春秋時代192 東周景王(十四) 趙武の死 前541年(6)

今回も東周景王四秋の続きからです。景王四年が終わります。
 
[十五] 邾が悼公を埋葬しました。
 
[十六] 楚の公子・囲が公子・黒肱(子晳。公子・囲の弟)と伯州犁に命じ、犨、櫟、郟に築城させました。
三邑とも元々鄭の地だったため、鄭人が恐れましたが、子産がこう言いました「害はない。令尹(公子・囲)は大事を成すために二子を除こうとしているのだ。禍が鄭に及ぶことはない。」
 
冬、楚の公子・囲が鄭を聘問することにしました。伍挙が介(副使)になります。しかし楚の国境を越える前に楚王・麇が病に倒れたと聞き、公子・囲は引き返しました。伍挙が鄭を聘問します。
 
十一月己酉(初四日)、公子・囲が楚都に還り、王の病状を聞くという名目で王宮に入って、楚王を縊殺しました。楚王の二子である幕(または「」)と平夏も殺されます。
右尹・子干(王子・比)は晋に出奔し、築城のため外にいた宮厩尹・子晳(公子・黒肱)はそのまま鄭に出奔しました。大宰(太宰)・伯州犁は郟で殺されます。
楚王・麇は郟に埋葬され、郟敖とよばれるようになりました。正式な諡号はなく、埋葬された地名(郟)が使われています。「敖」は当時の南方の言葉で「族長」の意味、または「陵(例えば楚王・麇は郟の地に埋葬されたので、郟地の墓陵に眠る人という意味で「郟敖」とよばれた)」の意味といわれています。
郟敖の在位年数は四年でした。
 
公子・囲は鄭に使者を送って郟敖の訃告を届けました。
鄭を聘問中の伍挙が、訃告文の後継者に関する部分を問うと、楚の使者は「寡大夫(寡国の大夫)・囲」と答えました。
伍挙はそれを「年長者である共王の子・囲(「共王之子・囲為長」。直訳は「共王の子・囲を長とする」)」と改めさせました。
 
子干が晋に入りました。従う車は五乗だけです
晋の叔向は子干を秦の公子・鍼(后子)と同列にし、百人の餼を禄として与えることにしました。「百人の餼」というのは直訳すると百人の食糧という意味です。百人は一卒といい、上大夫は一卒の田(百畝)の収穫を秩禄としました。二人の公子は上大夫と同等の待遇を受けたことになります。
 
趙武が「秦の公子の方が富を持っているではないか」と言うと、叔向が答えました「俸禄とは徳を元にして決められ、徳が同じなら年を根拠とし、年が同じなら尊卑(地位)を根拠とするものです。(他国から出奔してきた)公子は国の大小によって禄が決められるものであり、本人の富で決めるとは聞いたことがありません。そもそも、千乗の車を率いて自分の国を去るのは豪強すぎます。『詩(大雅・烝民)』にはこうあります『弱者を虐げず、強者を畏れない(不侮鰥寡,不畏彊禦)。』秦と楚は同格の国なので、出奔した者の待遇も同格にするべきです。」
 
晋が后子と子干を同列にすると、后子が辞退して言いました「鍼(私)は放逐されることを畏れ、楚の公子は国君に疑われたので出奔してきました。どちらも晋の命に従う立場にいます。しかし、臣と羈(客)が同列になることはできません(后子は先に来たので自らを晋の臣下としています。晋に来たばかりの子干は客になります)。史佚西周の史官)は『客ではないのに、なぜ敬わなければならない(『非羈,何忌。』客は敬わなければならない、と言う意味です)』と言いました。」
后子は子干を尊重するよう叔向に勧めました。
 
