春秋時代195 東周景王(十七) 晋鄭の外交 前539年(2)

今回は東周景王六年の続きです。
 
[] 夏四月、鄭簡公が晋に行きました。公孫段(伯石。豊氏)が相を勤めます。
公孫段の態度は恭敬で相手にへりくだり、礼に背くことがありませんでした。晋平公は公孫段を称賛し、策書(賜命の書)を与えて言いました「子豊(公孫段の父)は晋に対して功労があり、余はそれを忘れたことがない。汝に州県(地名)の田(土地)を下賜し、旧勳に報いよう。」
公孫段は再拝稽首し、策書を受け取って退出しました。
 
君子はこう言いました「礼とは人が生きるにあたって最も必要なことであろう。伯石(公孫段)は驕慢だが(公孫段は偽って三回卿の地位を辞退したため、子産に嫌われています。東周景王二年・前543年参照)、晋で一度礼を行っただけで、このような福を得ることができた。終始、礼を行っていたら、更に大きな福を得ることができただろう。」
 
以前、州県は晋の欒豹(欒盈の親族)の邑でしたが、欒氏が滅ぶと士范宣子)、趙武(趙文子)、韓起(韓宣子)が自分の邑にしようとしました。趙武が言いました「温は私の県です。」
温と州は元々周に属す二つの邑でしたが、晋領になってから、一時は温に統一されていたようです。温は趙氏の邑なので、趙武はかつて温に属した州も自分の邑とする権利があると主張しました。
二宣子(士と韓起)が言いました「郤称が温と州を分けてから、既に三氏に伝わりました(州が温と分かれてから、最初は郤称の邑となり、その後、趙氏、欒氏と主が変わったようです)。晋で県が分けられたのも、州だけではありません。(多くの県邑の姿が変わっているのに)以前の状況で現在の邑を治めるというのですか?」
趙武は二人の意見を聞いて反省し、州県をあきらめました。
しかし二宣子も「口では正議(正論)を述べながら、利を自分のものにするべきではない」と言って州県の領有をあきらめます。
後に趙武が政事を行うようになると、趙獲(趙武の子)が言いました「州を取ることができます。」
すると趙武が言いました「退きなさい。二子の言は義である。義に背けば禍を招く。余は余の県を治めることもできないのに、州を得て自ら禍を招けというのか。君子は『禍を知らないのは難しい(「弗知実難。」禍は事前に知ることができる)』と言った。正しいと知りながら従わないことほど、大きな禍はない。今後、州について語る者がいたら死刑にする。」
 
公孫段は晋に滞在中、公館に泊まらず、韓氏の家に住んでいました。国が準備した賓館を「公館」、知人等の家を「私館」といいます。
州県が公孫段に下賜されたのは、公孫段と親しい韓起が平公に進言したためです。但し、韓起が公孫段を推した真の原因は、後に公孫段が州県を晋に返すことになったら、韓起の邑にすることができるからです。実際、四年後に州県が韓起に譲られることになります。
 
[] 五月、滕成公の葬儀に参加するため、魯の叔弓(敬子)が滕に向かいました。子服椒(恵伯)が介(副使)になります。しかし郊外で子服椒の父・叔仲(懿伯)の死去を知ったため、叔弓は滕に入るのを止めました。父母が死んだ時はその死を悼んで何もしないことが礼とされましたが、もし正使の叔弓が滕に入ったら、副使の子服椒が郊労(郊外で慰労を受けること)や賓館の手配等の業務をすることになるからです。
しかし子服椒はこう言いました「公事は公の利を考えるべきであり、私忌は関係ありません。椒(私)が先に行くことをお許しください。」
子服椒は先行して滕国による授館(賓館の手配)を受け入れ、宿泊の手配を済ませます。
その後、叔弓も滕に入って、滕成公を葬送しました。
 
[] 晋の韓起が斉女を迎えに行きました。
少姜が平公の寵を受けていたため、斉の公孫蠆(子尾)が自分の娘を公女として晋に送り、本物の公女は別の者に嫁がせました。
ある人が韓起に言いました「子尾は晋を騙しています。なぜこれを受け入れるのですか?」
韓起が言いました「わしが斉を得ようとしているのに、斉君の寵臣(子尾)を遠ざけたら、斉の寵臣がわしに近づかなくなるだろう。」
 
[] 秋七月、鄭の罕虎(子皮)が晋に入って夫人を祝賀し、あわせてこう報告しました「楚人が敝邑に対して、新王が立ったのに朝見しないことを日々譴責しています。しかし敝邑が楚に行ったら、執事(晋の執政官)が寡君の外心を疑うのではないかと恐れています。逆にもし行かなかったら、宋の盟(中小国は晋・楚両大国に朝見する盟約)に背くことになります。これでは進退ともに罪を得てしまうので、寡君は虎(私)を派遣してこれらのことを報告させました。」
韓起が叔向を送ってこう答えました「貴君の心が本当に寡君にあるのなら、楚を恐れることはありません。宋の盟を修めるだけです。貴君が盟約のことを思っているのなら、寡君は貴君が罪から逃れられることを知っています。しかしもしも貴君の心に寡君がないようなら、たとえ朝夕に敝邑を訪問したとしても、寡君は貴君を疑うでしょう。貴君に誠意があるのなら、敢えて報告する必要はありません。貴君は楚に行くべきです。心の中に寡君がいるのなら、たとえ楚にいても晋にいるのと同じです。」
 
