春秋時代191 東周景王(十三) 晋平公の病 前541年(5)

今回は東周景王四年秋の続きです。
 
[十四] 晋平公が病を患ったため、鄭簡公が公孫僑(子産)を晋に派遣して聘問し、病状を確認しました。
晋の叔向が子産に問いました(『春秋左氏伝』では叔向ですが、『史記・鄭世家』では平公が子産に聞いています)「寡君の疾病について、卜人は『実沈と台駘の祟り』と言っています。しかし太史はそれを知りません。この二人は何の神でしょうか。」
子産が答えました「昔、高辛氏(帝嚳)に二人の子がいました。伯(兄)は閼伯、季(弟)は実沈といい、曠林(地名。もしくは大きな森林)に住みましたが、この兄弟は仲が悪く、いつも武器を持って攻撃し合っていました。后に帝(帝堯)はこれを嫌い、閼伯を商丘に遷して辰(大火。火星。心宿)を主管させました(辰星によって時節を定めさせました)。商の人々がこれを受け継いだため、辰は商星とよばれるようになります。また、実沈を大夏に遷して参(参宿)を主管させました。唐の人々がこれを受け継ぎ、夏朝と商朝に仕えました。その季世(後代)が唐叔虞です。武王の后・邑姜が大叔(太叔。唐叔虞)を妊娠した時、夢で帝(天帝)がこう言いました『余が汝の子に虞と名付けよう。唐の国を彼に与え、参星に属させて、その子孫を繁栄させよう。』やがて赤子が産まれると、掌に『虞』という模様があったので、赤子は虞と命名されました。成王が唐を滅ぼしてから、大叔は唐に封じられ、参は晋星となったのです(唐叔虞は晋の始祖です)。こうしてみると、実沈は参神(晋の神)を指すことが分かります。
昔、金天氏(少昊)の裔子(後裔)に昧という者がいて、玄冥(水官)の師(長)を務めました。昧は允格と台駘を産みます。台駘は父の業を継いで汾水と洮水を通じさせ、大沢に堤防を作って大原に住みました(人々を高台に住ませました)。帝(誰を指すかは不明です。一説では顓頊とされます)はこれを嘉し、汾川(汾水州域)に封じて沈、姒、蓐、黄の四国に台駘の祭祀を守らせることにしました。今、汾水は晋に管理され、四国も晋に滅ぼされました。こうしてみると、台駘は汾水の神(もしくは「水と水の」)であることが分かります。
しかしこの二者が君身(晋の国君の身)に及ぶことはありません(晋君の病とは関係ありません)。水旱・癘疫(疫病)の災害があったら山川の神に祈祷し、雪霜風雨が時期に合わない場合は日月星辰の神を祈祷するものです。君身に直接関係するのは(鬼神の祟りではなく)出入(労働)、飲食、哀楽の事です。山川や星辰の神が何をするというのでしょうか。
君子には四時(朝・昼・夕・夜)の行いがあります。朝は聴政し、昼は訪問(調査・諮問)し、夕は脩令政令を確認して正すこと)し、夜は安身する(身体を休める)ものです。こうすることで気(血気。体気。精気)の発散を節制し、気の流れを塞がず、体の衰弱を防ぐことができますが、心がこれに従わなければ(この道理を知らなければ)、百事が昏乱することになります。恐らく、今は気が一カ所に集まっているため(気が一つの事に集中しており、夜になっても休むことなく、精力が夜に集中しているという意味です)、病が生じたのでしょう。
また、内官(国君の妃妾)は同姓であってはならないといいます。子孫が繁栄しないからです。(姓を無視して)美が一人に集められると病を生むので、君子はそれを嫌うものです。『志(古書)』にはこう書かれています『妾を買った時、その姓がわからなかったら、卜わなければならない(買妾不知其姓,則卜之)。』この二者(昼夜が混乱することと、同姓かどうかを気にせず美女を集めること)は古から慎重にされてきました。男女が姓を分けるのは、礼の大司(大事)です。
今、晋君には四姫(姫姓の妃妾が四人。晋君も姫姓です)がいますが、恐らくこれが原因でしょう。今後も二者を犯し続けたら、病はよくなりません。四姫を除けば問題ありませんが、そのままにしていたら病が重くなるのも当然です。」
叔向が言いました「素晴らしい(善哉)。肸(叔向の名)は聞いたことがありませんでした。今の話は全てその通りです。」
叔向が退出した後、行人・子羽(公孫揮)が叔向を送りました。叔向が鄭の様子と子晳について問うと、子羽が言いました「(子晳は)長くはありません。無礼なうえに人を凌駕することが好きで、富に頼って地位が自分より上の者を軽視しています。久しいはずがありません。」
叔向から子産の話を聞いた晋平公は「博物(博識)の君子だ」と言って厚い礼物を贈りました。
 
