春秋時代196 東周景王(十八) 晋楚の外交 前538年(1)

今回から東周景王七年です。三回に分けます。
 
景王七年
538年 癸亥
 
[] 春正月、許悼公が楚に行きました。楚霊王は許悼公と鄭簡公(前年入朝しました)を楚に留め、再び江南で狩りを行いました。許悼公も狩りに参加します。
 
楚霊王が諸侯の帰順を得るため、椒挙(伍挙)を晋に派遣しました。二君(鄭伯と許男)には椒挙の帰国を待つように命じます。
椒挙が楚霊王の言葉を晋に伝えました「寡君が挙(私)を派遣して貴国にこう伝えさせました『以前、貴君の恩恵によって宋の盟が成立し、晋楚の両国に対して、(諸侯を)交互に朝見させることが約束されました。しかし近年、楚国は難が多いため、寡人(楚王)は二三君(いくつかの諸侯)と誼を結びたいと考えています。』もし貴君に四方の虞(憂い)がないようなら、貴国の寵(威光)によって諸侯を動かしていただきたいと思います(表面上は「楚が苦しい状況にいるので、諸侯の助けを得たく、晋から諸侯に働きかけてほしい」ととれますが、実際は「楚が諸侯を集めて盟主になることに、晋が同意してほしい」という意味です)
晋平公は要求を拒否しようとしましたが、司馬侯が言いました「いけません。あるいは、楚王が驕慢になっているのは天が楚王の欲を満足させて、ますますその毒を厚くし、罰を与えようとしているのかもしれません。またあるいは、その逆に楚王が善い終わりを得ることになるかもしれません。晋も楚も天によって覇権が与えられたので、互いに争うべきではありません。主君は楚の要求に同意し、徳を修めて結末を見極めるべきです。もしも楚王が徳に帰するようなら、我々はそれに仕える必要があります。諸侯ならなおさらです。もしも楚王が淫虐に向かうのなら、楚が自ら覇を棄てることになるので、我々が争う必要はありません。」
平公が言いました「今の晋には三つの不殆(危険から逃れる理由)があり、我が国と敵対できる者はいない。国は険阻で馬も豊富であり、斉と楚は多難である。この三者がそろっていれば、どこに向かっても失敗することはないではないか。」
司馬侯が言いました「険要と馬に頼り、隣国の難を喜ぶのは、三殆(三つの危険)というものです。四嶽(泰山・華山・衡山・恒山)、三塗(三塗山。または太行・轘轅・崤澠の総称)、陽城(城山嶺)、大室(嵩山)、荊山、中南(終南山)は九州の険ですが、それを領有した姓(国)は一つではありません(険阻な地を擁しても守ることができず、何回も統治者が変わってきました。険阻な地形は頼りになりません)。冀の北土冀州の北。燕や代の地)は馬を産出しますが、有力な国が興ったことはありません(よって、馬が多くても頼りになりません)。険要と馬に頼っても、国を固めることができないのは、古から変わらないことです。だから先王は徳音(徳行と名声)を修めて神と人を通じさせたのです。険要と馬に力を注いだとは聞いたことがありません。
隣国の難を喜ぶべきではありません。多難な国は、あるいは多難なために国を固め、疆土(領土)を拡げるかもしれません。逆に平穏な国は、難がないために国を滅ぼし、守宇(領土)を失うかもしれません。なぜ隣国の難を喜ぶことができるでしょう。斉は仲孫(公孫無知)の難があったので、桓公が即位し、その功績に今も頼っています。晋は里(里克)・丕(丕鄭)の難があったので、文公が即位して盟主になれたのです。逆に衛や邢は難がなかったのに敵に滅ぼされました。だから他者の難は喜んではいけないのです。
この三者に頼り、政徳を修めなかったら、滅亡は近いでしょう。なぜ成功することができますか。主君は楚に同意するべきです。紂は淫虐を行い、文王は恵和を行ったので、殷が滅んで周が興隆したのです。諸侯を争ったからではありません。」
平公は楚の要求を受け入れることにしました。
 