晋の張趯が使者を送って鄭の游吉(大叔)に言いました「前回、子(あなた)が帰国してから、小人()は先人の敝廬(粗末な家)を掃除して、子が再び来るのを待っていました(春、游吉が「また来ることになる」と言ったからです)。しかし今回は子皮が来たので、小人は失望しました。」
游吉が言いました「吉(私)は身分が低いので(上卿ではないので)、来ることができませんでした。これは大国を畏れ、夫人を尊ぶからです。それに、孟(張趯)は『あなたは無事でしょう(再び来る必要はないでしょう)』と言いました。恐らく私にはやるべき事がありません(晋国を訪問する必要がなくなりました)。」
 
[] 小邾穆公が魯に来朝しました。
季孫宿(季武子)が小邾を軽視し、わざと諸侯の礼を用いないで対応しようとしましたが、叔孫豹(穆叔)が言いました「いけません。曹、滕と二邾(邾国と小邾国)は我が国との友好を忘れたことがありません。敬意をもって迎え入れたとしても、尚、二心を抱くことを畏れるものなのに、敢えて一国を見下して対応したら、友好関係にある多くの国を迎え入れることができなくなります。今まで通り、敬意を加えなければなりません。『志(佚書)』には『恭敬なら災禍がない(能敬無災)』とあり、『来る者を敬意を持って迎え入れれば、天が福を降す(敬逆来者,天所福也)』ともあります。」
季孫宿はこれに従いました。
 
[] 八月、魯で大雩(雨乞いの儀式)を行いました。旱害があったためです。
 
[] 斉景公が莒で狩猟を行いました。
この時、盧蒲(慶封の党として追放されていました。東周霊王二十七年・前545年参照)が景公に謁見し、泣いて言いました「私の髮はこのように短くなりました(年をとりました)。私に何ができるでしょう。」
景公は「分かった。二子(子雅と子尾)に話してみよう」と言って帰り、二人に話ました。
子尾は帰ることに賛成しましたが、子雅は反対してこう言いました「彼の髮は短くても、心は長いので(策略陰謀を考えることができるので)、彼が我々の皮の上で寝ることになるかもしれません(謀反して子雅等を殺す恐れがあるという意味です。盧蒲がかつて子雅と子尾を禽獣に喩えたことに対応しています。東周霊王二十七年・前545年参照)。」
 
九月、子雅が盧蒲北燕に追放しました。
 
[十一] 冬、魯で大雹が降りました。
 
[十二] 燕簡公は嬖寵(寵臣)が多く、諸大夫を退けて寵人に官位を与えようとしました。
冬、燕の大夫が連合して簡公の外嬖(寵臣)を殺しました。
簡公は斉に出奔しました。

以上は『春秋左氏伝(昭公三年)』の記述です。
史記・燕召公世家』では「簡公」は「恵公」と書かれています。また、『燕召公世家』は「恵には姫が多く、恵諸大夫を排斥して寵姫・(の家族)を抜擢しようとしたため、大夫に姫を誅殺した」としています。
恵公は在位六年で斉に出奔しました
 
[十三] 十月、鄭簡公が楚に朝入し、子産が相を勤めました。
楚霊王が享礼で鄭簡公を遇し、『吉日詩経・小雅)』を賦しました。西周宣王の狩猟の詩で、楚霊王は鄭簡公を狩猟に誘うためにこの詩を選びました。
享が終わると、子産が狩猟の準備を整え、楚霊王と鄭簡公が江南の夢(雲夢。地名)で狩りをしました。
 
[十四] 斉の公孫竈(子雅)が死にました。
大夫・司馬竈が晏嬰に会って言いました「子雅を失いました。」
晏嬰が言いました「惜しいことです。子旗(子雅の子)は危険から逃れられないでしょう。姜族(斉の公族)が弱くなり、嬀姓(陳氏)が興隆し始めます。二恵(恵公の孫二人。子雅と子尾)は剛強で聡明でしたが、そのうちの一人を失ったのですから、姜族は危険です。」

[十五] 『史記・魯周公世家』はこの年(魯昭公三年)に「昭公が晋を朝見しようとしたところ、晋平公に入朝を拒否されたため、黄河に至って引き返した。魯はこれを恥とした」と書いています。
『春秋』はこれを前年(魯昭公二年)の事としており、おなじ『史記』でも『十二諸侯年表』は前年に書いています。
 
 
 
次回に続きます。