春秋時代189 東周景王(十一) 鄭の宴 前541年(3)

今回も東周景王四年の続きです。
 
[] 夏四月、晋の趙武、魯の叔孫豹と曹の大夫が鄭に入ったので、鄭簡公が宴を開いて三人をもてなすことにしました。
鄭の子皮が趙武に宴の日時を伝えると、趙武は『瓠葉(小雅)』を賦しました。『瓠葉』は下級貴族の宴の様子を描いており、趙武は簡素な宴を開くように勧めるため、この詩を賦したようです。
子皮が叔孫豹に日時を伝えに行くと、叔孫豹が子皮に言いました「趙孟(趙武)は一献の宴を求めています。子(あなた)はそれに従うべきです。」
一献の宴というのは、主人が賓客に一回だけ酒を進める、士の階級が行う宴です。用意される食事も簡素になります。ちなみに上公は九献、侯伯は七献、子男は五献と定められていました。
子皮が「それでいいのでしょうか」と問うと、叔孫豹は「あの人がそう欲しているのだから、問題はありません」と答えました。
しかし趙武等が宴席に集まると、五献の籩豆(食事)が東房に用意されていました。趙武は五献を辞退し、秘かに子産に「武(私)の意志は既に冢宰(子皮)に伝えました」と言うと、一献だけ受けました。
趙武が主客となり、饗礼(主人が賓客に酒を勧める等、宴の冒頭に行う礼。楊伯峻の『春秋左伝注』に詳しい解説がありますが、省略くします)が終わってから正式に酒宴が始まります。
叔孫豹が『鵲巣詩経・召南)』を賦しました。鵲が作った巣に鳩が安居するという歌詞があり、本来は新婦が新郎に嫁ぐおめでたい歌です。叔孫豹は鵲を晋、鳩を魯に喩えて、晋の庇護のおかげで魯が安全でいられることを感謝しました。
趙武は「武にはもったいないことです」と言いました。
叔孫豹が続けて『采蘩(召南)』を賦しました。苦労して蘩(植物の名)を採り、公侯の祭祀に使うという詩で、晋に対する貢物を喩えています。叔孫豹が言いました「小国が蘩(粗末な物)を献上し、大国は節約して使っています。我々が大国の命に逆らうことはありません。」
子皮が『野有死麕(召南)』の末章を賦しました。『野有死麕』は女性の視点から描かれた恋愛の詩で、末章は「私の腰帯を動かさないで。犬に見つかって吠えさせないで(無感我帨兮。無使尨也吠)」と女性が男性に話しています。子皮はこの詩から晋が礼をもって諸侯に接していることを表したようです。
趙武は『常棣(小雅)』を賦しました。兄弟の和を歌った詩です。趙武が言いました「我々兄弟(晋・魯・鄭・曹は全て姫姓の国なので、兄弟と称しています)は親密で平和です。尨(犬)に吠えさせることはありません。」
叔孫豹、子皮と曹の大夫は立ち上がって拝礼し、兕爵(杯)を持って言いました「小国は子(あなた)のおかげで罪(禍)から免れることができます。」
それぞれ宴を楽しみ、退席してから趙武は「このように楽しいことはもうないだろう」と言いました。
 
[] 周景王が劉夏(劉子。定公)を潁(元は周の邑。この時は鄭領)に派遣して趙武を慰労させ、雒汭(洛水が曲がる場所)に宿泊させました。
劉夏が言いました「禹の功は素晴らしく、その明徳は深遠です。もしも禹がいなかったら、私達は魚になっていたでしょう(治水に失敗して人々は水中に沈んでいたでしょう)。私と子(あなた)は弁冕(礼冠・礼服)で身を正し、民を治めて諸侯に臨んでいますが、全て禹のおかげです。子も遠い禹の功を受け継いで、大いに民を守るべきです。」
趙武が言いました「老夫は罪を犯すことだけを恐れます。そのように遠いことを考えることはできません。とりあえず現状の安寧に満足し、朝には夕の事を謀らない日々を送っているのに、どうして遠謀ができるでしょう。」
劉夏は帰国してから景王にこう報告しました「諺には『老いたら知識が増えるが、耄碌も訪れる(老将知而耄及之)』とありますが、趙孟のことを言っているのでしょう。彼は晋の正卿であり、諸侯の主でありながら、隸人(奴隷)のようにその日暮らしをしています。朝に夕のことを考えないというのは、神と人を棄てることです(民は神の主なので、民のことを考えなければ民も神も去ることになります)。神が怒って民が叛すようなら、長くはありません。趙孟は年を越せないでしょう。神が怒ったら彼の祭祀を受けいれず、民が叛したら彼の政事に従わなくなります。祭祀も政事もうまくいかないのなら、年を越えることもできません。」
 
