春秋時代188 東周景王(十) 魯の叔孫豹 前541年(2)

今回は東周景王四年三月の続きです。
 
[] 魯の季孫宿(季武子)が莒を攻めて鄆(または「運」)を取りました。鄆はこれまで魯領になったり莒領になったりしています。
 
莒人が会盟に参加している諸侯に魯の侵攻を訴えました。
楚が晋に言いました「弭兵の盟を確認しているのに、解散する前に魯が莒を討った。これは斎盟を冒涜することである。魯の使者(叔孫豹)を処刑していただきたい。」
晋の趙武を補佐している楽王鮒は叔孫豹のために命乞いをする代わりに賄賂を強要しようとしました。そこで使者を送って叔孫豹に装飾された帯を要求します。しかし叔孫豹は拒否しました。
叔孫豹の家臣・梁其踁が叔孫豹に問いました「財家とは身を守るためにあるのに、子(あなた)はなぜそれを惜しむのですか?」
叔孫豹が答えました「諸侯の会は社稷を守るためにある。わしが財貨で自分を守ったとしても、魯は必ず師(軍)を受けるだろう(討伐されるだろう)。これは国の禍であり、(私個人が助かっても)社稷を守ることにはならない。人が壁を造るのは、悪(盗賊)を防ぐためである。壁に亀裂が生まれても、誰を責めることもできない(壁は自分が悪を防ぐために造ったのであり、それが破損するのは自分の責任である。よって、家に悪を入れてしまうのも、自分の罪である)。国を守るために会盟に参加しながら、国に悪(禍)をもたらしたら、わしは亀裂が生まれた壁よりも大きな罪を犯したことになる。季孫は憎むべきかもしれないが、魯国には罪がない。叔(叔孫)が国を出て会議に参加し、季(季孫)が国を守るのは、以前から繰り返されてきたことだ。誰を怨む必要もない。」
言い終えた叔孫豹は続けてこう言いました「そうは言っても、鮒(楽王鮒)は賄賂を好む。何も与えなかったら収まらないだろう。」
叔孫豹は楽王鮒の使者を招くと、裳(衣服の下半身の部分)を裂いて帛を渡し、「帯は細すぎる」と言いました。叔孫豹の帯は細すぎるので楽王鮒への礼物にするには相応しくない、だから裳を切り裂いて帯として贈ろう、という意味です。表面上は「自分の帯は細すぎる」という謙遜の言葉を述べていますが、実際は装飾された帯ではなく普通の帛を贈っています。
 
叔孫豹の言葉を聞いた趙武は「患憂に臨んでも国を忘れないのは忠だ。危難を思っても職責を守るのは信だ。国のことを図って死を惜しまないのは貞だ。この三者を中心にして考慮することができるのは義だ。彼には四者がある。殺してはならない」と言うと、楚にこう伝えました「魯には罪がありますが、その執事(叔孫豹)は難を避けず、(楚の)威を恐れて(楚の)命を敬っています。子(あなた)は彼を赦して左右(楚の群臣)の教訓とするべきでしょう。もしも子の群吏が国内で汚(困難)を避けず、国外で難から逃げなければ、憂患がなくなります。憂患が生まれるのは、汚を治めず、難があっても守らない(逃走する)からです。この二者を全うできれば憂患の必要はありません。賢能の者の地位を安定させなかったら、誰が子に従うでしょうか。魯の叔孫豹は賢能というべき人物です。彼を赦すことで他の賢能の者を安定させるべきです。子が諸侯の会に参加して、罪がある国を赦し、更に賢能の者を賞したら、全ての諸侯が喜んで楚に帰順し、疎遠な者も近親のように親しくなります。
また、国境の邑は頻繁に所属が代わるものです。常態というものはありません。王や伯(覇者)政令とは、封疆(国境)を定めて官員を任命し、表旗(国境の標識)を立てて制令(国境の取り決め)に書き記し、過ちがあれば(国境を超えたら)刑を用いるものですが、それでも(境界の邑を)一定にすることはできません。だから明王の時代でも)(舜の時代)には三苗がおり、夏には観・扈がおり、商には邳がおり、周には徐・奄がいたのです。令王明王がいなくなってからは諸侯が拡大し、斎盟の主も交代してきました。これでは一定になるはずがありません。大(国の滅亡や国君の弑殺等)を憂いて小(小さい問題)を棄てるから、盟主になることができるのです。小事まで関与する必要はありません。封疆の削減は、どこの国でもあることです。斎盟の主がそれを全て解決できますか。呉や濮には隙がありますが、楚の執事(執政官)は盟約を守って呉や濮に進攻しないと約束できますか。莒の疆事(国境の事)は、楚には関係ないことであり、諸侯もこれを煩い(討伐の原因)としなくてもいいはずです。莒と魯は鄆を争って久しいので、社稷に対して大害がないようなら、わざわざ子が守ることもありません。煩わしい事を除き、善を赦せば、皆が尽力するようになるでしょう。子はよく考えるべきです。」
晋が強く要求したため、楚は同意し、叔孫豹は禍から逃れることができました。
 
