春秋時代第一期に入る前に

春秋時代第一期の対象になるのは
平王・桓王・荘王・釐王・恵王・襄王・頃王 紀元前771613
の約百六十年です。
 
第一期概略
東周平王は即位すると犬戎を避けて東に遷り、洛邑で王室を復興しました。この時、鄭の武公が大きく貢献したため、平王に重用されて鄭は権勢を掌握します。しかし大きな権力を持った鄭は周王室から疎まれるようになり、平王は秘かに虢公を重用するようになりました。鄭桓公の子・荘公の時代になると、周王室との関係が悪化し、平王を継いだ桓王が鄭に討伐の兵を向けるほどになります。ところが周王軍は鄭軍に敗北し、桓王も怪我を負いました。この戦いで天下の主であるはずの周王には既に一諸侯を従わせる力もないことを露呈してしまいました。王権の失墜を象徴する大事件です。
鄭荘公は他の諸侯に先駆けて勢力を拡大し、「小覇」と称されました。しかし荘公の死後、鄭は内乱が続き、次第に衰弱していきます。
 
鄭に換わって台頭したのは東方の斉です。
管仲を抜擢した斉桓公は、国政を整理して富国強兵を実現させました。東周釐王三年(前679年)桓公は諸侯を集めて会盟し、覇者の地位に立ちます。
桓公は「春秋五覇」の筆頭であり、その登場は覇者の時代の幕開けを意味します。
 
桓公の在位期間は四十三年に及びました。その間、各地を遠征して武威を示し、度々諸侯を糾合して同盟を強化します。周王室で内争が起きると、即位したばかりの襄王の地位を安定させました。襄王は改めて桓公の覇者としての功績を認め、表彰しました。
しかし晩年になって管仲を失った桓公は、佞臣を近づけたために無残な死を遂げ、後継者争いを招きます。斉は急速に覇者の地位を失いました。
 
斉の内乱を鎮静化させたのは宋の襄公でした。襄公は二代目覇者の地位を狙います。しかし宋には覇者になる力がなく、北上した楚に大敗して失意の中、死亡しました。
 
数えきれないほど林立する諸侯の中で、春秋時代に勢力を拡大するのは斉・楚・晋・秦・呉・越といった国々ですが、全て辺境に位置し、周辺に未開な地が拡がっていました。これに対して真っ先に小覇となった鄭や二代目覇者を狙った宋は中原に位置し、周辺を他の国で囲まれています。これらの国は国力を拡大する余地がなく、終始、中小国の立場を変えることはできませんでした。
 
桓公が覇者として活躍している頃、晋では献公の後継者を巡る騒動が起きました。献公の死後、混乱はますます大きくなります。一連の騒乱を「驪姫の乱」といいます。
乱を治めたのは秦に亡命していた公子・夷吾でした。これを恵公といいます。しかし恵公は亡命中に自分を助けてきた秦を裏切ったため、秦の攻撃を受けて捕えられてしまいました。秦は恵公を釈放しましたが、恵公に対する不信感をぬぐい去ることはできません。
やがて恵公が死に、その子が即位しましたが、秦はもう一人の亡命中の公子・重耳を助けて晋に帰国させました。こうして二十年近く各地で亡命生活を送っていた重耳が晋の国君に即位します。これを文公といいます。
文公は晋の乱れた政治を正し、秦との友好関係を強化し、南方の楚を撃破して覇者の地位に登ることができました。「春秋五覇」の二人目であり、一人目の斉桓公と並んで「斉桓・晋文」と称されています。
しかし亡命時代が長かった文公は即位後わずか九年で死にました。跡を継いだ襄公の時代は秦との関係が悪化し、戦争が繰り返されるようになります。
襄公死後、霊公の時代になると、趙盾が政権を握り、国君よりも卿が政治の中心に立つようになっていきます。
 