晋平公が秦に医者を求めると、秦景公は医和(医者の和。和が名)を派遣しました。
医和が言いました「疾病は治りません。女室を近づけすぎていることが原因で、蠱疾(精神惑乱の病)に似ています。鬼神や飲食が原因ではなく、惑(女色に惑わされること)によって志(心。意志)を失っているのです。良臣が間もなく死に、天命も守ってはくれないでしょう。」
平公が問いました「女を近づけてはいけないのか?」
医和が答えました「節制しなければなりません。先王の音楽は、百事を節制するために作られたのです。だから音には五節(宮・商・角・徴・羽の五音)があり、遅速・本末を調和させて中声(中和した音)を生みだし、その後、降って音がなくなるのです。五降の後(五音がなくなってから)は、楽器を弾くことができません。もしも更に演奏を続けたら、煩手(繁雑複雑な手法)と淫声(五音が乱れた音楽)になり、心と耳を乱れさせて平和(調和。中和の音)を忘れてしまうので、君子はこれを聴きません。事物も音楽と同じです。煩(過度)になったら停止し、病を避けるべきです。君子が琴瑟(女色)を近づける時は、儀節によって心を乱すことがありません。天には六気があり、六気が降って五味(辛・酸・鹹・苦・甘)を作り、五色(黒・白・赤・青・黄)を発し、五声によって表現されます。これらが度を過ぎると、六疾を生みます。六気は陰・陽・風・雨・晦(夜)・明(昼)です。これが分かれて四時(朝・昼・夕・夜)を形成し、五節(五音)の序列を作りますが、度を過ぎたら禍となります。陰が度を超えたら寒疾を招き、陽が度を超えたら熱疾を招き、風が度を超えたら末疾(手脚の病)を招き、雨が度を超えたら腹疾を招き、晦が度を超えたら惑疾(精神の病)を招き、明が度を超えたら心疾を招きます。女は陽に有するものであり(女は陰に属しますが、陽である男につかえたため、陽が所有するものになります)、晦時にあたります(女も夜も陰に属します。また、男女のことは通常、夜に行われます)。よって、度を超えたら内熱・惑蠱の疾を招くことになります。今、貴君は節制もせず時(昼夜)も分けていません。病を得るのは当然です。」
医和は退出してから趙武に同じことを話しました。趙武が「(良臣が間もなく死ぬと言いましたが)良臣とは誰ですか?」と聞くと、医和はこう言いました「主(あなた)のことです。主が晋国の相となって八年、晋国には乱がなく、諸侯にも欠陥がありません。良というべきです。しかし、国の大臣は、寵信と俸禄を受けたら大節を担うものであり、災禍が起きているのに改めないようでは、必ず咎を受けます。今、晋君は淫(度を超すこと)によって病を招きました。やがて社稷を図ることができなくなるでしょう。これよりも大きな災禍はありません。しかし主はそれを防げなかったので、私はああ言ったのです。」
趙武が「蠱とは何ですか?」と問うと、医和が答えました「蠱は一つのことに溺れて心が惑乱することから生まれます。その文字は皿の上に蟲(虫)がいる状態です。穀物に飛んで集まる蟲も蠱といいます。『周易』には『女が男を惑わす。風が山に吹いて樹木を落とす。これを蠱という(女惑男。風落山謂之蠱)』とあります。全て同類です。」
趙武は「良医である」と言って厚い礼物を贈り、秦に帰らせました。
 
平公の病に関して、『国語・晋語八』にも記述があります。
平公が病を患ったため、秦景公が医和を送りました。
医和は平公の病を診て、退出してから言いました「治すことはできない。男を遠ざけて女を近づけ、女色に惑わされたから蠱を生んだのだ。鬼神のせいでも飲食のせいでもない。女色に惑わされて志を失ったのが原因だ。良臣は生きることができず、天命も助けようとしない。晋君が死なないとしたら諸侯の支持を失うだろう。」
これを聞いた趙文子が問いました「武(私。趙武)が二三子(諸卿)に従って国君を補佐し、諸侯の盟主にしてから八年が経ちました。その間、国内には暴乱姦悪が存在せず、諸侯も二心を抱かなくなったのに、子(あなた)はなぜ『良臣は生きることができず、天命も助けようとしない』と言ったのですか?」
医和が答えました「私が言ったのはこれからの事です。『直が曲を正すことができず、明明智が闇(暗愚)を諫めることができない。大樹は高く危険な場所に生えず、松柏は低く湿った場所に生えない(「直不輔曲,明不規闇。拱木不生危,松柏不生埤。」後半は、優秀な人材は劣った環境では生存できないという意味です)』といいます。吾子(あなた)は国君の惑を諫めることができず、病を招いてしまいました。それなのに自ら退こうとせず、政権を握っていることを誇りとしています。八年は既に充分長いでしょう。これ以上久しいはずがありません。」
文子が問いました「医は国家に及びますか(医によって国や家を治すことができますか)?」
医和が答えました「上医は国を治し、次の医は人の病を治します。本来これが医者の職責です。」
文子が問いました「子がいう蠱とは、どこから生まれたのですか?」
医和が答えました「蠱は穀物を蝕んでおり、穀物につく飛虫が蠱を生んでいます。万物で蠱を潜ませていない物はなく、万物で穀物より善い物もありません。穀物が育つ時、蠱が穀物を好んでに潜むのは当然なことです。(蠱を食べることなく)穀物を食べる者は、昼は徳のある男を選んで近づけます。これは(蠱を遠ざけて)穀物を食べて聡明になるのと同じです。夜は徳のある女を選んで節制し、蠱の害から自分を守ります。今、晋君は昼も夜も同じなので、穀物を食べず蠱を選んで食べているようなものです。これでは穀物を食べる者のように聡明になることはできず、自分で自分を蠱を盛る皿にしているようなものです。『蠱』という文字は『蟲(虫)』と『皿』が一つになってできているのです。」
文子が言いました「国君の寿命はどれくらいでしょうか?」
医和が答えました「諸侯が服すようなら三年ももちません(安泰に満足してますます女色に耽るからです)。諸侯が服さないのなら(晋に背いて楚に附くようなら)長くて十年でしょう。それ以上生きたら晋の禍になります。」
この年、趙文子が死に、諸侯が晋から離れ始め、十年後(東周景王十三年・前532年)平公が死にます
 
 
 
次回に続きます。