[] 魯の叔孫豹が帰国すると、季孫宿の家臣・曾夭が季孫宿を御して叔孫豹の慰労に来ました。しかし朝日が昇って日中(正午)になっても叔孫豹は姿を現しません。
曾夭が叔孫豹の家臣・曾阜(曾夭の一族だと思いますが、どういう関係かはわかりません)に言いました「朝日が日中まで昇り、我々は罪(会盟中に他国を攻めて叔孫豹を危険に陥らせたこと)を知りました。しかし、魯は互いに忍ぶことで国を治めてきました。外で忍ぶことができるのに、内に対しては忍ぼうとしないのは、意味があることですか?」
曾阜が言いました「(叔孫豹は)数か月も外で忍んできたのです。(季孫宿が)一旦(朝)だけ忍ぶことに、害がありますか。利益を得ようとしている賈(商人)が、市の喧噪を嫌うことがありますか(目的を達するためには困難を乗り越える必要があります)?」
室内に戻った曾阜が叔孫豹に「外に出ても問題ありません(季孫氏は反省しています)」と伝えると、叔孫豹は楹(堂の大柱。季孫氏の比喩です)を指して「憎むべきではあるが、除くことはできない」と言い、季孫宿に会いに行きました。
 
以上は『春秋左氏伝』の内容です。以下、『国語・魯語下』からです。
叔孫穆子(叔孫豹)が帰国してから、季武子(季孫宿)が慰労に来ました。しかし正午になっても穆子は姿を表しません。
家臣が言いました「門を出ても問題ありません(外に出て季氏に会うべきです)。」
穆子は自分にこう言いました「私は死刑も難とせず、棟梁(魯国)を守った。棟梁が折れて榱(屋根を支える横木)が崩れたら自分も押し潰されてしまう。だから外で死ぬとしても、国内の宗室(公室)を守ることができるのならかまわないと思った。既に大恥(国が亡ぶこと)から逃れることができたのに、小忿(小怨)を我慢することもできないようでは、正しい行動とはいえないだろう。」
穆子は武子に会いに行きました
 
[] 鄭の大夫・徐吾犯(徐吾が氏)には美しい妹がおり、公孫楚(游楚。子南。穆公の孫)が聘(婚約)しました。しかし公孫黒(子晳)も強引に委禽(婚約の礼物を贈ること。礼物には雁が使われました)をしたため、徐吾犯は恐れて子産に報告しました。子産はこう言いました「これは国の政治が正しくないからだ。あなたが心配する必要はない。本人が希望する方に嫁がせればよい。」
そこで徐吾犯は公孫楚と公孫黒と相談し、妹に選ばせることで二人とも同意しました。
公孫黒は華やかに着飾って徐吾犯の家を訪ね、布幣(婚礼の礼物)を届けて退出します。
公孫楚は戎服(軍服)を着て庭で矢を射てから、車に飛び乗って去りました。聘をした時、既に礼物を贈っているので、今回はありません。
妹は房内から二人の様子を見てこう言いました「子晳は確かに容貌が優れています。でも、子南こそ夫(男)です。夫が夫らしく、妻が妻らしくあることを(夫夫婦婦)、順といいます。」
妹は公孫楚に嫁ぐことにしました。
公孫黒はこれに不満を抱き、服の中に甲を着て公孫楚に会いに行きました。公孫楚を殺してその妻を奪うためです。それを知った公孫楚は逆に戈を持って公孫黒を追い、衝(大道が交わる場所)で戈を突きました。公孫黒は負傷して帰り、諸大夫にこう告げます「私はいつもと同じように彼に会いに行った。彼に異志(企み)があるとは思いもよらず、怪我を負ってしまった。」
諸大夫がこの事件について相談しました。
子産が言いました「それぞれに理由がある場合は、幼賤(年が若く身分が低い者)を罪とするべきだ。楚(公孫楚)に罪がある。」
子産は公孫楚を捕えて罪を宣言しました「国の大節は五つあるが、汝はそれを全て犯した。主君の威を恐れ、その政令を聴き、貴人を尊び、年長者に仕え、親族を養う。この五者があるから国が治まるのである。今、主君が国にいるのに汝は兵器を用いた。これは威を畏れないということだ。国の紀(法規)を犯したのは、政令を聴かないということだ。子晳は上大夫であり、汝は嬖大夫(下大夫)であるのに、下にならなかった。これは貴人を尊んでいないということだ。年が下であるのに敬わないのは、年長に仕えていないということだ。従兄に対して兵器を用いるのは、親族を養わないということだ。国君はこう言われた『余は汝を殺すのが忍びないので、死を免じて遠くに去らせることにしよう。』勉めて速やかに去れ。これ以上、罪を重ねてはならない。」
 
五月庚辰(初二日)、鄭は公孫楚を呉に追放しました。
公孫楚が出発する前、子産が大叔・游吉に意見を求めました。公孫楚は游楚といい、その兄の子が大叔・游吉になります。游吉は游氏の宗主でした。
大叔が言いました「私には自分の身を守る力もないので、宗族を守ることはできません。彼がやったことは国の政紀に関わることであり、私難(個人の難)ではありません。子(あなた)は鄭国のために図っており、利があるから行っているのです。何を疑うのですか。周公が管叔を殺して蔡叔を追放したのは、彼等を愛していなかったからではなく、王室のためだったからです。もし私が罪を得たとしたら、私にも刑を行ってください。諸游(游氏の宗族)を気にすることはありません。」
 
 
 
次回に続きます。