春秋時代186 東周景王(八) 子産の政治 前542年(2)

今回は東周景王三年の続きです。
 
[] 十二月、衛襄公が楚に入朝しました。北宮佗(文子)が相(補佐)を勤めます。宋の盟(弭兵の盟)に則った朝見です。
襄公が鄭を通った時、鄭の印段が棐林で慰労し、聘問で用いる礼と同等の礼で慰問の辞を述べました。
答礼として、北宮佗が鄭都に入って簡公を聘問しました。鄭では子羽が行人(賓客を対応する役)になり、馮簡子と子太叔が北宮佗を迎え入れます。
聘問が終わって戻った北宮佗が衛襄公に言いました「鄭には礼があり、数代の福となるでしょう。大国の討(攻撃)を受けることはないはずです。『詩(大雅・桑柔)』にはこうあります『炎天の日に、誰が体を洗わずにいられるのか(誰能執熱,逝不以濯)。』政治における礼とは、暑い日に水を浴びて体を洗うようなものです。夏の水浴びは体の熱を冷まして爽快にさせます。礼があれば心配することはありません。」
 
鄭では子産が政治を行ってから、能力がある者を抜擢して官を与えてきました。
馮簡子は大事を決断する力があり、子太叔は外貌や挙止が美しくて文才があり、公孫揮は四国(諸国)政令をよく知り、大夫の族姓(姓氏)・班位爵位官職)・貴賎(序列)・能否(能力)を把握し、言辞にも優れていました。裨諶は謀を善くしましたが、野(城外)では策を立てることができるのに、邑(城内。街の中)ではうまくいきませんでした。
鄭国に諸侯の事(外交の政務)があると、子産はまず子羽に諸侯の状況を聞き、外交の文書を書かせます。次に裨諶と車に乗って野に出て、その内容の是非を確認し、馮簡子に伝えて決断させました。全て完成してから子太叔に渡して実行させ、賓客の対応を任せます。その結果、外交上の失敗はほとんどありませんでした。これが北宮佗が評価した鄭国の礼です。
 
[十一] 鄭人はしばしば郷(諸侯が国内に建てた学校。または郷の学校)に集まって遊び、国の政治について議論しました。中には政府を非難する意見も会ったため、然明が子産に言いました「郷校を取り毀したらどうでしょうか。」
子産が言いました「何のためにだ?人々は朝夕やるべきことを終えたら郷校に行って遊び、執政の良否を議論している。善は我々が実行し、悪は我々が改めなければならない。あの場所は我々の師である。なぜ取り壊す必要があるのだ。善に対して忠実な態度で臨み、怨みを減らすというのは聞いたことがあるが、威によって怨みを防ぐというのは聞いたことがない。威で議論を止めるというのは、川を塞ぐようなものである。川が大きく決壊したら、それだけ多くの人を傷つけ、我々では救うことができなくなる。少しずつ水を流して道を作った方がよく、人々の意見を聞いて自分の薬にした方がいいのだ。」
然明が言いました「蔑(然明は字で、氏名を鬷蔑といいます)は今やっと吾子(あなた)が大事を成せると確信できました。小人(私)はまったく不才です。もしもそのように(子産が言うように)できたら、二三の臣だけではなく、鄭国の利となるでしょう。」
 
[十二] 鄭の子皮が属臣の尹何を邑宰に任命しようとしました。子産が「まだ若いので、うまくできるか不安です」と言うと、子皮はこう答えました「彼は勤勉善良なので、私は彼を気に入っている。私を裏切ることはないはずだ。また、彼を任命して学ばせれば、政治を知ることができるだろう。」
すると子産が言いました「いけません。人が誰かを気に入ったら、その人に利をもたらそうと考えるものです(しかし尹何を用いたら、尹何に利はありません)。今、吾子(あなた)は気に入った人に政治を任せようとしていますが、それは刀を使えない人に家畜をさばかせるようなものであり、彼に多くの傷を負わせることになります。子(あなた)が彼を気に入ったとしても、彼を傷つけるだけです。そうなったら、誰が子に気に入られようとするでしょうか。子は鄭国の棟梁です。棟梁が折れたら榱(屋根を支える横木)が崩れ、僑(子産)もつぶされることになります。だから敢えて言わせていただきます。子には美錦がありますが、縫工(裁縫の職人)ではない人を学ばせるために美錦を裁縫させますか。大官(邑宰)や大邑は身を守るものにあります。そのように大切なものを人に学ばせるために使おうとしていますが、美錦とは較べものにならないでしょう。学んでから政治を行うとは聞いたことがありますが、政治を利用して学ばせるとは聞いたことがありません。もしも彼に任せたら、必ず害が起きます。それは田猟(狩猟)と同じです。射術と御術に通じた者は獲物を得ることができますが、車に乗って矢を射たことがない者は、車が横転することを恐れて狩りどころではありません。」
子皮が言いました「虎(子皮の名。罕虎が不敏(聡明ではないこと)であった。君子は大きいものや遠いものを知ろうとし、小人は小さいものや近いものを知ろうとすると言う。私は小人だ。衣服は身に着けるものなので、私はそれらに対して慎重にしてきた(身近で分かりやすい物は贅沢をしなかった)。しかし、大官や大邑は我が身を守るものなのに、それらを遠ざけ、疎かにしていた。子の言がなかったら、私はそれを知ることがなかっただろう。かつて私は『子が鄭国を治めるべきだ。私は我が家を治めて自分を守れば、それで充分だ』と言った。しかし今、それでも不足していると知った。今後は我が家の事でも、子の意見を聴くことにしよう。」
子産が言いました「人の心が同じではないのは、顔がそれぞれ異なるのと同じです。子の顔を私の顔と同じようにしろとは言えません(やり方は人によって異なって当然です)。ただ、心から危険を感じたので、敢えて伝えただけです。」
子皮は子産の忠心を改めて確認したため、全ての政治を委ねました。
 