晋の叔向が椒挙に答えました「寡君は社稷の事があり、自ら春秋(四季)の会見に行くことができません(謙遜の言葉です。実際には、元々晋侯自ら楚王に会いに行く必要はありません)。諸侯は貴君が実際に擁しています。なぜ(晋の)命を求める必要があるでしょうか(晋の同意は必要ありません)。」
椒挙が晋に婚姻を求めると、晋平公はこれにも同意しました。椒挙が楚を出る時、楚霊王は晋女との婚姻の話もするように指示していたようです。
 
楚霊王が楚に留めている子産に聞きました「晋は諸侯がわしに帰順することを許すだろうか。」
子産が言いました「許すでしょう。晋君は目先の安定を求め、志は諸侯になく、大夫は貪婪で、その君を正そうとしません。また、宋の盟では楚・晋が一つになることを誓いました。もしも貴君に同意しなかったら、(盟約の)意味がありません。」
楚霊王が問いました「諸侯は来るだろうか?」
子産が答えました「必ず来ます。宋の盟に従い、貴君の歓心を求め、大国(晋)を畏れる必要がないのですから、来ないはずがありません。但し、魯、衛、曹、邾は来ないでしょう。曹は宋を畏れ、邾は魯を畏れ、魯と衛は斉の圧力を受けているため晋と親しくしています。よってこれらの国は来ないでしょう。その他の諸侯は、貴君が到る所なら必ず来ます。」
霊王が問いました「それでは、わしが望むことなら全て実現するのか?」
子産が答えました「人から満足を得ようとしたら、(その人が反発するので)失敗します。他の人と欲(願い)を同じにしたら、全て成功します。」
 
[] 魯で大雹が降りました。
季孫宿(季武子)が申豊(季氏の大夫)に聞きました「雹を防ぐことができるか?」
申豊が答えました「聖人が上にいれば、雹はなくなります。たとえあったとしても、災害にはなりません。古は日(太陽)が北陸(虚宿と危宿)にいる頃小寒大寒の頃)、藏冰(氷を蓄えること)し、西陸(昴宿と華宿)が朝現れる頃清明穀雨の頃。夏暦四月頃)、蓄えた氷を取り出しました。藏冰の時は、深い山谷に陰寒の気が固まるので、そこから氷を採ったのです。蓄えた氷を出す時は、朝廷に禄位の人(卿大夫士)がおり、賓(賓客をもてなすこと)、食(国君の食事)、喪(葬儀)、祭(祭祀)を行うために氷を使いました。藏冰の時は、黒牲(黒羊)、秬黍(黒黍)を用いて司寒(冬神。黒は冬と北の色です)を祀りました。氷を出す時には、桃弧(桃木の弓)、棘矢(荊の矢)を使って災害を除きました(お祓いをしました)。氷を蓄える時も出す時も、決まった時節があり、食肉の禄(肉を食べることができる官吏)は皆、氷を使うことができ、大夫と命婦(大夫の妻)が死んだら氷を床の下に敷きました(死体の腐敗を防ぐためです)。司寒を祭って氷を蓄え、羔(子羊)を供えて冰室を開き、公(国君)が初めに氷を使いました。火(大火星。火星)が出たら(夏暦三月頃)氷を分配し、命夫(大夫)命婦(大夫の妻)も老疾(老人・病人)も、氷を受け取らない者はいませんでした。山人(山を管理する官)が深山で氷を採り、県人(地方の人。または地方官・県正)がそれを運び、輿人(賤官)がそれを納め、隸人(賤官)がそれを収蔵しました。氷は寒風によって堅固になり、春風によって取り出されるようになります。その保管は周密で、用いる時は偏りがないので、冬には愆陽(夏のように暑い日)がなく、夏には伏陰(冬のように寒い日)がなく、春には淒風(寒風)がなく、秋には苦雨(長雨)がなく、雷が鳴っても人を傷つけず、霜や雹が降っても災害をもたらさず、癘疾(疫病)が流行らず、民は夭札(伝染病で早死すること)がなかったのです。しかし今は、川池の氷を蓄えても用いず、風がなくても草木が枯れ落ち、雷が鳴らなくても震動しています(被害が出ています)。雹の災害を誰が防げるでしょうか。『七月詩経・豳風)』の末章は藏冰の道理を語っています(『七月』の解説は省略します)。」
 
 
 
次回に続きます。