春秋時代197 東周景王(十九) 申の会 前538年(2)

今回は東周景王七年の続きです。
 
[] 夏、諸侯が楚に入りましたが、魯、衛、曹、邾は会見に参加しませんでした。曹と邾は国難(国が安定していないこと)を理由にし、魯昭公は時祭(祖先の祭祀)を理由にし(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・魯周公世家』では病を理由としています)、衛襄公は病を理由にしました。
楚に留められていた鄭簡公が申の地で諸侯を待ちました。
 
六月丙午(十六日)、楚子(霊王)、蔡侯(霊侯)、陳侯(哀公)、鄭伯(簡公)、許男(悼公)、徐子、滕子、頓子、胡子、沈子、小邾子と宋の世子・佐(遅れて来ました)および淮夷が申で会しました(『史記・鄭世家』は「鄭君のため、産を送って諸侯と会させ、で盟を結んだ」としています)
椒挙(伍挙)が霊王に言いました「諸侯は礼があるところに帰すといいます。今、主君は初めて諸侯を得たので、礼を慎重に行うべきです。霸業が成功するかどうかは、この会にかかっています。夏啓(夏王啓)には鈞台の享(宴)があり、商湯(商王成湯)には景亳の命があり、周武西周武王)には孟津の誓があり、成西周成王)には岐陽の蒐(狩猟)があり、康西周康王)には酆宮(豊宮。文王廟)の朝(朝会)があり、穆西周穆王)には塗山の会があり、斉桓(斉桓公には召陵の師があり、晋文(晋文公)には践土の盟がありました。主君はどの礼を用いるつもりでしょうか。今回、宋の向戌と鄭の公孫僑(子産)が来ており、二人とも諸侯の良臣です。主君は彼等の意見を聞くべきです。」
霊王は「わしは斉桓の礼(斉桓公が諸侯を糾合した時の儀礼。覇者の礼)を用いる」と言い、使者を送って向戌と子産の意見を聞きました。
向叔は「小国が礼を習い、大国がそれを使うものです。謹んで意見を申し上げます」と言うと、公(公爵。盟主)が諸侯と会見する時の六礼(六種の儀礼。詳細は不明です)を教えました。
子産も「小国は共に大国に仕えるものです。謹んで意見を申し上げます」と言うと、伯爵・子爵・男爵が公に会見する時の六礼を教えました。
向叔が教えたのは盟主が諸侯に対する時の礼で、子産が教えたのは諸侯が盟主に対する時の礼です。こうして楚が盟主になるための礼が整いました。
君子(知識人)は二人をこう評価しました「合左師(向叔)は先代を善く守り、子産は小国を善く補佐した。」
宋はかつて襄公が覇権を求めて諸侯を集めたため、盟主の礼を知っています。それを向叔が楚霊王に伝えたため、先代の業を守ったと評されました。また、鄭は小国として大国への服従を続けており、子産は小国としての礼をわきまえていたため、小国を善く補佐したと評されました。
 
霊王は椒挙を自分の後ろに控えさせ、過失があったら指摘するように命じましたが、会見が終わるまで何も指摘されませんでした。霊王が理由を聞くと、椒挙はこう言いました「臣は六礼(向叔と子産が教えた十二礼の半分。もしくは「向叔の六礼」と「子産の六礼」という意味で、教えられた全ての内容)を見たことがありません。どうやって指摘しろと言うのでしょうか。」
 
宋の太子・佐が遅れて来ました。霊王は武城で狩りをしており、わざと久しく太子・佐に会おうとしませんでした。
椒挙が霊王に対して無礼を謝るように進言したため、霊王は使者を送って太子・佐にこう伝えました「武城で宗祧(宗廟)の事がありました(宗廟の祭祀のために狩りをしていました)。寡君は間もなく幣(宋国の貢物)を受領しに来ます。接見が遅くなることを謝ります。」
 
徐子の母は呉女だったため、楚霊王が徐子の二心を疑い、申で捕えました。
 
楚霊王は諸侯の前で驕慢な態度を見せました。
椒挙が諫めて言いました「六王(夏啓・商湯・周武・成・康・穆)と二公(斉桓・晋文)の事(前例。教え)は、諸侯に礼を示すためにあり、諸侯は礼があるから命に従うのです。夏桀(夏王・桀)は仍で会を開いて有緡に背かれ、商紂(商王紂)は黎で蒐して東夷に背かれ、周幽西周幽王)は大室(崇山)で盟して戎狄に背かれました。全て諸侯に驕慢な態度を示したから、諸侯がその命を棄てたのです。今、主君も驕慢ですが、これでは成功できません。」
霊王は諫言を無視しました。
子産が向叔に言いました「楚を畏れる必要がなくなりました。驕慢で諫言を聞くこともできないようなら、十年ももちません。」
向叔が言いました「その通りです。十年の間、驕慢を続けなければ、その悪は遠くまで伝わりませんが、(十年も驕慢であり続けて)悪が遠くまで伝わったら、人々から棄てられることになります。善もまた同じで、徳が遠くまで伝わったら、興隆することができます。」
 