以上、『春秋左氏伝(昭公元年)』を元にしました。『国語・晋語八』にも記述があります。
秦后子が晋に出奔して士官した時は、千乗の車を擁していました。楚の公子・干(公子・比)が来た時は、五乗の車しかありませんでした。当時、叔向が太傅を勤めて賦禄の管理をしていたため、韓宣子(韓起)が叔向に二公子の禄について相談しました。
叔向が言いました「大国の卿は一旅(五百頃)の田を有し、上大夫は一卒(百頃)の田を有すものです。二公子は上大夫なので、どちらも一卒になります。」
宣子が問いました「秦の公子は富がある。なぜ均一にするのだ?」
叔向が言いました「爵とは職によって決められ、禄とは爵の高低によって決められ、徳によって与えられ、功庸(功績)と釣り合いが取れていなければなりません。なぜ富を基準に禄を与える必要があるのですか。絳(晋都)の富商は、韋藩(体の前後を隠すだけの服)を着て、木楗(荷物を運ぶために肩に担ぐ道具)を担いで朝廷の前を通ります。これは功庸が少ないからです。しかし彼等の財は車を金玉で飾り、刺繍をした衣服を着ることができるほどです。富があって財貨によって諸侯と通じながら、国からの禄が全く与えられないのは、民に対して大きな功績が無いからです。そもそも、秦と楚は同格の国です。富によって待遇を変える必要はありません。」
二人の禄は同等になりました。
 
[十七] 『資治通鑑外紀』はここで『国語』『新序』等から晋の趙武の故事を紹介しています。
まずは『国語・晋語』です。
趙文子(趙武)が室(家)を建てた時、椽(屋根を支える横木)に使う木を伐り、樹皮を削って磨きました。
夕方、張老が文子の家を見に行きましたが、文子に会わずに返りました。それを知った文子は車を駆けさせて追いかけ、張老にこう問いました「私に不善があったら、子(あなた)はそれを告げるべきです。なぜすぐ帰るのですか。」
張老が言いました「天子の室は椽の樹皮を削ってから粗磨きをし、更に密石(細かい凹凸がある石)で磨いて光沢をつけます。しかし諸侯は粗磨きだけ、大夫は樹皮を削るだけ、士は椽の頭を切りとるだけです。使う物が適切であることを義といいます。尊卑の等級に従うことを礼といいます。今、子は尊貴な地位に立って義を忘れ、富貴を得て礼を忘れています。だから私は禍を受けることを恐れ、何も告げませんでした。」
文子は家に帰ると磨くのを止めさせました。匠人が椽を全て荒削りの状態に戻すべきか問うと、文子はこう言いました「磨いた物はそのままでよい。後世の人に見せるためだ。荒削りの椽は仁の者が作ったものだ。磨いた椽は不仁の者が作ったものだ。」
 
次は『新序・雑事一』からです。
文子が叔向に聞きました「晋の六将軍(六卿)で、誰が先に滅ぶだろう?」
叔向が言いました「中行氏です。」
文子がその理由を問うと、叔向はこう答えました「中行氏の政治は、苛(苛烈)を察(明察)とし、欺(詐術)を明(英明)とし、刻(刻薄)を忠とし、計(謀略)が多いことを善とし、聚歛(民の財を集めること。重税)を良としています。これは皮革を引っ張るのと同じで、大きくすることはできますが、最後は引き裂かれます。だから早く滅亡します。」
 
淮南子・道訓篇』にもほぼ同じ話がありますが、中行氏と知氏が批判されています。
文子が叔向に問いました「晋の六将軍で、誰が先に滅ぶだろう?」
叔向が言いました「中行氏と知氏です。」
文子がその理由を問うと、叔向はこう答えました「彼等は苛(苛烈)を察(明察)とし、切(厳格)を明(英明)とし、下に対して刻(刻薄)であることを国君に対する忠とし、計(謀略)が多いことを功としています。これは皮革を力いっぱい引き延ばしているのと同じで、大きくすることはできますが、最後には裂けてしまいます。」
 
