春秋時代193 東周景王(十五) 鄭・子晳の死 前540年

今回は東周景王五年です。
 
景王五年
540年 辛酉
 
[] 春、晋平公が韓起(韓宣子。韓子)を魯に送って聘問しました。魯昭公が前年即位したばかりだからです。併せて晋の趙武が死に韓起が執政することが魯に伝えられました。
 
韓起が魯の大史(太史)を訪ねて『易周易』『象政令』『魯春秋史書』を読み、こう言いました「周の礼は全て魯にあります。私は今やっと周公の徳と周が王になれた理由を知ることができました。」
 
魯昭公が韓起を享に招きました。立ったまま行う宴の一種です。
季孫宿(季武子)が『緜詩経・大雅)』の末章を賦しました。西周文王に優れた臣下がいたことを歌っており、文王を晋君、優れた臣下を韓起に喩えています。
韓起は『角弓(小雅)』を賦しました。兄弟の和睦を歌っています。
季孫宿が拝礼して言いました「子(あなた)(兄弟として)敝邑の欠点を補ってくださるので、敢えて拝させていただきます。寡君にも望(希望)があります。」
季孫宿は『節(小雅・節南山)』の末章を賦しました。詩の最後に「万国を隆盛させる(以畜万邦)」とあり、「万国が晋の徳によって恩恵を受ける」という意味で引用しました。
 
昭公の享が終わると、季氏の家で酒宴が開かれました。一本の美しい木があったため、韓起が称賛すると、季孫宿が「『角弓(韓起が賦した詩)』を忘れないために、この木を大切に育てます」と言って『甘棠(召南)』を賦しました。西周の賢臣・召公を称える詩です。
韓起が言いました「起(私)には召公に及ぶことができません。」
 
[] 韓起は魯を去って斉に行きました。晋平公の婚姻のために、幣(財礼)が贈られます。
韓起が子雅に会うと、子雅は自分の子の旗を招いて韓起に会わせました。ところが韓起は「彼は家を守る主ではなく、臣としてもふさわしくありません」と評価しました。
韓起が子尾に会うと、子尾も子の彊を招きました。韓起は子旗に言った内容と同じ評価をします。
多くの大夫が韓起を笑いましたが、晏嬰晏子だけは信じてこう言いました「夫子(彼。韓起)は君子だ。君子には信がある。その判断には根拠があるはずだ。」
 
[] 韓起は斉から衛に行きました。聘問が終わると衛襄公が享礼でもてなします。
北宮佗(文子)が『淇澳詩経・衛風)』を賦しました。衛武公を称賛した詩で、韓起には武公に匹敵する徳があるという意味がこめられています。
韓起は『木瓜(衛風)』を賦しました。木瓜をくれたら美玉でお礼をするという詩で、衛の友好に厚く報いることを意味しています。
 
[] 夏四月、晋の韓須(韓起の子)が斉に入って晋平公に嫁ぐ女性・少姜を迎えました。
斉は陳無宇に命じて少姜を晋まで送らせます。
少姜は正夫人ではありませんが、平公の寵愛を受けて「少斉」とよばれるようになりました。通常、女性は姓でよばれるものですが、国名の「斉」でよばれたのは、普通とは異なる愛され方をしていたことを示します。
 
少姜を送って来た陳無宇が卿ではなかったため、平公は陳無宇を捕えて中都(晋の邑)に監禁しました。本来、卿が送るのは正妻のはずですが、平公は正妻と同じ礼を用いなかったことに不満だったようです。
少姜が陳無宇のために言いました「送る人と迎える人の地位は同等のはずですが、大国を畏れるから変更があり、その結果、混乱が生まれるのです。」
迎えに行った韓須は公族大夫で、送って来た陳無宇は上大夫なので、陳無宇の方が上です。しかし斉は晋を大国とみなして陳無宇を派遣しました。その結果、混乱が生まれたので、「韓須よりも身分が高い陳無宇は、本来、来るべきではなかった。それなのに晋に来たから逮捕された」とわざと曲解しています。平公の不満を解くためです。
 