[] 秋七月、楚霊王が蔡侯(霊侯)、陳侯(哀公)、許男(悼公)、頓子、胡子、沈子と淮夷を率いて呉を攻撃しました。宋の大子・佐と鄭簡公は先に帰国し、宋の華費遂と鄭の大夫が従軍しました。
霊王は屈申(屈蕩の子)に朱方を包囲させます。
 
八月甲申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の八月に甲申の日はありません)、朱方が陥落しました。斉から亡命していた慶封が捕えられ、その家族が滅ぼされます。
霊王が慶封を晒し者にしてから処刑しようとすると、椒挙が言いました「欠点がない者が、人を戮(処刑)することができると言います。慶封は君命に逆らってここに来ました。戮に黙って従うとは思えません。醜聞が諸侯に広まるかもしれないのに、なぜそうするのですか。」
霊王は諫言を聞かず、慶封に斧鉞(刑具)を背負わせると、諸侯の陣営を歩きまわらせてこう言うように命じました「斉の慶封のようになってはならない。彼はその君(荘公)を弑殺し(実際に荘公を殺したのは崔杼ですが、慶封もその一党として同罪とみなされていました)、孤児(まだ若い景公)を弱め(国君の権力を奪い)、大夫と盟した(大夫に対して崔杼と慶封に協力するように強制しました)。」
ところが慶封はこう言いました「楚共王の庶子・囲(霊王)のようになってはならない。彼はその君であり、兄(康王)の子にあたる麇(郟敖)を弑殺し、その地位を取って代わって諸侯と盟した。」
霊王は人(『史記・楚世家』によると弃疾)を送ってすぐに処刑させました。
 
霊王が諸侯を率いて頼国(または「厲」)を滅ぼしました。『資治通鑑外紀』によると、頼は子爵の国です。
頼子は両手を後ろで縛って口に璧玉をくわえ(降伏の姿です)、士は袒して(上半身を裸にして)(棺)をかつぎ、楚の中軍に入りました。
霊王が椒挙にどう対応するべきか聞くと、椒挙はこう答えました「成王が許を攻略した時(東周恵王二十三年・前654年)、許の僖公もこのようにしました。成王は自ら縄を解き、璧を受け取り、櫬を焼き棄てました。」
霊王はこれに従い、頼子を受け入れました。頼国は鄢に遷されます。
 
霊王は許国を頼に遷そうとし、韋龜(子文の玄孫)と公子・棄疾に命じて許のために築城させました。
その後、霊王は軍を率いて帰還しました。
申無宇が言いました「楚の禍はここから始まる。諸侯を召したら集まり、他国を討伐したら攻略し、辺境に築城しても諸侯は誰も反対しなかった。王の心に背く者がなくなって、民は安心して生活できるか(逆らう者がいなければ、霊王はますます民を酷使するようになる)。民の生活が安定しなくなったら、王命に堪えられる者はいなくなり、禍乱を招くことになる。」
 
[] 莒の内争を経て即位した著丘公(東周景王四年・前541年参照)は、(元は姒姓の国ですが、莒に滅ぼされました)を慰撫しませんでした。
そのためが莒に叛して魯に帰順しました。
九月、魯がを領有しました
 
[] 鄭の子産が「丘賦」を作りました。「丘賦」というのは恐らく魯の「丘甲」と同じで、軍賦を徴収する制度です。
鄭の国人は子産を謗って言いました「その父(子国)は路で死んだのに(尉氏に殺されました。東周霊王九年・前563年参照)、彼自ら蠆尾(蠍の尾。人を害する存在)となって国に命令している。この国はどうなってしまうのだろう。」
大夫・子寬(渾罕)がこの事を子産に話すと、子産はこう言いました「心配はいらない。社稷に対して利があるのなら、死生を気にすることはない。善を行う者は度(法制)を改めないから成功できるという。民は放縦にしてはならず、度は改めてはならない。『詩(佚詩)』にはこうある『礼と義において間違いがなければ、他人の批評を気にすることはない(礼義不愆,何恤於人言)。』私には改めるつもりはない。」
子寛は後にこう言いました「国氏(子産は子国の子で、国氏を名乗りました)は先に亡ぶだろう。君子が涼(酷薄・軽率)という状態の上に法を作ったら、最後は貪(貪婪)になる。貪の上に法を作ったら、その結果は言うまでもない。姫姓の国においては、蔡、曹、滕が先に亡ぶだろう。これらの国は大国の圧力を受けながら礼がないからだ。そして鄭は、衛より先に亡ぶだろう。大国の圧力を受けながら法がないからだ。(鄭の)政は法に則らず、(個人の)心によって決められている(鄭の政策は旧制に則らず、子産個人の考えで決められている)。民にはそれぞれ心があるのだ。このままでは、上を尊重することなどできない(執政者が心のままに政治をするので、民も旧制を無視して心のままに行動するようになり、下が上の命令を聞かなくなる、という意味です)。」
 
 
 
次回に続きます。