西周時代 『尚書・周官』
西周成王が親政を開始し、官制を整理しました。
この時、官員のあり方を明確にした『周官』が書かれました。『尚書』に収録されています。
以下、意訳します。
西周成王は殷命(商王朝の命運)を廃し(商王朝の遺民を平定し)、淮夷を滅ぼして万邦を占有してから、侯甸(各国諸侯)を視察し、朝見しない諸侯を四征し、兆民(万民)を安定させました。六服群辟(六服は侯服・甸服・男服・采服・衛服・蛮服を指し、全国を意味します。群辟の辟は君主・諸侯です)が全て周の徳を奉じて宗周に帰順します。
そこで成王は豊(文王廟の所在地)に還ってから官員を整理して『周官』を作りました。
成王が宣言しました「こうして乱を治めることができたので、昔の大猷(大道。大法)に則って政教を設け、危険が存在しない今、邦(国)を安定させることにした。
唐虞は古を考察して百の官を設け、内には百揆(官名。周代の冢宰)・四岳(四方の長)を置き、外には州牧(官名。地方の軍制の長官)・侯伯(諸侯の長)を置いた。その結果、庶政(各種の政務)が順和し、万国が安寧になった。夏と商の官はその倍になったが、能力によって事を治めることができた。明王が政(長官)を置き、官員の数ではなく官に就く人の能力を重視した。
今、予小子(成王の自称)は恭しく徳に勤め、早晩怠ることないが、それでも古人に及ばない。そこで、前代の法に則って官制の設立について述べることにする。
太師、太傅、太保を設けてこれを三公とする。三公は道を論じ、邦(国)を治め、陰陽を調和する。三公の官を必ず置く必要はなく、相応しい人材がいたら設けることにする。
少師、少傅、少保を設けて三孤とする。三公を助けて教化を拡め、恭しく天地を信じて予一人(天子の自称)を補佐する。
冢宰は邦治(国の政治)を掌管し、百官を統率し、四海を平均にする。
司徒は邦教(国の教育)を掌管し、五典(五教。父義・母慈・兄友・弟恭・子孝)を拡め、兆民を安定させる。
宗伯は邦礼(国の礼)を掌管し、神人を治め、上下を和させる。
司馬は邦政(国の政治。ここでは軍政)を掌管し、六師(六軍。王は六軍を擁しました。諸侯の大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍を擁します。一軍は一万二千五百人です)、邦国に和をもたらす。
司寇は邦禁(国の禁制、刑法)を掌管し、姦慝(不正)を追求し、暴乱(凶悪な徒)を刑に処す。
以上の六卿(冢宰・司徒・宗伯・司馬・司寇・司空)は職責を分け、それぞれの属官を率いて九牧(九州各地の長)を導き、兆民に富裕と安定をもたらす。
五服(侯服・甸服・男服・采服・衛服)は六年に一回朝会し、更に六年経ったら(十二年に一回)、王が時巡(四時の巡視。四時は四季の意味。春東、夏南、秋西、冬北)して、四岳(東岳・泰山、南岳・衡山、西岳・華山、北岳・恒山)で礼法を考察する。その際、諸侯は各地の大岳で朝見し、黜陟(百官の昇降)を明らかにする。
我が有官君子(大小の官員)よ、謹んで職責を全うせよ。政令は慎重に出し、一度政令を発したら必ず行い、背いてはならない。公(公の心)によって私(私心)を無くしたら、民は政治に心服するだろう。古を学んでから官に就き、古制に基づいて政治を議論せよ。そうすれば政治が混乱することはない。典常(旧法)を師とし、利口(巧みな口才)によって官員を混乱させてはならない。疑いが溜まれば謀(策謀・政策)が失敗し、怠忽(怠慢)は政治を荒廃させる。学ばないというのは、壁に向かって何も見ないのと同じであり、事に臨んだら煩乱(苦悩。困難)を招くことになる。
汝等卿士に告げる。功が高いかどうかは志による。業が広いかどうかは勤(勤勉かどうか)による。果断であれば後艱(後難)を招かない(決断力があれば後患を招かない)。位が高くても驕らず、禄が多くても奢侈になってはならない。恭倹とは美徳である。偽(詐術)を労してはならない。徳を行えば心が休まり日に日に美を表すことができる。偽は心を苦しめ、日に日に拙(愚か)にする。寵(高貴)な地位にいる時こそ危険を思え。畏れを必要としないものはない。畏れを知らなければ畏れ(危険・苦境)に入ることになる。
賢人を推挙し、能力がある者に道を譲れ。そうすれば庶官(百官)が和すであろう。庶官が和さなければ政治が雑乱とすることになる。官を任せられる者を抜擢できるかは、汝の能力しだいだ。相応しくない人材を挙げるのは、汝に職を全うする能力が無いからだ。
三事(三卿。または任人・準夫・牧作の三事の官。任人は人材登用。準夫は準人ともいい獄官。牧作は地方の民事)および諸大夫は汝の官職を謹んで行い、汝の政を治め、汝の辟(主君)を補佐して兆民を永康にさせよ。そうすれば万邦に廃されることはない。」