[十八] 楚の公子・囲が即位し、熊虔(または「熊乾」)に改名しました。これを霊王といいます。
(字は子蕩)を令尹に、疆を大宰(太宰)に任命しました。
 
鄭の游吉が楚に入り、郟敖の葬礼に参加してから霊王の即位を祝って聘問しました。
帰国後、子産に言いました「外出の準備をするべきです。楚王は驕慢奢侈で、自分の行動に自信を持っているので、必ず諸侯を糾合します。すぐ楚が開く会に参加することになるでしょう。」
しかし子産はこう言いました「数年経たなければ、会を開くことはできないだろう。」
三年後の東周景王七年(前538年)に申で会が開かれます。
 
[十九] 十二月(誤りの可能性があります。下述)、晋が烝(冬の祭祀)を行いました。
その後、趙武が南陽に行き、孟子餘の祭祀の準備をしました。子餘は趙衰の字で、「孟」は趙氏の主につける字です(例えば趙衰、趙盾、趙武等は「趙孟」とよばれています)。温に孟子餘の廟がありました。
甲辰朔(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の十二月の朔日は甲辰にならないようです)、趙武が温で烝孟子餘の祭祀)を行いました。
もしも十二月の朔日(初一日)に趙武が烝祭を行ったのだとしたら、国の烝を行ってから家の烝を行ったはずなので、晋が国の烝を行ったのは十二月よりも前の月になります。
 
庚戌(甲辰が朔日だとしたら初七日)、趙武が死にました。諡号を文子といいます。
史記・趙世家』によると、趙成が趙武を継ぎました。趙成は景叔(または「景子」)とよばれます。
鄭簡公が弔問のため晋に向かいましたが、大夫の弔問に国君が参加するのは相応しくないため、趙氏が弔問を断りました。鄭簡公は雍に至って引き返しました。
 
後に、晋平公が九原(晋の卿大夫の墓地)に行きました。『新序・雑事四』からです。
平公が九原で嘆息して言いました「この地には我が良臣が多数眠っている。もしも死者を起こすことができるなら、誰と共に帰るべきだろう。」
叔向が言いました「趙武はどうですか?」
平公が言いました「子(汝)は師(上司。趙武)の肩を持ちたいのだろう。」
叔向が言いました「人々は趙武をこう評価しています。趙武が立ったら衣服の重さにも堪えることができず、その言葉は口から出ないようでした(衣服の重さにも堪えられないほど虚弱で、声も小さかったという意味です)。しかし彼は白屋(平民の家。ここでは趙武自身の家)で四十六人の士を抜擢し、それらの士は全て趙武を満足させ、公家も彼等に頼っています。文子が死んでからは、四十六人とも賓客の席に就きました(葬礼の際、四十六人は趙武の家臣ではなく、賓客の席にいました。趙武は優秀な人材を趙氏だけの家臣にしなかったという意味です)。これは文子に私徳(私欲)が無かったからです。だから臣は文子を賢人だと思うのです。」
平公は納得して「よし(善)」と言いました。
ほぼ同じ話が『韓非子・外儲説左下』にも見られます。
 
しかし『国語・晋語八』には趙文子(趙武)と叔向の会話として似た内容の故事が紹介されています。
趙文子が叔向と九原に巡遊して言いました「死者が復活できるとしたら、誰と帰るべきだろう?」
叔向が言いました「陽子(陽処父)はどうですか。」
文子が言いました「陽子は晋国において廉直(剛直で計が無いこと)だったため、禍から逃れられなかった狐射姑に殺されました)。その智謀は称賛できない。」
叔向が言いました「舅犯(狐偃)はどうですか。」
文子が言いました「舅犯は利を見て主君を顧みようとしなかった(文公と共に亡命生活を送りましたが、帰国する時に去ろうとしました)。その仁は称賛することができない。随武子(士会。随は食邑)がいいだろう。彼は諫言を受け入れて自分の師を忘れたことがなく(師に意見を求め)、自分の事(善行や功績)を語っても友の善を忘れたことがなく、国君に仕えたら身内を優先せず賢人を進め、国君に阿諛せず不肖の者を退けることができた。」
 
 
 
次回は景王五年です。