春秋時代200 東周景王(二十二) 晋楚の婚姻 前537年(2)

今回は東周景王八年春の続きからです。
 
[] 晋の韓起(韓宣子)が晋女を楚に送り、叔向が介(副使)になりました。
鄭の子皮と游吉(子大叔)が索氏(地名)で晋の一行を労います。
游吉が叔向に言いました「楚王の汰侈(驕慢)は甚だしいので、注意した方がいいでしょう。」
叔向はこう言いました「汰侈が甚だしかったら、自分の身に禍を招きます。他の人に及ぼすことはできません。私は私の幣帛(財礼)を献上し(与えられた任務を全うし)、威儀を慎み、信を守り、礼によって行動し、恭敬によって始め、終わりを考慮し、全ての事においてこれを繰り返すだけです。従順でも儀を失わず(従順な態度が度を越さず)、恭敬でも威を失わず、訓辞(先人の教え)によって導かれ、旧法(故事。旧礼)に則って行動し、先王の事績を考え、二国(晋・楚)の事(強弱・利害)を量れば、相手が汰侈であっても私をどうすることもできません。」
 
韓起一行が楚に入りました。
楚霊王が諸大夫を朝廷に集めて言いました「晋は我が国の仇敵である。もしも我々が志を得ることができるのなら(晋に対して報復できるのなら)、他の事を考える必要はない。今、我が国に来たのは、上卿(韓起)と上大夫(叔向)である。韓起を閽(門の守衛)とし、羊舌肸(叔向)を司宮(宮内の官。宦官)にして晋を辱めれば、わしの志を満足できる。」
大夫が黙っている中、疆が言いました「我々に備えがあるのなら問題ありません。匹夫を辱める時でも、匹夫には備えがあるものです。国を辱めるのならなおさらでしょう。だから聖王は礼を行うことに務め、人を辱めようとせず、朝聘(朝見と聘問)では珪(玉器)があり、享(宴)には璋(礼器)があり、小国には述職(小国が大国を朝見すること)の決まりがあり、大国には巡功(大国が小国を巡ること)の決まりがあるのです。机(几。座席の肘置き)があっても寄りかからず、爵(酒器)が満たされても先に飲まず、宴には好貨(友好の礼物)があり、飧(食事)には鼎が用意され(複数の美食が用意され)、国境に入ったら郊労を行い、出る時には贈賄(礼物を送ること)するのが、最上の礼です。国家の敗亡とは道を失うことから始まり、禍乱によって招かれるのです。城濮の役で勝った晋は楚に備えなかったため、邲で敗れました。邲の役で勝った楚は晋に備えなかったため、鄢で敗れました。鄢の役以来、晋は備えを失わず、しかも礼を加え、和睦を重んじています。だから楚には報復の機会がなく、親善を求めたのです。既に姻親の関係を得たのに、それを辱めようとしたら、寇讎を招くことになります。どのように防備し、誰がその重責を負うのでしょうか。もし重責を負う人がいるのなら、辱めても問題ありません。しかしもしもいないのなら、王はよく考えるべきです。晋が王に仕える姿は、臣(私)が思うには充分満足できるものです。諸侯を求めたら集まり、婚姻を求めれば娘を進め、晋君自ら送り出し、上卿と上大夫が我が国まで来ました。それなのに辱めようというのなら、王には備えが必要です。そうでなければどうなるとお思いですか。韓起の下には趙成(趙武の子)、中行呉(荀呉。荀偃の子)、魏舒、范鞅、知盈(五卿。三軍の将佐)がおり、羊舌肸(叔向)の下には祁午、張趯、籍談、女斉、梁丙、張骼、輔躒、苗賁皇(七人とも大夫)がおり、皆、諸侯の選(どこの国に行っても選ばれるべき良臣)です。韓襄(韓無忌の子)が公族大夫となり、韓須(韓起の子。公族大夫)が命を受けて使臣になりました(東周景王五年・前540年、斉に行きました)箕襄、邢帯、叔禽、叔椒、子羽(韓氏の一族)は全て大家で、韓氏には七邑の賦(収入)があり、どの邑も大県です。羊舌の四族(銅鞮伯華・叔向・叔魚・叔虎兄弟)も皆、強家です。晋がもし韓起と楊肸(叔向。羊舌肸は楊を采邑としたため、楊氏を名乗りました)を失ったら、五卿・八大夫が韓須と楊石(叔向の子)を助け、十家(実際は韓氏七族と羊舌氏四族なので十一家です)九県(韓氏は七邑をもち、羊舌氏は二邑を治めていました)と長轂(兵車)九百乗を率い、その他四十県の兵車四千乗が国を守り、武怒を奮って大恥に報いるでしょう。伯華(叔向の兄)が策謀を行い、中行伯(中行呉)と魏舒が指揮をとれば、失敗はありません。王が親善を怨恨に変え、礼を無視して寇(敵)を招き、しかも必要な防備をせず、群臣を敵の捕虜にさせることで君心を満足させるのも、悪いことではありません。」
霊王が言いました「不穀(帝王の自称)の誤りだ。大夫がこれ以上言う必要はない。」
霊王は韓起を礼遇しました。
叔向に対しては、難しい質問をして困らせようとしました。しかし博学な叔向に敵わないと知り、叔向にも厚く礼を用いました。
 