晋の恵公と文公の即位を援けた秦穆公(繆公)も名君の一人です。晋文公が死んで襄公が即位してから、晋秦両国の関係が悪化し、秦は晋に連敗しました。しかし臣下を信頼し続けた穆公はついに晋軍に大勝します。覇者の国を破った穆公は、その後、西方経営に力を入れ、西戎で覇を称えました。
穆公を春秋五覇に入れることもありますが、実際には中原で覇者になったことはありません。秦が中原に向けて大きく発展するのは戦国時代に入ってからのことです。
 
桓公が覇者になった頃、南方の楚でも名君が登場しました。成王です。成王は周辺の小国を支配下に置いて着々と領土を拡大しました。その結果、中原諸国にとって大きな脅威となったため、斉桓公が南下して楚と召陵で盟を結びました。しかし、斉桓公が死ぬと楚は北上を開始し、宋襄公を大破します。
その後、晋文公によって楚は中原進出を阻まれましたが、成王の時代に大きな発展を遂げた楚は、中原諸国と対立する大きな勢力となりました。
北の中原勢力(斉や晋を中心とした勢力)と南の楚を中心とした勢力の対立は、春秋時代を通して続き、両勢力の間に位置する鄭・陳・宋等の中小国は度々戦乱に巻き込まれ、ますます弱体化していくことになります。
 
楚成王の晩年も悲劇でした。成王は太子を廃そうとして逆に殺されてしまいます。
新たに即位した太子を穆王といいます。穆王は中原への進出よりも足場固めを優先し、江・六・蓼といった国を滅ぼしていきました。そして穆王死後、春秋五覇の一人に数えられる荘王が即位し、晋と覇権を競うようになります。これは第二期のことです。
 
 
以下、第一期の各国(周を除いた十三国)の君主を列記します。
:襄公・文公・憲公(寧公)・出公(出子)・武公・徳公・宜公・成公・穆公・康公
:孝公・恵公・隠公・桓公・荘公・湣公(閔公)・釐公(僖公)・文公
:荘公・釐公・襄公・桓公・孝公・昭公・懿公
:文侯・昭侯・孝侯・鄂侯・哀侯・小子・晋侯湣・武公・献公・恵公・文公・襄公・霊公
:若敖・霄敖・蚡冒・武王・文王・堵敖囏・成王・穆王・荘王
:戴公・武公・宣公・穆公・殤公・荘公・湣公(閔公)桓公・襄公・成公・昭公
:武公・荘公・桓公・宣公・恵公・黔牟・恵公(復位)・懿公・戴公・文侯・成公
:平公・文公・桓公・厲公・荘公・宣公・穆公・共公・霊公
:釐侯・共侯・戴侯・宣侯・桓侯・哀侯・穆侯・荘侯
:恵伯・穆公・桓公・荘公・釐公(僖公)・昭公・共公・文公
:武公・荘公・厲公・昭公・鄭子亹・鄭子嬰・厲公(復位)・文公・穆公
:頃侯・哀侯・鄭侯・穆侯・宜侯・桓侯・荘公・襄公・桓公
:記述なし
(『史記・十二諸侯年表』を参考にしました)
 
 
 
参考書籍
春秋時代は東周平王の晩年から編年体史書『春秋左氏伝』の記述が始まります。よって、主に参考にするのは『春秋左氏伝』になります。
また、『資治通鑑外紀』が『国語』から多くの内容を引用しているため、『春秋左氏伝』と併せて『国語』も意訳していきます。
今まで通り、『史記』の「本紀(周本紀・秦本紀)」、『竹書紀年』(古本・今本)、『帝王世紀』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』『十八史略』の記述も載せていきますが、特別な場合を除いて書名はいちいち紹介しません。
それぞれの書籍に関してはこちらを参考にしてください。
 
また、文中の干支(甲子、乙丑、丙寅等)の後ろにつけた日付、例えば「乙亥(十二日)」等は楊伯峻の『春秋左伝注』を参考にしています。



次回から春秋時代・第一期が始まります。まずは東周平王の時代です。
 
春秋時代の目録はこちらです。