(母は斉人)と展輿(母は呉人)を産み、展輿を太子に立てましたが、暫くして廃しました。
犁比公は暴虐だったため、国人に疎まれています。
 
十一月、展輿が国人と共に犁比公を攻めて殺し、自ら国君に立ちました
去疾は母が斉人だったため、斉に出奔しました。
 
[] 呉が屈狐庸(巫臣の子)を晋に聘問させました。両国の往来を密にするためです。
趙武が屈狐庸に問いました「延州来季子(季札。延は延陵の略。季札は延陵に封じられ、後に州来が加封されたため、延州来といいます)が即位することになるだろうか。巣で諸樊が倒され(東周霊王二十四年・前548年)、閽が戴呉(餘祭)を殺した(東周景王元年・前544年)。これは天が季札に道を開いたのではないか?」
屈狐庸が答えました「季子が立つことはありません。二王の死は命(天命)によるものであり、季子のために道が開かれたのではありません。もしも天が道を開いたのなら、それは今の嗣君(夷末)のためです。嗣君は徳と度をもっています。徳があれば民を失わず、度があれば事を失いません。民は国君に親しんでおり、その行動には秩序があります。これは天がもたらしたことです。最後まで呉国の主を継承するのは、今の国君の子孫でしょう。季子は節を守るので、国を有したとしても立つことはありません。」
 
 
 
次回に続きます。