韓起が帰国する時、鄭簡公が圉で慰労しようとしましたが、国君の慰労を受けるのは礼から外れると考え、敢えて会いませんでした。
 
[] 鄭の子皮(罕虎)が斉に行き、子尾氏の女性を娶りました。子皮は老齢なので、再婚のはずです。
晏嬰が度々子皮に会いに行ったため、陳無宇(陳桓子)がその理由を聞くと、晏嬰は「彼は善人を用いることができる(子産に政治を任せたことを指します)民の主だからです」と答えました。
 
[] 夏、莒の牟夷が牟婁、防、茲を挙げて魯に出奔しました。魯はこれを受け入れます。
 
莒が晋に訴えたため、晋平公は朝見に来ていた魯昭公を拘留しようとしました。しかし士鞅(范献子。范叔)が反対して言いました「いけません。朝見に来た者を捕えたら『誘(誘い出して捕えること)』になります。師(軍)を使わず『誘』によって討伐を成功させるのは『惰(怠惰。怠慢)』です。盟主でありながらこの二つを犯すのは、相応しくありません。魯君を帰らせて、機会があったら師を用いて討伐するべきです。」
晋平公は魯昭公を帰らせました。
 
秋七月、魯昭公が晋から魯に帰りました。
 
莒が魯を攻撃しましたが、自軍の防備を怠りました。
戊辰(十四日)、莒軍が陣を構える前に魯の叔弓が攻撃を仕掛け、蚡泉(または「賁泉」「濆泉」。魯と莒の国境)で莒軍を破りました。
 
[] 秦景公が在位四十年で死に、子の哀公(または「公」)が継ぎました。
 
[] 冬十月、楚霊王が蔡侯(霊侯)、陳侯(哀公)、許男(悼公)、頓子、沈子、徐人および東夷を率いて呉を攻撃しました。棘・櫟・麻の役に報復するためです。
射が繁揚(繁陽。繁水の北)の軍を率いて夏汭で楚霊王と合流しました。
越の大夫・常寿過(常寿が氏)も軍を率いて瑣(楚地)で楚軍と合流しました。
 
呉も兵を動員しました。
それを聞いた疆が兵を率いて迎撃しましたが、防備が間に合わず、鵲岸(長江北岸)で呉軍に敗れます。
楚霊王は馹(駅車)で羅汭(汨羅)に急行しました。
 
呉子(呉王・夷末)弟・蹶由(または「蹶融」)に楚軍を慰労させました。しかし楚霊王は蹶由を捕え、殺してその血を祭祀用の鼓に使うことにしました。
霊王が使者を送って蹶由に聞きました「汝がここに来ることを卜った時、吉と出たか?」
蹶由が答えました「吉です。寡君(呉王)は貴君が敝邑で治兵しようとしている(呉に兵を用いようとしている)と聞いて、守亀(天子や諸侯が卜に使う亀)で卜い、こう言いました『余は急いで人を送って犒師(軍を慰労すること)し、楚王の怒りの程度を確認して備えを設けようと思う。吉凶を教えてほしい。』その結果、亀兆は『吉』と出たので、寡君は『勝利が予知できた』と言いました。もしも貴君が喜んで使臣を迎え入れたら、敝邑は油断して危険を忘れ、敗亡まで日がなくなったでしょう。しかし今、貴君は震電のように激しく怒り、使臣を捕えて虐げ、祭鼓に使おうとしています。そのおかげで呉は備えが必要だと知りました。敝邑は羸弱ですが、あらかじめ城壁の修築や兵器の整備を完了させることができれば、(楚の)師を止めることができます。患難にも平安にも備えがあれば吉です。そもそも呉の社稷を卜ったのであり、一人の吉凶を卜ったのではありません。使臣が捕えられてその血で軍鼓を祭り、そのおかげで敝邑が備えの必要を知って不虞(不測の危難)から守ることができるのなら、これ以上の吉はありません。
また、国の守亀に卜えないことはありません。しかし臧否(吉凶)がどこにあるのかは、誰にもわかりません。城濮の兆は邲で実現しました(城濮の戦いの前に楚が卜ったところ、吉と出ました。しかし楚は城濮で敗れ、邲で勝ちました)。今回の出使においても、必ず卜の結果が実現します(私が殺されるという凶が起きたとしても、呉が勝って吉が実現します)。」
霊王は殺すのをやめました。
 
楚軍が羅汭を渡りました。沈尹(沈県の令)・赤が霊王に合流し、萊山に駐軍します。射が繁揚の師を率いて先に南懐に入り、楚の大軍がそれに続いて汝清(長江と淮水の間)に至りました。しかし呉には既に備えがあったため、進攻できません。
楚霊王は坻箕之山で閲兵して武威を示してから、功無く引き上げました。蹶由も楚に連れて行かれます。
霊王は呉の攻撃を恐れて沈尹・射(沈尹・赤と同一人物か、尹が二人いたのか分かりません)を巣で待機させ、疆を雩婁で待機させました。
 
[] 晋に出奔していた秦の后子(東周景王四年・前541年参照)秦に帰りました。秦景公が死んだためです。
 
[十一] 『資治通鑑前編』によると、この年、孔子が学問を志しました。
これは『論語・為政(第二)』の「私は十五歳で学問を志した吾十有五而志于学)」という言葉が元になっています。
 
 
 
次回に続きます。