以上は『春秋左氏伝』の内容です。以下、『国語・魯語下』からです。
魯の季武子が莒を攻めて鄆を奪いました。莒人は虢に集まっている諸侯に魯を訴えます。
楚の令尹・囲は魯の代表として参加していた叔孫穆子(叔孫豹)を捕えて処刑するように主張しました。
晋の楽王鮒が穆子に賄賂を要求して言いました「私が子(あなた)のために楚に命乞いをしましょう。」
しかし穆子は拒否します。
穆子の家臣・梁其踁が穆子に言いました「財貨とは身を守るためにあるのです。財貨を出して禍から逃れるべきなのに、子はなぜそれを惜しむのですか?」
穆子が言いました「汝には分からないことだ。君命を受けて大事(会盟)に参加したのに、国に罪があるからといって財貨で個人的な禍から逃れたら、私は会を私利のために利用したことになる。もしそれが許されるのなら、財貨によって私欲を成すことも許されてしまう。今後、禍を逃れたとしても、どうして諸侯の事に参加できるだろう。それに、必ず他の者も真似をしてこう言うはずだ『諸侯の卿もかつてこのようにした(賄賂によって罪から逃れた)。』私が賄賂によって身の安全を求めたら、諸侯に前例を作ることになってしまう。君子は行動が正しくないことを憂いるものだ。行動が正しくなければ他の者が真似をし、正しくない行動がますます暴露されることになる。私は財貨を愛するのではなく、不正を憎むのだ。また、今回の罪は私が作ったものではない。たとえ殺されたとしても、私の義が損なわれることはない。」
これを聞いた楚人は穆子を赦しました。
 
『国語・晋語八』には趙武とのやりとりが書かれています。
趙文子(趙武)が叔孫穆子に言いました「楚の令尹は楚の国君の地位を狙っており、しかも諸侯を惰弱だと思っています。諸侯の会盟は、問題を解決することが目的であって、集まることが目的ではありません。彼の人となりは、剛腹で自尊心が強いので、罪を得たら禍から逃れられないでしょう。子(あなた)はなぜ逃げないのですか。不幸は子の身に及ぶはずです。」
穆子が言いました「豹(叔孫豹。私)が君命を受けて諸侯の盟に参加したのは社稷のためです。もしも魯に罪があり、しかも盟に参加した者が逃げ帰ったら、魯国が必ず討伐を受けるでしょう。これでは私が会に参加したために危難をもたらすことになります。逆にもし私が諸侯に殺されたら、魯に対する誅罰もそれで終わり、師を加える必要もなくなります。処刑してください。自分で罪を犯して処刑されるのは堪え難いことですが、他者の罪が自分に及んで処刑されるのなら、私の義が損なわれることはありません。主君を安んじて国に利があるのなら、美悪一心というものです(生きていても殺されても同じです)。」
 
趙文子は楚に対して穆子を助けるように請いました。
穆子に賄賂を要求して拒否された楽王鮒が言いました「諸侯が盟を結んでまだ解散していないのに、魯が盟に背きました。これでは盟を結ぶ意味がありません。そのうえ、討伐もできず、盟を受けた者を赦すようでは、晋はどうして盟主になれますか。叔孫豹を殺すべきです。」
趙文子が言いました「死を苦難とせず、その国を守って利をもたらそうとしている。このような人物を惜しまないわけにはいかない。もしも全ての人がこのように国を想っていれば、大国は威信を失わず、小国は虐げられることがない。この道理が実行されれば民を教導できるので、国の敗亡もなくなる。『善人に苦難がある時、それを助けなければ不祥である。悪人が位にいる時、それを除かなければ不祥である(善人在患,弗救不祥。悪人在位,不去亦不祥)』という言葉がある。叔孫を守らなければならない。」
趙文子は楚に請願して穆子を助けました。
 
[] 楚の令尹・囲が趙武を宴に招いて『大明詩経・大雅)』の首章を賦しました。西周文王を称える内容で、公子・囲は自分を文王に喩えています。
趙武は『小宛詩経・小雅)』の第二章を賦しました。天命は一度去ったら再び戻る事はない、という内容で、公子・囲を戒めています。
宴が終わってから趙武が叔向に聞きました「令尹は王のようにふるまっているが、どう思う?」
叔向が言いました「楚は王が弱く令尹が強いので、成功するでしょう。しかし善い終わりを迎えることはできません。」
趙武がその理由を問うと、叔向はこう答えました「強に頼って弱に勝ち、その地位を安定させるのは、強の中でも不義に属します。不義なのに強ければ、倒れるのは速くなります。『詩(小雅)』にはこうあります『強大な宗周は、か弱い褒姒に滅ぼされた(赫赫宗周,褒姒滅之)。』これは強くても不義だったからです。令尹が王になったら必ず諸侯を求めるでしょう。楚が強くなり晋が弱くなれば、諸侯は楚に向かいます。もし諸侯を得ても暴虐がますますひどくなるようなら、民は堪えることができません。これでは善い終わりを得るはずがありません。強によって王位を手に入れ、不義によって勝てば、それが常道になります。淫虐が常道になったら、久しく保つことはできません。」
 
 
 
次回に続きます。