春秋時代190 東周景王(十二) 秦の后子 前541年(4)
今回は東周景王四年五月の続きからです。
ある日、見かねた母が諫めて言いました「もしも自分から去らなければ、追放されることになるでしょう。」
五月癸卯(二十五日)、后子は晋国に出奔しました。その車は千乗に及びます。
『春秋左氏伝』に戻ります。。
后子は舟で黄河に浮橋を作り、十里ごとに車を置きました。車は秦都・雍から晋都・絳まで連なります。
后子が宴を開いて晋平公を招待しました。国君の礼にあたる九献の礼をおこないます。まず酒宴の主人が賓客に酒を勧めます。これが「献」です。次に賓客が主人に返杯します。これが「酢」です。最後に主人が自分で酒を注いで飲み、再び賓客に勧めます。これが「酬」です。「献」「酢」「酬」を合わせて「一献」といい、「酬」の時に主人は賓客に「酬幣(礼物)」を贈りました。九献は「献」「酢」「酬」が九回繰り返されるので、「酬幣」も九回贈られます。后子は「酬幣」を取りに行くために車と宴席の間を八回往復しました。
司馬侯(女叔斉)が后子に問いました「子(あなた)の車はこれで全てですか(これだけですか)?」
后子が答えました「これだけあれば既に多いというべきです。もしもこれより少なかったら、あなたに会うことはなかったはずです(出奔する必要もなかったはずです)。」
司馬侯が平公に報告して言いました「秦の公子は必ず帰国できます。君子は自分の過ちを知り、必ず令図(善い計画や将来)を持つといいます。令図とは、天の賛助によるものです。」
后子が趙武に会うと、趙武が「吾子(あなた)はいつ帰るつもりですか?」と聞きました。
后子が答えました「私は寡君(秦景公)に追放されることを恐れたのでここに来ました。嗣君(後継ぎ。景公の次の国君)の即位を待っています。」
趙武が聞きました「秦君はどのような人物ですか?」
后子が答えました「無道です。」
趙孟が聞きました「それでは、秦は亡びますか?」
后子が言いました「なぜですか?一世が無道でも国は絶えないものです。国は天地の間に立ち、必ず助ける者がいます。数代にわたって淫でなければ、国が倒れることはありません。」
趙武が聞きました「秦君は夭(短命)ですか?(原文は「夭乎?」。または「夭」ではなく「天」で、「秦君には天の助けがありますか?」)」
后子が言いました「はい(有焉)。」
趙武が秦景公はあとどれくらい活きるか聞くと、后子はこう言いました「国が無道なのに穀物が豊作なのは、天が助けているからです(国が無道で収穫も無ければ、天の助けがないのですぐに死にます)。(秦君の寿命は)少なければあと五稔(五年)でしょう(秦景公は東周景王八年・前537年に死ぬので、足掛け五年になります)。」
趙武が影を眺めて言いました「朝には夕のことがわからない。誰が五年も待てるだろう。」
后子は退席してから知人にこう言いました「趙孟(趙武)はもうすぐ死ぬ。民の主でありながら年を弄び、日を急いでいる(その日暮らしの生活をしており、いたずらに時間を費やしている)。これで長いはずがない。」
『国語・晋語八』にもほぼ同じ内容があります。
秦后子が晋に出奔しました。
趙文子(趙武)が会って問いました「秦君には道がありますか?」
后子は直言を避けて「わかりません」と答えました。
文子が問いました「公子がわざわざ敝邑に来たのは、不道を避けるためでしょう。」
后子が答えました「それもあります。」
文子が問いました「秦はどれくらい続きますか?」
后子が答えました「国が無道でも穀物が豊作なら、少なくても五年は保つことができる、といいます。」
文子は影を見て言いました「朝に夕を知ることもできない。誰が五年も待てるだろう。」
文子が退出してから、后子が徒(従者)に言いました「趙孟(趙武)はもうすぐ死ぬ。君子は寛大と恩恵によって将来を考え、失敗を危惧するものだ。趙孟は晋国の相であり、諸侯の盟を主宰する立場にいるのだから、長世の徳を想い、遠年までそれを継続させ、更に自分が善い終わりを迎えることを考えなければならない。それなのに、時を弄んでその日暮らしに満足している。もし死ななければ大咎(禍)を受けるだろう。」
趙文子はこの年の冬に死亡します。
『史記・秦本紀』には趙武ではなく晋平公との会話が紹介されています。
平公は后子が千乗の車を有していると知って「このように裕福なのに、なぜ自ら亡命したのだ」と問いました。
后子は「秦公が無道なので私は誅殺を恐れました。後世の代になるのを待って帰るつもりです」と答えました。
[十] 六月丁巳(初九日)、邾悼公・華が死に、荘公・穿が立ちました。
[十一] 六月丁巳(同日)、鄭で游楚(公孫楚。子南)の乱が起きたため、簡公と諸大夫が公孫段の家で盟を結び、協力し合うことを誓いました。
その後、罕虎(子皮)、公孫僑(子産)、公孫段(子石。伯石)、印段(子石)、游吉(子大叔)、駟帯(子上)の六人が閨門(鄭の城門)の外にある薫隧(道の名)で秘かに盟を結びました。すると公孫黒(子晳)も強引に参加し、太史に命じて会盟に参加した者を「七子」と記録させました。
子産は内乱を恐れて公孫黒を討伐しませんでした。
[十二] 晋の荀呉(中行穆子)が無終(山戎の国)と群狄(翟)を攻撃しました。
戦いの前に魏舒が言いました「彼等は徒兵(歩兵)で我が軍は車兵ですが、両軍が遭遇する場所は険阻な地形なので(戦車の移動が不便です)、敵が十人の兵で一乗の車を攻めれば敵が必ず勝ちます。また、険阻な地に車を閉じ込めても、敵が有利になります。よって、我が軍も全て徒卒にするべきです。私から始めさせてください。」
晋軍は兵車を棄てて歩兵の隊列を作りました。五乗の兵車に乗る十五人(一乗の車は三人乗りです)を三つの伍(兵団の最小単位。五人で一つの伍)にします。荀呉の嬖人(寵臣)が徒卒への編入を拒否したため、魏舒が見せしめのために処刑しました。
五つの陣(両・伍・専・参・偏。歩兵の陣形。詳細はわかりません)が互いに連携します。両は前、伍は後ろ、専は右角(右翼)、参は左角(左翼)、偏は前拒(先鋒)になり、敵を誘いました。
狄人は兵車を棄てた晋軍を侮って笑っています。
荀呉は狄が陣を構える前に急襲し、大鹵(大原)で大勝しました。歩兵を重視したおかげで得た勝利です。
[十三] 莒で展輿が即位しましたが(前年)、諸公子の秩(俸禄)を奪ったため、諸公子は斉から去疾を呼び戻しました。
秋、斉の公子・鉏が去疾を莒国に送り返し、展輿は呉(母の国)に出奔しました。即位した去疾を著丘公といいます。
莒の内乱の隙に、魯の叔弓が軍を率いて鄆田の境界を定めました。
莒の務婁、瞀胡および公子・滅明(三人とも展輿の党)が大厖と常儀靡(莒の二邑)を挙げて斉に降りました。
次回に続きます。