春秋時代187 東周景王(九) 虢の会 前541年(1)

今回から東周景王四年です。六回に分けます。
 
景王四年
541年 庚申
 
[] 春正月、魯昭公が即位しました。
 
[] 楚の令尹である公子(王子)・囲が鄭を聘問し、公孫段氏と婚姻をすることになりました。伍挙が介(副使)を勤めます。
公子・囲一行が鄭城内の賓館に入ろうとしましたが、鄭人は楚の姦計を警戒したため、行人(賓客の対応をする官)・子羽(公孫揮)を派遣して婉曲に説得し、城外に宿営させました。
聘礼が終わると、公子・囲は再び軍を率いて新婦を迎えようとします。
鄭の子産は楚の動きを心配して再び子羽を送り、こう伝えました「敝邑(鄭)は小さいので、(公子・囲の)従者(実際は兵団)を入れることができません。墠で命を聴くことをお許しください。」
墠というのは地をならして造った祭祀の場所です。古代の婚姻では、婿は新婦の実家の祖廟に行って新婦を迎えることになっていました。しかし公子・囲を城内に入れたくないため、城外に祭壇を作り、公孫段の祖廟の代わりにしようとしました。
公子・囲は大宰(太宰)・伯州犁を送ってこう答えました「貴君は寡大夫(寡君の大夫。公子・囲)に恩恵を与え、豊氏(公孫段)と婚姻させました。そこで囲(公子・囲)は几筵(座席。宴席。ここでは儀式の場)を設けて荘王と共王(荘王の子。公子・囲の父)の廟に報告してから、新婦を迎えに来ました。もしも野(場外)で恩恵を受け入れたら、鄭君の恩恵を草莽(草が生い茂った場所)に棄てることになり、寡大夫が諸卿に列することもできなくなります(諸侯の卿が受ける礼ではありません)。それだけでなく、(正式な婚姻ができなければ)囲に先君を偽らせ(宗廟への報告が嘘になります)、寡君(楚君)の老(大臣。重臣にもなれなくしてしまいます。これでは帰国して復命することもできません。大夫はよくお考えください。」
子羽が言いました「小国に罪がないとしても、実(大国)に頼って備えをしなかったら、それが罪になります。小国が大国に頼って安靖を得ようとしているのに、大国が禍心(人に禍を与えようとする心)を持って小国を謀ろうとするのですか。小国が(楚の)頼りを失ったら(大国に襲われたら)、諸侯が(楚に)警戒し、怨みを持たない者はいなくなります。そうなったら諸侯は(楚の)君命に逆らい、君命が行き届かなくなるでしょう。我々はそれを恐れるのです。そうでなければ、敝邑は貴国の賓館に等しいので、豊氏の祖廟を惜しむことはありません(入国を拒むことはありません)。」
伍挙は鄭に備えがあると判断し、櫜(武器を入れる袋)を逆さにして鄭城に入ることを請いました。櫜を逆さにするというのは、武器を持っていない、戦うつもりがないという意志を表します。
鄭は公子・囲の入城を許可しました。
 
乙未(十五日)、公子・囲が入城し、豊氏の祖廟で新婦を迎えて城を出ました。
 
その後、晋の趙武、楚の公子・囲、斉の国弱(または「国酌」)、魯の叔孫豹、宋の向戌、衛の斉悪、陳の公子招、蔡の公孫帰生、鄭の罕虎(または「軒虎」。子皮)および許人、曹人が虢(郭)で会しました。宋の盟(弭兵の盟。東周霊王二十六年・前546年)を確認するためです。
 
晋の祁午(祁奚の子)が趙武(趙文子)に言いました「宋の盟では楚人が晋に対して志を得ました(晋の先に歃血の儀式を行いました)。今、令尹(公子・囲)の不信は諸侯が知っていることです。警戒しなければまた宋の盟と同じようになります。子木(宋の盟に参加した楚の令尹)の信は諸侯に称賛されていましたが、それでも晋を騙して(服の下に甲冑を着て会に参加したことを指します)凌駕したのです。不信な者なら、なおさら危険です。楚が再び晋に対して志を得たら、晋の恥となります。子(あなた)が晋国の相として盟主になってから、既に七年が経ちました(趙武の執政が始まってから七年になります)。その間に二回諸侯を集め(東周霊王二十四年・前548年の夷儀と翌年の澶淵)、三回大夫を集め(東周霊王二十六年・前546年の宋。景王二年・前543年の澶淵。本年の虢)、斉や狄を服従させて東夏(東方諸国)を安定させ(東周霊王二十七年・前545年、斉と白狄が晋に入朝しました)、秦の乱を収め(秦との対立を解消したという意味です。東周霊王二十五年・前547年参照)、淳于に築城しました(杞国のための築城です。東周景王元年・前544年参照)。しかし師徒(車兵と歩兵。軍隊)を損なうことも国家を疲弊させることもなく、民には誹謗がなく、諸侯には怨みが無く、天も大災を降していません。これは子の力によるものです。私は子が令名(美名)を持ちながら最後は恥で終わるのではないかと心配しています。吾子(あなた)は警戒しなければなりません。」
趙武はこう答えました「ありがたく言葉を受け入れます。しかし宋の盟では子木に禍人の心があり、武(私)には仁人の心がありました。これが楚が晋を凌駕できた理由です。今も武の心は同じです。楚が再び僭(不信)を行ったとしても、我々を害すことはできません。私は信を根本とし、それに基づいて行動したいと思っています。農夫に喩えるなら、ただ心を尽くして雑草を除き、苗を植えれば、たとえ飢饉があったとしても、必ず最後は豊年(豊作)になります。信を守ることができれば人の下になることはないと言いますが、私はまだ信を守ることができていません。『詩(大雅・抑)』にはこうあります『信を守り人を害さなければ、人々の模範になれないはずがない(不僭不賊,鮮不為則)。』信を守る人というのは、他者の模範になるものであり、人の下になることはありません。私はそれができないことを難(憂い)としています。楚は私にとって患憂にはなりません。」
 