[十三] 衛襄公が楚に入りました。
北宮佗が令尹・囲の儀容を見てから襄公に言いました「令尹は国君のようでした。他志を抱いているはずです。恐らくその志を得ることができますが、善い終わりを迎えることはできません。『詩(大雅・蕩)』にはこうあります『全てに初めがあるが、善い終わりを迎えるのは珍しい(靡不有初,鮮克有終)。』善い終わりとは得難いものです。令尹は禍から逃れることができません。」
襄公が「なぜそれが分かるのだ?」と聞くと、北宮佗が答えました「『詩(大雅・抑)』にはこういう句もあります『恭敬かつ慎重に威儀を用いれば、それが民の準則となる(敬慎威儀,惟民之則)。』令尹には威儀がないので、民にも準則がありません。民が模範とするべきではないのに、その人が民の上にいたら、終わりを善くすることはできません。」
襄公が威儀とは何か問うと、北宮佗が答えました「威(威厳)があって人を畏れさせることができるものを威といいます。儀(儀表)があって模範となるものを儀といいます。国君に国君の威儀があれば、その臣は恐れを抱くのと同時に国君を愛し、自分の模範とします。だから国君は国家を治めて子孫代々名声を伝えることができるのです。臣に臣の威儀があれば、その下の者は恐れを抱くのと同時に上官を愛します。だからその官職を守り、一族を保って家を安定させることができるのです。下の者達もそれぞれの立場で皆、威儀を守れば、上下が互いにその立場を固めることができます。『衛詩(邶風・柏舟)』にはこうあります『寛容文雅な威儀がそろい、数えることはできない(威儀棣棣,不可選也)。』これは君臣、上下、父子、兄弟、内外、大小の間に全て威儀が存在することを言っています。『周詩(大雅・既酔)』にはこうあります『朋友が威儀を用いて助けあう(朋友攸攝,攝以威儀)。』これは友人の間でも必ず威儀を用いて互いに教え合わなければならないと言っています。『周書尚書・武成)』には文王の徳を数えてこうあります『大国はその力を恐れ、小国はその徳に服従する(大国畏其力,小国懐其徳)。』これは恐れながら愛すことを言っています。『詩(大雅・皇矣)』にはこうあります『知らず知らずに、帝(天帝)の準則に従っている(不識不知,順帝之則)。』これは準則が生まれてそれに従うことを描いています。紂商王朝最後の王)は文王を七年間幽閉しました。すると諸侯が皆、文王に倣って囚人となり、紂は恐れを抱いて文王を釈放しました。これは文王に対する愛を表しています。文王は崇国を討伐し、二度の出兵で崇を降して臣にしました。それに続いて蛮夷が帰順します。これは文王に対する畏れを表しています。文王の功は歌舞となって天下に伝えられました。これは則(準則)を意味します。文王の行いは今でも模範として真似されています。これは象(模倣すること)といいます。これらは全て威儀があったからです。だから君子はその地位にいて人を畏れさせ、施舍して人に愛され、その進退は度(法度・準則)となり、周旋(行動・対応)は則(準則)となり、容止(容貌・挙止)は人に観られ、事を行えば法(法度)となり、徳行は象(模倣の対象)となり、声気は人を楽しませ、動作は文(修養・模範)となり、言語には章(筋道)があり、それらによって下の者に臨むのです。これを威儀がある態度というのです。」
 
[十四] 『資治通鑑前編』によると、この年、魯で仲由子路が産まれました。後に孔子の弟子となる人物です。
史記・仲尼弟子列伝』には「仲由、字は子路。卞人。孔子よりも九歳年下」とあります。

[十五] 『史記』の『楚世家』と『十二諸侯年表』はこの年、楚郟敖が康王郟敖の父)の弟にあたる公子・囲を令尹にして兵事を主事させたと書いています。康王には、子比、子晳、弃疾という弟がいました。 



次回に続きます。