[] 魯の叔弓(子叔子)が晋を聘問しました。韓須の聘問に応えるためです。
晋平公が使者を送って郊外で労おうとしましたが、叔弓が辞退して言いました「寡君は旧好を継続させるために弓(私)を派遣し、こう命じました『汝は賓客になってはならない。』寡君の命を執事(晋君)に送ることができれば、それだけで敝邑の弘(光彩)になります。郊使(郊外で賓客を迎える晋の役人)を煩わせるわけにはいきません。」
平公が叔弓を賓館に住ませようとすると、叔弓はこう言いました「寡君は下臣に旧好を継続させることを命じました。好が結ばれ使命を完遂できたら、臣の福禄というものです。大館に入ることはできません。」
 
叔向が言いました「子叔子は礼を知っている。『忠信は礼の器。卑譲は礼の基本(忠信,礼之器也。卑讓,礼之宗也)』という。言辞が国を忘れないのは忠信である。先に国を語って自分を後にするのは(先に「敝邑の弘」と言い、後から「臣の福禄」と言いました)卑讓である。『詩(大雅・生民)』には『威儀を慎んで用いれば、徳がある人と親しくなる(敬慎威儀,以近有徳)』とある。夫子(彼)は徳に近づいている。」
 
[] 秋、鄭の公孫黒(子晳)が游氏(游吉)を除いてその地位を奪うことを考えていましたが、前年負った怪我のため、実行できずにいました。
その間に駟氏と諸大夫が公孫黒を殺そうとしました。公孫黒も駟氏に属しますが、駟氏は公孫黒の横暴が一族に禍をもたらすことを畏れたようです。
この時、子産は辺境にいましたが、情報を聞くと遽(伝車)で急いで帰りました。
 
鄭都に還った子産が官吏に公孫黒の罪状を宣言させました。その内容はこうです「伯有の乱(東周景王二年・前543年)の時は、大国の事があったので(大国に仕えて忙しかったので)、汝を討伐しなかった。しかし汝の乱心が尽きることないので、国は汝を許容できなくなった。汝が専権して伯有を討ったのは一つ目の罪である。昆弟(兄弟)で室(妻)を争ったのは(前年。公孫楚との対立)、二つ目の罪である。薫隧の盟(前年)で君位(君子の地位)を偽ったこと(六人の会に強引に参加して「七子」と記録させたこと)は三つ目の罪である。死罪が三つもあるのだから、逃れることはできない。速やかに死ななければ大刑(死刑)が到ることになる。」
公孫黒が再拝稽首して言いました「死は朝夕に迫っているので(前年、負傷したためです)、天を助けて自分を虐する必要はありません(天が私を負傷させて殺そうとしています。私が自ら死んで天を助ける必要はありません)。」
子産が言いました「人は誰でも死ぬが、凶人は善い終わりを迎えることができない。これは命(天命)だ。凶事を行った者は凶人である。天を助けず凶人を助けるというのか。」
公孫黒は子の印を褚師(市官)に任命するように請いました。しかし子産はこう言いました「印に才があれば国君が任命する。不才ならば朝夕には汝に従うことになる。汝は自分の罪を心配せず、何を請おうというのだ。速く死ななければ司寇(法官)によって裁かれることになる。」
七月壬寅(初一日)、公孫黒は首を吊って死にました。
その死体は周氏(地名)の衢(大通り)に晒され、罪状を書いた木が立てられました。
 
[] 晋平公に嫁いだばかりの少姜が死にました。
魯昭公が弔問のため晋に向かいましたが、黄河まで来た時、晋平公が士伯瑕士文伯)を送ってこう伝えました「正妻ではないので弔問は不要です。」
昭公は引き返し、季孫宿に少姜の襚服(死者の服)を届けさせました。
 
叔向が陳無宇を助けるために、平公に言いました「彼に何の罪があるのですか。主公は公族(大夫)に迎えに行かせ、斉は上大夫を使って送ってきました。それでも不恭というのなら、主公は貪欲すぎます。我が国自身が不恭なのに、他国の使者を捕えるようでは、主公の刑は偏っています。これで盟主でいられますか。それに、少姜の言葉(陳無宇を釈放するように勧めた話)も残されています。」
 
冬十月、陳無宇が国に帰されました。
 
十一月、鄭の印段が晋に入り、少姜の弔問をしました。
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この年、蔡で漆離開が産まれました。後に孔子の弟子となる人物です。
孔子家語・七十二弟子解』には「漆離開は蔡人で、字は子若。孔子より十一歳年下」とあります。
 
 
 
次回に続きます。