楚の令尹・囲は諸侯が改めて盟を結ぶ時、旧書(宋の盟)を宣読してから犠牲の上に置くだけですませるように提案しました。晋が先に歃血をするのを恐れたためです。晋が同意したため、歃血の儀式は行わないことになりました。
 
三月甲辰(二十五日)、盟が結ばれました。宋の盟約が改めて確認されたため、この会を「第三次弭兵の会」とよぶこともあります。
 
会盟の際、楚の公子・囲が国君の服飾・器物を並べ、二人の衛兵を傍におきました。
それを見た魯の叔孫豹(穆子)が言いました「楚の公子は素晴らしい(美矣)。国君のようだ(公子・囲を暗に批判しています)。」
鄭の子皮が言いました「戈を持った二人の衛兵が彼の前にいる(国君が即位する時の配置です。公子・囲を暗に批判しています)。」
蔡の子家が言いました「蒲宮(楚の離宮。本来は楚王の宮殿ですが、公子・囲が住んでいたようです)には初めから二人の衛士がいる。おかしなことではない(実際は公子・囲が蒲宮に住んでいることを公言して、暗に批判しています)。」
楚の伯州犁が弁解して言いました「これらのものは、今回、国を出た時に寡君(楚王・郟敖)から借りてきたのだ。」
鄭の子羽が批判して言いました「借りても返さないだろう。」
伯州犁が言いました「子(あなた)は子晳が背こうとしていることを心配するべきだ(鄭が楚の事を心配する必要はない)。」
子羽が言いました「本物の璧(楚王。または後に楚平王となる弃疾)がまだいるのに、借りたものを返さなくて、あなたは心配ではないのか?」
斉の国弱(国子)が言いました「私は二子が心配だ。」
この二子は楚の王子・囲と伯州犁を指すという説と、楚の伯州犁と鄭の子羽を指すという説があります。
陳の公子・招が言いました「危険を憂慮することなく事を成せるはずがない。今の二子(ここは王子・囲と伯州犁です)は楽しんでいる(二人は危険を考慮せず、現状を楽しんでいる。事は成功しない)。」
衛の斉悪(斉子)が言いました「事前に知っていれば、禍があっても害されることはない。」
宋の合左師・向戌が言いました「大国が令を発したら小国はそれに仕えるだけだ。我々は恭敬を知るだけでいい(敢えて楚を批判する必要はない)。」
晋の楽王鮒(楽桓子)が言いました「『小旻詩経・小雅)』の最後の一章は素晴らしい。私はそれに従おう。」
『小旻』の最後は冒険をせず慎重に生きるという内容で、楽王鮒は諸侯の議論に加わらず、自分の道を進むことを表明しました。
 
会が終わってから、子羽が子皮に言いました「叔孫は適切かつ婉曲で、宋左師は簡潔で礼があり、楽王鮒は自愛して恭敬で、子(あなた)と子家(蔡の公孫帰生)は非難しながらも反発を買うようなものではありませんでした。皆、代々家を保つことができるでしょう。斉、衛、陳の大夫は禍から逃れることができないはずです。国子は人の憂いを自分の憂いとし、子招は憂いを楽しみとし、斉子は憂いを害としませんでした。自分の身に憂いがないのに憂いたり、憂いがあるのに楽しみに変えたり(陳の公子・招は楚の二子が楽しんでいると言ったので、公子・招自身が憂いを楽しみに変えたのではありません。子羽の曲解です)、憂いがあっても害と考えないのは、憂いを招く道です。『大誓尚書・泰誓)』にはこうあります『民が望むところに天は必ず従う(民之所欲,天必従之)。』三大夫には憂いの兆しがあるので、禍を避けることはできません。言によって物(事象)を知ると言いますが、まさにこの事でしょう。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公元年)』の記述です。『国語・魯語下』には少し異なる話が書かれています。
虢の会で楚の公子・囲が二人の部下に戈を持たせて前を歩かせました。蔡の公孫帰生(子家)と鄭の罕虎(子皮)が魯の叔孫穆子(叔孫豹)に会ってこの事を話すと、穆子はこう言いました「楚の公子は美しすぎる。大夫ではなく国君のようだ。」
鄭の子皮が言いました「戈を持った兵が先導するのも、不可思議なことだ。」
蔡の子家が言いました「楚は大国であり、公子・囲はその令尹だ。戈を持った兵が先導しても、おかしいことはないだろう。」
穆子が言いました「それは違う。天子には虎賁(勇士)がおり、武を教えて王宮を守っている。諸侯には旅賁(戈と盾を持ち、車を挟んで守る衛士)がおり、災害(禍)を防いでいる。大夫には貳車(副車)があり、国君の命に備えている(いつでも動けるようにしている)。士には陪乗(車右)がおり、令を伝えるために奔走している。今、大夫が諸侯(国君)の服を着ているのは、異心があるからだ。もし異心がないのなら、諸侯の服を着て諸侯の大夫に会うはずがない。後日、彼は大夫ではなくなるだろう。服とは心の文(模様。表れ)である。亀の甲羅は内側を焼いたら外に文(亀裂)が現れる(服と心の関係もそれと同じだ)。楚の公子は国君になれないとしたら死ぬしかないだろう。(大夫の身分で)再び諸侯を糾合することはない。」
 
 
 
次回に続きます。